シシトキ川に残るレンガ造石橋 長崎市銀屋町
次は布袋厚著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。最後の図とも。
長崎では道ばかりでなく、川のなかまで石が張られている。中通り商店街と寺町のあいだを流れる「シシトキ川」がそれである。この川は中島川の支流となっている銅座川の、そのまた支流である。…
川幅は約二メートルで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅がせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。
地獄川の桜町、栄町に残るレンガ造石橋2つについては、この前この抜粋によりすでに報告している。 https://misakimichi.com/archives/787
今度は本家のシシトキ川にもレンガ造石橋があった。場所は眼鏡橋のひとつ下流、袋橋からまっすぐ寺町の方へ行った通り。逆にいうと幣振坂から寺町通りを突き切って下り、シシトキ川と合う所。
銀屋町5街区にくんち出し物鯱太鼓倉庫を兼ねた銀屋町公民館がある。長崎市さるく観光推進課馬見塚氏から聞いたこの角の橋。地獄川と同じレンガ造石橋が、写真のとおり立派に残っていた。長さ1.8m、幅員5.7mほど。
シシトキ川やこれに架かる橋についてHPやブログは少しある。さるくマップも通称・裏めがね橋(以前、めがね屋だった時に架けられためがね形の最近の橋)は紹介しているが、銀屋町公民館角のこの橋が、明治時代の本物の石橋であるとまったくふれてない。
上流と下流をたどった。上流の諏訪小学校表通りと裏通りは古い桁橋だった。長崎さるくマップブック30頁の「ししとき川」説明は次のとおり。
⑤ ししとき川
1600年代に長崎奉行により、火事対策として作られた人工の川。明治には川底に石畳が敷かれ、清らかな水流が保たれるようになったといいます。当時の長崎の下水道技術の高さがしのばれます。かつては「川端通り」と呼ばれ。共同井戸などもあったそう。
(追 記 平成20年6月19日)
銀屋町公民館角のこのレンガ造橋の名前がわかった。史料はまた長崎楽会西山3丁目中尾氏が見つけてくれた。長崎手帖社「長崎手帖 No.13」昭和33年7月10日発行5頁の「茶のみ話」の中に次のとおりあった。長崎手帳編集者の田栗杢作氏文と思われる。
長崎手帖によると、この橋名は「稲荷橋」と出てくる。川端に稲荷神社があり昭和60年頃、鯱太鼓倉庫を兼ねた公民館をここに新築したため、稲荷神社は屋上へ祀り直したことを、私は職務上から記憶していた。
一 目 七 橋
これは橋好きの私に、岩永さんがわざわざ明治二十一年刊行の長崎年表を見せて下さったものです。昔は編笠橋附近から川下の眼鏡橋の方を眺める石橋風景を「一目七橋」と言ったらしいので、見せて貰った年表の鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋も、昔は一目におさまったのではないかと思って、表題を借りました。
屠鹿川に架った橋は、その名はおろか姿すら薄くなっていますが、七橋とも鍛冶屋町に架って、上流から言いますと、磨屋町のは屠鹿(とろく)橋、銀屋町のが稲荷橋、東古川町のは川添橋、本古川町のは鍛冶橋、榎津町の孕(はらみ)橋、萬屋町のは斜(ななめ)橋、アーケードの下の東浜町から架っているのは浜口橋です。 (西古川町 金物店 岩永関夫氏)