長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:6102 鹿児島紡績所(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6102 鹿児島紡績所(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6102 鹿児島紡績所(1)

目録番号:6107 鹿児島紡績所(2)

内田九一の西国・九州巡幸写真「鹿児島 磯の別邸 側に製鉄所、紡績所アリ」

■ 確認結果

以上の3点。特に疑問というわけではないが、鹿児島市仙巌園へ行ったついでに、付近の現地確認をした。
この項は、本ブログ次を参照。「旧鹿児島紡績所技師館・鹿児島紡績所跡  鹿児島市吉野町磯」
https://misakimichi.com/archives/4115

いずれも、鹿児島市街から仙巌園へ向かう磯街道という現在の国道10号鳥越トンネル上あたりの旧街道下りや、磯海水浴場あたりから撮影された鹿児島紡績所や磯の別邸「仙巌園」の光景であろう。
明治5年(1872)明治天皇の西国・九州巡幸に随行した内田九一撮影「鹿児島 磯の別邸 側に製鉄所、紡績所アリ」は、同じ写真が仙巌園に「尚古集成館所蔵」としても展示されていた。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 72,73P 肥後矢部の製材所

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 72,73P 肥後矢部の製材所

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第五章 山鹿・矢部
72P  肥後矢部の製材所(1)
矢部郷の鶴ガ淵。緑川上流部の津留は、支流の内大臣川などが合流する地点。猿ガ城、鬼ガ城、獅子ガ城と呼ばれる岩峰が屹立し、渓流と奇岩怪石の景勝地であった。緑川舟運の起点で、物資輸送の勘定所も置かれ、年貢米の積み出しや材木の筏流しでもにぎわった。左手奥が獅子ガ城、右手奥が鬼ガ城の山裾。
060 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/220mm×290mm 大

73P  肥後矢部の製材所(2)
奥の岩峰が猿ガ城。緑川に面して家並があり、中央が原題「Woodcutting mil」の主題である製材所で、角柱や板材が積み上げられている。川に下る石垣には巨大な柱材が集積され、これから筏を組んで運ぶのであろうか。  
063 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/220mm×290mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
72P「肥後矢部の製材所(1)」と、73P「肥後矢部の製材所(2)」は、熊本県上益城郡矢部町(現山都町)の緑仙峡下流部にある鶴ガ淵橋付近の風景である。淵で流れが緩やかとなる左岸に近年まで製材所があった。

鶴ガ淵、猿ガ城、鬼ガ城、獅子ガ城の位置関係は、地形図を参照。72P「肥後矢部の製材所(1)」と、73P「肥後矢部の製材所(2)」は、同じ製材所を対岸からカメラの向きを変えて撮影している。現在の「鶴が淵橋」は、少し上流へ架設されている。
72P「肥後矢部の製材所(1)」の、左手奥は「獅子ガ城」。右手奥も「鬼ガ城の山裾」には間違いない。
73P「肥後矢部の製材所(2)」の、奥の岩峰が「猿ガ城」も間違いないようだ。少し高いところから撮影している。現在では右手奥に猿が城キャンプ場があり、その上に「鮎の瀬大橋」が見える。

マンスフェルトアルバムの100点以上に及ぶ貴重な古写真を、長崎大学附属図書館が今もってデータベースで公開しないのは、問題があるだろう。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第五章 山鹿・矢部
70P  肥後山鹿の風呂屋(1)
山鹿温泉桜湯。桜湯は明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋で、多くの人々に親しまれていた。昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少。現在、再び木造の湯屋として復元された。  
061 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/210mm×163mm 大

71P  肥後山鹿の風呂屋(2)
山鹿温泉は平安時代の末に、鹿が湯浴みしていることから発見されたと伝えられる古い温泉場である。豊前街道の宿場町であったことから、全国にも広く知れわたった。江戸時代から湯治客でにぎわい、「肥後国誌」には「湯療ノ貴賎男女昼夜不絶」と記されている。  
062 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/215mm×163mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
70P「肥後山鹿の風呂屋(1)」と、71P「肥後山鹿の風呂屋(2)」は、現在の山鹿温泉元湯「さくら湯」である。熊本県観光サイトなごみ紀行による施設案内は、次のとおり。

