長崎外の古写真考 目録番号:6212 神奈川の街道 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6212 神奈川の街道 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6212 神奈川の街道

目録番号:6326 神奈川台町の関門(3)
〔画像解説〕   関連作品の目録番号:1441 神奈川台町の関門(1)から
開港後の万延元年(1860)、警備を厳重にするために設けられた。右手が山側、左手が海側である。神奈川宿は海蝕崖の上に形成された町で、台町はその一部である。この写真に添えられた解説シートには、「神奈川は細長い街で、かなりの規模の村であり、東海道に面している。茶屋や道路沿いに旅館も多い。江戸から16〜18マイル位の距離なので、江戸に到着する前日に宿泊したり、江戸から出発して最初に泊まる場所である。しかし商店は小さく、茶屋も東海道のどこにでも見られるような良いものはない」と記されている。”The Far East”1871年1月5日号に同じ地点の写真が掲載されているが、そこでは右手の崖が、鉄道用地埋立のための土取場として削り取られ、垂直に地肌を見せている。崖の上には埋立工事を請け負った高島嘉右衛門の屋敷が設けられたことから、高島台の地名が生まれた。

■ 確認結果

目録番号:6212「神奈川の街道」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊84頁に掲載があり、タイトルを同じとしたようだが、写真集とも画像解説がないので場所がわからない。
横浜開港資料館HPの「3.F.ベアト幕末関係画像集」によると、この写真は次と同じ「神奈川台町の関門 幕末期」【請求記号】Bc1-216-48 として解説している。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/03_09.html

目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊83頁に掲載があり、タイトルは「横浜から金沢八景に向かう街道」となっている。
同じ写真を当時、模写した絵があり、須藤功氏編著「図集 幕末・明治の生活風景 外国人のみたニッポン」1995年刊248頁による解説は次のとおり。
「関門——横浜開港直後に神奈川宿青木町にもうけられた関門。文久2年(1862年)の生麦事件の際、島津侯の行列の通過を待って木戸を閉じ、外国人の追撃に備えたこともあった。明治4年、他の関門とともに廃止。右手の山は、後に鉄道用地埋め立てのため削り取られた。 出典
49」

神奈川台の関門跡には、現在、横浜市が設置した碑と説明板がある。説明板の掲示写真は目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の方。 
「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された」

横浜の関門は、西ノ橋、海岸通4丁目のほか神奈川宿の神奈川台下や戸部村字石崎にも置かれていた(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。青木町は神奈川台町のことのようだ。
以上が諸資料に掲載している「神奈川台町の関門」の概要。データベースには、目録番号:1441「神奈川台町の関門(1)」、スチルフリード撮影の目録番号:3998「神奈川台町の関門(2)」もあるので参照。
目録番号:6212「神奈川の街道」と、目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」は景色が違う。撮影年代は1863年と1865年。同じ場所の関門なのか。写真の向きもあろうが、いろいろな解説があり理解しにくい。

なお、「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年刊の53頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 55、56:神奈川台町の関門

55(目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の作品) 神奈川開港後、警備を厳重にするために設けられた。被撮影地点が神奈川であることを疑問視する人もいるが、「ファー・イースト」1871年1月5日号に同一地点が写っている写真がある。後者では右手の崖が鉄道用地埋め立てのための土取り場として削りとられている。(ベアト撮影)

56(目録番号:6212「神奈川の街道」の作品) 写真55とは別なもうひとつの関門。左手が山側、右手が海側である。下田屋の看板が見える。(ベアト撮影)