唐人屋敷跡の石橋と石門 長崎市館内町
長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。一帯で見る石橋と石門。
「土神堂」と「観音堂」に石橋と石門がある。石橋は近年、再建?された桁石橋である。
後の方は、地元の富豪森伊三次氏が寄贈した天后堂裏の堀にある「榮橋」(階段橋)、「森伊橋」(桁石橋)と、少し下流のアーチ式石橋「森橋」。
次も参照。 https://misakimichi.com/archives/614
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「森橋」の説明は次のとおり。
第 85 番 森 橋 長崎市館内町18〜十人町11
明治25年 長 さ 約2.5m 幅 員 約2.0m 森伊三次氏が寄贈した橋
地元出身の森伊三次氏が寄贈した橋は、同じ川の上流に、もう2橋ある。アーチ橋ではないのだが、これも石橋。榮(さかえ)橋と森伊橋。
森伊三次氏とは、とんな人?
明治3年、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受けて道路・橋を整備した地元の富豪。
浦上駅の市内中心地側、現在の茂里町地区は、当時「浦上村里郷」と呼ばれていた。ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
開発当初は「森町」と呼ばれていたが、大正2年、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、自らの名前から里が茂(森)る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
明治30年、現在の浦上駅(旧長崎駅)〜長与駅まで九州鉄道が開通し、森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。