「さくら湯」は、今から約370年前に肥後細川藩初代藩主(細川忠利公)が山鹿の温泉を気に入り、「御茶屋」を新築したのがその歴史の始まりで、約250年前に書かれた「山鹿町絵図」には「御前湯」として記録されており、大改修が行われた明治3年から昭和48年に取り壊されるまでの約100年間にわたって山鹿市民の大切なコミュニケーションの場として愛され親しまれていた市民温泉で、「八千代座」と共に湯の町山鹿のシンボルでもありました。
その後、大規模都市再開発事業により昭和50年に、鉄筋コンクリート造のさくら湯(温泉ビル)が完成しましたが、当初の予想以上に老朽化が進んだことを契機に、往時のさくら湯を再生しようという計画が持ち上がり、…「さくら湯再生基本構想」により、…平成23年7月より「さくら湯建設工事」に着手しまして、平成24年11月23日(祝)開湯(オープン)しました。

さくら湯パンフレットによる「さくら湯物語」も参照。これは次HPに「さくら湯の歴史」としてある。現在の経営主体は、一般財団法人山鹿市地域振興公社と思われる。
http://sakurayu.coresv.com/?page_id=244
これら資料によると、長崎大学の古写真解説は、次の点に疑問がある。

1 山鹿温泉さくら湯は、明治3年〜5年 地域全体が工事にかかわり、市民温泉として生まれ変わった。明治5年(1872)に竣工しているので、撮影年代はその後であろう。人力車の普及もこの頃である。
2 「明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋」とあるが、それは明治31年 道後温泉の棟梁・坂本又八郎氏を招き大改修を実施した後のことではないか。
3 「昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少」とは、「昭和46年8月に起きた市内中心部の大火により再開発議論が活発化。昭和48年、大規模再開発事業によりさくら湯の解体が始まります。昭和50年に再開発ビル(温泉プラザ山鹿)が完成し、さくら湯はビル内に造られました。その後、平成21年11月まで、ビル内で営業を続けました」というのが実情である。
4 マンスフェルトは、1866年7月、ボードインの後任として長崎の精得館に赴任した。5年の任期を終え、1871年、3年間の契約で熊本古城医学校の創始にかかわった。一時帰国し、1876年に京都(府立)療病院の教師として3年契約で赴任した。熊本に滞在していた間に、マンスフェルトが撮影した写真と考えられないことはない。
5 2枚の同じ古写真は、現在のさくら湯パンフレット、説明板にも掲載され、「明治初期のさくら湯(人力車も見えます)」または「外湯の大改修が行われ、さくら湯が誕生しました」と説明がある。資料室にも展示されていたが、山鹿市は撮影者まで調査していないようである。

長崎外の古写真考 ベアトの幕末 222頁 神奈川の街道

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長崎外の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 222頁 神奈川の街道

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
222頁  神奈川の街道 (長崎大学附属図書館蔵)

目録番号:6212 神奈川の街道
〔画像解説〕 なし

■ 確認結果

山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
222頁「神奈川の街道」(長崎大学附属図書館蔵)は、長崎大学データベース目録番号:6212「神奈川の街道」の作品だが、ともに画像解説はない。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2330

目録番号:6212「神奈川の街道」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊84頁に掲載があり、タイトルを同じとしたようだが、写真集とも画像解説がないので場所がわからない。
横浜開港資料館HPの「3.F.ベアト幕末関係画像集」によると、この写真は「神奈川台町の関門 幕末期」【請求記号】Bc1-216-48 として解説している。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/03_09.html

横浜の関門は、西ノ橋、海岸通4丁目のほか神奈川宿の神奈川台下や戸部村字石崎にも置かれていた(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。青木町は神奈川台町のことのようだ。
「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社1987年刊の53頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 55、56:神奈川台町の関門

