月別アーカイブ: 2008年11月

唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

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唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。一帯で見る石橋と石門。
「土神堂」と「観音堂」に石橋と石門がある。石橋は近年、再建?された桁石橋である。
後の方は、地元の富豪森伊三次氏が寄贈した天后堂裏の堀にある「榮橋」(階段橋)、「森伊橋」(桁石橋)と、少し下流のアーチ式石橋「森橋」。
次も参照。  https://misakimichi.com/archives/614
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「森橋」の説明は次のとおり。

第 85 番    森        橋   長崎市館内町18〜十人町11
明治25年   長 さ 約2.5m  幅 員 約2.0m  森伊三次氏が寄贈した橋
地元出身の森伊三次氏が寄贈した橋は、同じ川の上流に、もう2橋ある。アーチ橋ではないのだが、これも石橋。榮(さかえ)橋と森伊橋。

森伊三次氏とは、とんな人?
明治3年、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受けて道路・橋を整備した地元の富豪。
浦上駅の市内中心地側、現在の茂里町地区は、当時「浦上村里郷」と呼ばれていた。ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
開発当初は「森町」と呼ばれていたが、大正2年、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、自らの名前から里が茂(森)る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
明治30年、現在の浦上駅(旧長崎駅)〜長与駅まで九州鉄道が開通し、森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。

唐人屋敷跡  長崎市館内町

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唐人屋敷跡  長崎市館内町

長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。土神堂、福建会館、観音堂、旧石積み、天后堂、空堀、階段橋、アーチ式石橋の森橋など。現地説明板は次のとおり。

唐人屋敷跡

唐人屋敷は、元禄元年(1688)に密貿易を取り締まるため長崎村十善寺郷のこの地に造成され、同2年(1689)4月に完成した。敷地は8,015坪(のちに9,373坪に拡張)で、煉塀と矢竹来で二重に囲まれ、2階建の瓦葺き長屋が20棟あり、2,000人から3,000人の中国人を収容することができたという。
地主神を祀る土神堂のほか、東西の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂(関帝堂)が祀られている。

外国人居留地跡標石の所在マップと写真  東山手地区町並み保存センターに展示

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外国人居留地跡標石の所在マップと写真  東山手地区町並み保存センターに展示

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。
参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。
これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認したのが、前項までの報告である。

しかし、これには「東山手地区町並み保存会」が、平成18年9月5日現在で調査した標石の所在マップと写真があった。
「長崎市東山手地区町並み保存センター」(東山手町6番25号 入館無料)2階に展示されている。表題は『重要伝統的建築物保存地区 旧居留地内の居留地境・地番境』。
東山手の調査にかかり同センターを訪れた際、展示物をはじめて目にした。一部に未調査や相違する部分があるが、この資料(所在マップはクリック拡大)を写真により紹介する。
今後は同保存会と協力し、居留地内の標石調査を進めたい。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (77)〜(84)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (77)〜(84)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(77)〜(84)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (77)  国指定史跡「出島和蘭商館跡」 見当たらず要調査。
標石 (78)  同史跡 中央広場に屋外展示中。
標石 (79)  同史跡 旧長崎内外クラブ無料休憩所棟の軒下に埋め込みを確認。
標石 (80)  同史跡 見当たらず要調査。
標石 (81)  同史跡 見当たらず要調査。
標石 (82)  同史跡 ミニ出島側通り外塀下に屋外展示中。
標石 (83)  同史跡 見当たらず要調査。
標石? Q   同史跡 「第十一番 No11」の地番標。 無料休憩所棟と内外クラブ間の階段下に保管中
標石? R   同史跡 刻面不明。無料休憩所等と内外クラブ間の階段下に保管中。
標石? S   同史跡 刻面不明。無料休憩所等と内外クラブ間の階段下に保管中。
標石? T   同史跡 表門手前の右溝の角にある。標石らしい形状。

標石 (84)  東山手洋館群B棟は「東山手地区町並み保存センター」である。見当たらず要調査。
標石   U   参考 横断歩道下に現存するアーチ式石橋「大浦橋」の親柱。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (72)〜(76)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (72)〜(76)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(72)〜(76)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

長崎市籠町の広馬場商店街通りの左右。前の「長崎信用金庫広馬場支店」やお茶「山口園」などの建物は解体され、駐車場となっている。このため、新たに6本の地番標が見つかった反面、2本が消失している。
一帯で確認できた新しい地番標は、次のとおり。位置図を参照。

標石? K  刻面「五番 六番」 寸法は、15×17×17cm。標石(73)の奥。同じ造り。
標石? L  刻面「六番 七番」 寸法は、15×17×30cm。標石(74)の奥。同じ造り。
標石? M  刻面不明、「拾三番」か? 寸法は、16×?×16cm。
標石? N  刻面「拾三番 十四番」 寸法は、15×17×33cm。
標石? O  刻面「拾(三番) 拾(貮番)」 寸法は、15×18×15cm。
標石? P  刻面「拾壹(番) 拾貮(番)」 寸法は、?×18×20cm。

