月別アーカイブ: 2008年11月

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (42)〜(49)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (42)〜(49)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(42)〜(49)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (42)〜(45) 南山手地区町並み保存センターに保管とある標石4本。倉庫に3本はあったが、(44)の刻面の標石は見当たらず、要調査。
センターの建物は、大浦天主堂へ登る坂の現グラスロードにあった洋館を、16年前に移築している。標石もその時のもので、地番は合うという話である。
標石? MとL  ここにも残っていた「三菱用地」の古い標石。三菱重工長崎造船所から寄贈された「長崎グラバー園」入口と、地獄坂先の「三菱重工南山手外国人住宅」登り口の対面角。
標石 (47)〜(49) 大浦天主堂前から左へ行くと妙行寺墓地に出る。天主堂との間に登る坂があり、この坂にあと3本の標石(次項)がある。ガス管工事中。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (33)〜(41)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (33)〜(41)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(33)〜(41)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。
長崎グラバー園の最上部となる「旧三菱第2ドックハウス」(第2ゲート入口)の左横。「居留地境界石柱」の説明板がある一角に、主な標石11本が集められ展示されている。
配置順は図のとおり。

標石 (35) 正面「二十九番 29」、裏面あり「ニ拾七番 27 二拾八番 28」
標石 (36) 正面「二拾八番 28 二拾八番 28」、裏面あり「一番 1」
標石 (41) 正面「壹番 1 ニ番 2」、裏面あり「ニ十八番 28」
標石? L  これは「陸軍」用地標。裏面番号は見忘れ。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (28)〜(32)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (28)〜(32)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(28)〜(32)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? L  グラバー園入口左石垣上の標石(29)右奥植え込み内にある。旧石門の一部か?
標石 (30) グラバー園内の「裁判所長官舎横」とあるが、所在がわからず調査中。遊歩道が再整備されている。どこかへ移された?
標石 (32) 「ニ」と刻んだ小さな標石。ドックハウス建物の下り階段脇に放置しているこの石ではないか。「居留地境界石柱」説明板がある一角を整備した際、はずしたと思われる。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (23)〜(27)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (23)〜(27)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(23)〜(27)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (25) 土肥徹宅の左隣に新築の家があり、裏手の左角下にある。下の小浦宅から回って見た方がよい。マリア園のグランド真下。「修道院」の境界柱が溝の対面にある。
標石? F  ロシアコンスイ坂から三菱電機清明寮駐車場へ入る右道脇。これは「三菱電機」の境界標。
標石? G  同坂から三菱電機清明寮駐車場へ入って左上。これも「三菱電機」の境界標。
標石? H  同坂から三菱電機清明寮駐車場へ入って右道下の斜面地。
正面に「十九…」、裏面に「二十番」と刻面があった。今回、新たに見つかった「居留地地番標」。地上に見えている面の寸法は、縦13cm、横18cm、高さ25cm。
標石? I   同坂登り口から長崎市南公民館へ向い、すぐ左道脇。丸柱と新しい角柱の上だけ見え不明。
標石? J  長崎海洋気象台の方へ向い、すぐ左道脇の駐車場角にある。これは「陸軍」の用地標。裏面に「六」。
標石? K  長崎海洋気象台入口道路の左角にある。これも「陸軍」の用地標。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (15)〜(22)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (15)〜(22)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(15)〜(22)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (9)〜(14)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (9)〜(14)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。
参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(9)〜(14)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? B  梅本宅下の売家の井戸脇。裏面に「乙 三拾…」のような刻字がある。「居留地地番標」?。
標石  (9) 宮崎宅。隣家との境土手上に2本あったよう。1本を庭溝に裏返し蓋にしている。
標石? C  標石(10)の擁壁の中段。降りると「岡部所有…」のような刻字あり不明。
標石? D  標石(11)近く下。これは新しい標石で「電話局」のようである。
標石? E  標石(12)ガレージ上奥の家角。これは「水神」の古い標石を放置している。

(追記 平成20年12月24日)
標石(9)について、どじょう会リストは「居留地境」とあるが、23日に宮崎安美氏宅に再び寄り標石をよく見たら、最後に写真を追加したとおり、「岡部所有」の刻みであった。
(10)の下段の「標石?C」も「岡部」の刻みである。双方とも居留地を示す標石と思われないが、参考のため、掲載はそのままとしておく。