55(長崎大学データベース目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の作品 掲載略) 神奈川開港後、警備を厳重にするために設けられた。被撮影地点が神奈川であることを疑問視する人もいるが、「ファー・イースト」1871年1月5日号に同一地点が写っている写真がある。後者では右手の崖が鉄道用地埋め立てのための土取り場として削りとられている。(ベアト撮影)
56(長崎大学データベース目録番号:6212「神奈川の街道」の作品) 写真55とは別なもうひとつの関門。左手が山側、右手が海側である。下田屋の看板が見える。(ベアト撮影)

長崎外の古写真考 ベアトの幕末 144頁 東海道

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長崎外の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 144頁 東海道

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
144頁  東海道 (厚木市郷土資料館蔵)

■ 確認結果

山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
144頁「東海道」(厚木市郷土資料館蔵)は、神奈川県足柄下郡箱根町湯本山崎の風景と思われる。資料「古老が語る 箱根山崎の歴史」と、現在の写真がある。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2669

長崎大学データベースでは、目録番号:2110「山間の民家」と、次の目録番号:5044「箱根街道(3)」に同じような松並木の街道の風景がある。
これは、HP「OLD PHOTOS of JAPAN」にある〔撮影者:江南信國〕の古写真だろう。

長崎外の古写真考 ベアトの幕末 140頁 駕籠が行く

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長崎外の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 140頁 駕籠が行く

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
140頁  駕籠が行く (放送大学附属図書館蔵)
〔画像解説〕 
東海道を行く旅人と松並木の風景。

113頁  戸塚 (横浜美術館蔵)
〔画像解説〕
東海道、日本橋から5番目、距離にして10里半(約42キロメートル)の宿場町戸塚宿の風景。

■ 確認結果

書評は、2013年1月20日付朝日新聞。山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
以下、疑問がある作品を、数点取り上げる。

140頁「駕籠が行く」(放送大学附属図書館蔵)は、東海道を行く旅人と松並木の風景である。
113頁「戸塚」(横浜美術館蔵)と、同じ近くの場所ではないか。遠い背景が似ているし、松の木の同じような枝ぶり?が確認できる。
140頁「駕籠が行く」も、宿場町「戸塚」付近の風景と思われるので、検証願いたい。

長崎外の古写真考 目録番号:6490 竹川町

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6490 竹川町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6490 竹川町
〔画像解説〕  なし

明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋
208頁  E06 共同社
〔画像解説〕
「共同社」「近事評論」「与論新論」と書かれた看板がかかる。共同社は尾張町2丁目の南端(現銀座6丁目)にあった新聞社。手前の道は現6丁目と7丁目の間の現交詢社通りである。「近事評論」は、明治9年6月創刊で、同16年5月終刊。明治9〜15年頃。M

■ 確認結果

目録番号:6490「竹川町」は、ボードインコレクションだが、タイトル「竹川町」以外、画像解説がない。
石黒敬章著「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」角川学芸出版平成23年発行の208頁「E06 共同社」に掲載があり、画像解説は上記のとおり。

長崎外の古写真考 目録番号: 382 東京の道路

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 382 東京の道路

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 382 東京の道路
〔画像解説〕
英語で「東京」という解説だけである。

明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋
22頁  F08 吹上御苑を囲む段堀
〔画像解説〕
吹上御苑の西側と北側の内堀(半蔵門と千鳥ヶ淵)には、その内側にもう一筋、半蔵門から三日月堀まで段堀がめぐらされていた。正徳年間(1711〜1716)に掘られたらしい。写真は北側の段堀で代官町の側から西に向かって写したもの。明治10年頃か。C

■ 確認結果

目録番号: 382「東京の道路」は、英語で「東京」という解説だけである。
石黒敬章著「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」角川学芸出版平成23年発行の22頁「F08 吹上御苑を囲む段堀」に掲載がある同段堀周りの直線部分の道路を、逆向きに撮影しているのではないか。