標石 (72) 十善会病院前の森米穀店店先にある。くくりつけた後ろのが本物。自治会婦人部が昭和46年3月修復しているが、みっともない格好となっている。何とかならないか。
次を参照。ここのは郷土史家・故永島正一先生の、思い入れがある大切な標石である。先生は「松ヶ枝町の豆腐屋の角に一本、…それに諫早の小曽根さんの庭に一本、これは浪ノ平小学校門脇にあった…」ことも記されている。
https://misakimichi.com/archives/93
標石 (75) 前のお茶「山口園」左横。駐車場となり、道路側に見当たらない。中に「拾(三番) 拾(貮番)」と刻面が違うOの標石が残っていた。
標石 (76) 太陽堂菓子店左横。駐車場となっていたが、2年前に靴店が建った。両店とも覚えがない。駐車場にした際、これも消失したのではないか。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (70)〜(71)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (70)〜(71)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(70)〜(71)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? D  唐人屋敷の天后堂。正門左角に(70)の標石「壱号」があるが、敷地の外を左から天后堂後ろへ回って行くと、赤煉瓦塀角にあと1本、「壱号」がある。
寸法は、11×17×35cm。
標石? E  Dの「壱号」と同場所。赤煉瓦塀の大きな角石に、「福建地堺」と刻まれている。
寸法は、24×24×100cm。稲佐の悟真寺唐人墓地にも「福建地堺」標石がある。
標石? F  天后堂への途中、手前右にアーチ石橋「森橋」へ行く路地がある。この角の石。路面と変らぬ高さになっているが、形状は標石?
標石? G  同路地を「森橋」に進むと、すぐ館内市場上の四つ角に「森」の新しい標石がある。一帯に「森橋」「森伊橋」を架けたのが、地元森伊三次氏。古い標石の修復か?
標石? H  「森」標石の対面角。「森田」「境」の標柱。下部を見ると古い石の上に、つぎ足して新しくなっている。
標石  (71) 館内市場近く、唐人屋敷の土神堂。現地に見当たらず。標石?E天后堂裏の「福建地堺」とは字も大きさも違う。調査要。
標石? Ⅰ  脇岬観音寺までの古道「みさき道」の道塚No.1。唐人屋敷から活水大学に上る石段道の登り口にある。地元の話や昭和38年6月発行「長崎手帖 第三十ニ号」の記録から、以前は変体仮名で「みさき道」と刻まれていたというが、損耗が激しくにわかに信じがたい。
参照 https://misakimichi.com/archives/93
標石? J  「みさき道」を上がって活水大学裏へ出る手前、「遠見番跡」近くにある。刻みは「明持ニ坪」。「明?」がわからない。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (65)〜(69)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (65)〜(69)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(65)〜(69)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石  (65)  オランダ坂登り口にある「東山手十三番館」。現在、リフォーム工事中で中へは入れない。入口門の左塀石垣下に標石は埋め込まれている。
標石  (66)  オランダ坂を活水短大正門近くまで登る。右方「東山手十三番館」の上手となる塀石垣下に標石は埋め込まれている。
(65)とも陶板プレートが付いていない。こここそプレートの設置が必ず必要なのではないか。
標石? C  大浦町2街区。聖三一教会のオランダ通り側にある。正面「USA」、上面「1928」(昭和3)と刻む。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (60)〜(64)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (60)〜(64)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(60)〜(64)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? A  大浦町10街区のNTT長崎病院裏。標石(63)の歩道対面側の溝の中に立つ。手前に渡した2本の石とともに何か不明。
石柱の大きさと風化具合が、南山手町の標石?Pと似る。
標石? B  大浦町8街区。大浦石橋電車通りのセブンイレブンから左の車道へ入る。ヘアーサロンひらやまと大井呑酒店の境界にある。
この一帯で見る唯一の標石らしい形状だが、何も刻みがないようなので不明。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (56)〜(59)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (56)〜(59)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(56)〜(59)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? Q  長崎全日空ホテルグラバーヒル左側入口の民間駐車場に、歩道から入るとすぐ右方にある。明治か大正時代の珍しい旧型石柱、丸い突起がある「水準点」。
現在の地形図にも、この地点に標石がある水準点「(標高)3.0m」と表示されている。駐車場奥のは、小さな水神。
参照   https://misakimichi.com/archives/31  
標石? R  明治31年(1898)に建てられた「旧長崎税関下り松派出所」の建物は、現在「長崎市べっ甲工芸館」として使用されている。裏側角にある標石。
「へ蔵…」と読める。「大蔵省」の古い境界柱か。敷地には一帯の石祠・燈籠を寄せた一角がある。
標石 (59)  松が枝町木戸豆腐店の直角の角。店の人によると、高さは昔は30cmほどあった標石。車がぶつかったりしてたびたび破損し、路面と変らぬ高さとなった。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (50)〜(55)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (50)〜(55)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(50)〜(55)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (52)  ウォーカー邸に保管していた標石を、スカイロード側南山手レストハウス(旧清水邸)下の遊歩道角に移設している。
標石   O  どじょう会の報告後、見つかっている「居留地境」の標石。陶板プレートが付けられている。グラバー邸第2ゲートから東琴平2丁目の山腹道を行く。宮崎宅前の石垣に埋め込まれている。
標石? P  グラバー園の南側を、外から第2ゲートへ向け車道を上って行く。旧スチイル記念学校下あたりに大楠の公園があり、遊歩道階段の下角に石柱がある。風化具合は、大浦町NTT病院裏のと似ている。