(2015年7月4日 追 記)
標石(9)について再調査を要し、7月2日に東琴平1丁目25−8の宮崎安美氏宅(どじょう会リストは旧番地であった)を訪ねた。家人不在だったが、庭の溝蓋にした石柱を確認した。
追加写真のとおり、「岡部所有」の刻みのある石の上にあと1本、石柱らしいものがある。これが「居留地境」標石の可能性があるが、コンクリート固めして裏返しできないため、実情は以前として不明。家人は前回そのような話はしてなかった。
「東山手地区町並み保存会」が、平成18年9月5日現在で調査した標石の所在マップと写真パネルがあるが、この場所の標石はまったく表れていない。「長崎市東山手地区町並み保存センター」2階展示。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (1)〜(8)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (1)〜(8)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(1)〜(8)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石  (2) 風化した標石(2)の左後ろにあと1本。「居留地境」と刻んだ新しい標石が据付けられている。史跡境の標柱?
標石  (5) 十八銀行南山手寮の敷地内。外側の坂段道からフェンス越しに見られる。
標石? A  標石(6)の上角。近所の人の話で「居留地境」と刻まれていたと聞く。史跡境の標柱?

長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (2)  平成20年11月

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長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (2)  平成20年11月

平成20年11月17日(月)くもりのち晴。長崎学さるく行事で「三ツ山と六枚板の史跡をさるく」。
講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者江越弘人先生。参加・スタッフとも43人。

恵の丘10時発ー純心大学ー帆場岳(三ツ山 標高506m)ー虚空蔵菩薩ー兵底南山グランド(昼食)ー天竺山坑口跡ー六枚板の川平金山跡ー金湯温泉跡(斎藤茂吉湯治の地)ー小谷橋(石橋)ー金山坑口(出口)跡ー三ツ山教会(犬継)ー永井隆博士三つ山救護所跡ー大村藩殿様の道(西山街道)ーキリシタンのチシャの木ー難河原殉教跡15時着解散。

コースは約13km。帆場岳山頂まではきつい登りだが、後は下りと一般道で楽なコースである。昼食後、六枚板へ下り、川平金山の現存する2か所の坑口跡を見る。
斎藤茂吉が大正10年、湯治に訪れた金湯温泉は、原爆症のやけどに効く。永井隆博士が三つ山救護所で被爆者の温泉治療を行っている。
小谷橋は隠れた場所のアーチ式石橋。長崎大水害にも流されず残った。キリシタン史跡として、三ツ山教会・チシャの木の切株・今は川底となった難河原殉教跡の岩を見た。

写真を(1)(2)と分けた。(2)は小谷橋から。
お宮さんのブログ記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/3649507.html

長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (1)  平成20年11月

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長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (1)  平成20年11月

平成20年11月17日(月)くもりのち晴。長崎学さるく行事で「三ツ山と六枚板の史跡をさるく」。
講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者江越弘人先生。参加・スタッフとも43人。

恵の丘10時発ー純心大学ー帆場岳(三ツ山 標高506m)ー虚空蔵菩薩ー兵底南山グランド(昼食)ー天竺山坑口跡ー六枚板の川平金山跡ー金湯温泉跡(斎藤茂吉湯治の地)ー小谷橋(石橋)ー金山坑口(出口)跡ー三ツ山教会(犬継)ー永井隆博士三つ山救護所跡ー大村藩殿様の道(西山街道)ーキリシタンのチシャの木ー難河原殉教跡15時着解散。

コースは約13km。帆場岳山頂まではきつい登りだが、後は下りと一般道で楽なコースである。昼食後、六枚板へ下り、川平金山の現存する2か所の坑口跡を見る。
斎藤茂吉が大正10年、湯治に訪れた金湯温泉は、原爆症のやけどに効く。永井隆博士が三つ山救護所で被爆者の温泉治療を行っている。
小谷橋は隠れた場所のアーチ式石橋。長崎大水害にも流されず残った。キリシタン史跡として、三ツ山教会・チシャの木の切株・今は川底となった難河原殉教跡の岩を見た。

写真を(1)(2)と分けた。(2)は小谷橋から。
お宮さんのブログ記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/3649507.html

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の現況調査

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の現況調査

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が、上記のとおり報告されている。
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した結果を、以下、カラー写真で紹介する。どじょう会の報告に表われていない標石も、少し見つかっている。