これだけの同じような長い赤レンガ塀囲みの内部は、「吹上御苑」が十分考えられる。堀の幅が狭いのは、内堀(半蔵門と千鳥ヶ淵)の内側にもう一筋、めぐらされていた「半蔵門から三日月堀までの段堀」のためだろう。
道路は広いが舗装がなく、車の多く通るような道ではない。橋が架かった入り口門もあり、場所特定を地元にお願いしたい。

長崎外の古写真考 幕末・明治 107頁 瀬戸内海

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長崎外の幕末・明治期古写真考 幕末・明治 107頁 瀬戸内海

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

写真で見る 幕末・明治
107頁  瀬戸内海  1880年代 金幣アルバム
〔画像解説〕
小島が点在する美しい景観は瀬戸内海の特色。遠くに小舟が浮かぶこの写真は、静かさを感じさせる。瀬戸内海は国立公園として、今も美しさを保っているが、瀬戸大橋が架かるなど、景観は変わりつつある。

目録番号:3221 備後鞆津(2)
〔画像解説〕
福山・鞆港の東側にある大可島を東浜から望む。大可島は南北朝期に南朝方の拠点として大可島城が築かれた。江戸時代には,円福寺や鞆港出入りする船舶を監視するための船番所が置かれた。写真では現在では干拓により消滅した各商家からの突出し突堤や階段を写されている。

■ 確認結果

世界文化社「写真で見る 幕末・明治」1990年発行の107頁「瀬戸内海」は、瀬戸内海でも具体的な撮影場所の説明がない。
データベースの目録番号:3221「備後鞆津(2)」の解説どおり、福山・鞆港の東側にある大可島を東浜から望んでいる。

横浜開港資料館・(財)横浜開港資料普及協会編「彩色アルバム 明治の日本 <横浜写真>の世界」平成2年発行の157頁「西日本 4 鞆津」の解説も、次のとおり。
4 鞆 津
〔画像解説〕
〔4〕〔5〕は尾道の東方沼隈半島先に位置する鞆津(現福山市内)で、〔4〕は鞆の湊入口北に突出した陸繋島の大可(おおが)島。南北朝の動乱期に南朝方が城を占拠したことで知られる。現在、城跡は円福寺境内となっている。…

長崎外の古写真考 幕末・明治 69頁 街道からの富士

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長崎外の幕末・明治期古写真考 幕末・明治 69頁 街道からの富士

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

写真で見る 幕末・明治
69頁  街道からの富士  ファサリ商会
〔画像解説〕
優美な富士山と松並木、美しい杉橋と農家の組み合わせがすばらしい。現在ではほとんど見られなくなった風景である。

目録番号: 169 鈴川河合橋からの富士山(1)
〔画像解説〕
鈴川は駿河湾に面し、潤井川河口左岸に位置する旧幕府領。富士、松並木、木橋、藁葺きの家、川船と船頭と、美しく、凝った構図になっている。なお、この角度、構図の富士の別の写真が、小沢健志監修『写真で見る幕末・明治』(69頁)に「街道からの富士 ファサリ商会」として紹介されている。

目録番号:4233 東海道の橋からの富士山
〔画像解説〕
富士市鈴川にある河合橋(かわいばし)から北方の富士山を遠望したもの。河合橋は沼川を渡る東海道に架けられた橋である。西側の橋の袂には特徴的な松が生え、東側の袂は船着場となり茅葺き屋根の小屋が建つ。橋上に馬車鉄道の軌道がないため、明治23年以前の撮影である。

■ 確認結果

世界文化社「写真で見る 幕末・明治」1990年発行の69頁「街道からの富士  ファサリ商会」は、街道は東海道だが、どこの橋か説明していない。

データベースの目録番号: 169「鈴川河合橋からの富士山(1)」や、目録番号:4233「東海道の橋からの富士山」の解説どおり、現富士市鈴川にあった河合橋(かわいばし)である。
データベースのタイトルは、統一が必要。