月別アーカイブ: 2008年11月

(チ)牧島のツバキ  長崎市牧島町

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(チ)牧島のツバキ  長崎市牧島町

国道251号線により矢上大橋を渡り、戸石入口交差点から右へ入り、牧島に向かう。
大久保病院手前から右折。「牧戸橋」を渡ると、牧島である。修学旅行のペーロン体験施設前を通り、曲崎古墳群の方へ案内標識により進む。
外の海へ出て、曲崎が見える丘の自販機のある三叉路は右方へ。池の神神社へと下りかける。大きな石垣の家がすぐある。
牧島修宅(牧島町237番地)で、前庭に「牧島のツバキ」がある。

ツバキの大木は、前三和町藤田尾のツバキが、幹囲1.48mなど。長崎市指定天然記念物となっている。 https://misakimichi.com/archives/220 を参照。
牧島のツバキが、幹囲2.3mとあり訪ねたが、根元が2つの幹に分かれていた。
大戦中、牧島は特攻艇「震洋」の基地。本部や宿舎が置かれた山本造船所上の高台に、シイやクスノキなどの大木が見られた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(チ)でツバキを記している。同写真説明は次のとおり。
牧島 ツバキ(幹囲2.3m)。

(ト)あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

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(ト)あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

国道251号線により矢上大橋を渡り、戸石入口交差点から右折して戸石へ向かう。大久保病院前を過ぎた戸石漁港の方から幼稚園へ入る道があり、案内標識により進むと「あやめ東幼稚園」に着く。
アコウは、幼稚園の正門広場と、中へ入った園庭に大木2本がある。園庭のは牧島へ渡る牧戸橋の方から、川岸に眺められる。
次の樹木の再掲。  https://misakimichi.com/archives/809

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ト)でアコウを記している。同写真説明は次のとおり。
戸石あこうの木。幼稚園の玄関前。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木93頁の説明は次のとおり。
◇あこうの大木  戸石のあこうの木

戸石バス停留所から牧戸橋方向へ300m行って左に折れると、あやめ東幼稚園が見える。この幼稚園の玄関前の広場に、この「あこうの大木」がある。昭和30年ころまでは、ここは海であったが埋め立てられ、今はこの辺り住宅地となった。100m手前までが海岸であったそこに自然木として生え、かなりの年月を経て大木に成長したものである。
それを幼稚園の開園と併せ、今の位置に移植に成功し現在は青葉を茂らせている。数百年の年月を思わせる大きな根回りが生きる厳しさ、また、力強さを感じさせる。
なお、これよりひと回り大きかった「あこう」が、400m東の方向にあったが、台風で根元から倒され、今は枯死している。

(ヘ)西陵高校東長崎分校跡のクルギ・バショウ  長崎市古賀町

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(ヘ)西陵高校東長崎分校跡のクルギ・バショウ  長崎市古賀町

国道34号線の古賀町交差点の手前となる左手に、長崎県立西陵高校の東長崎分校跡がある。同校は平成19年3月に閉校した。
校舎は現在、長崎市役所古賀地区事務所と長崎市古賀地区市民センターとなっている。
マップは「分校」としか記していない。場所から見るとここだが、写真のクルギ(クヌギ?)・バショウは、よくわからなかった。

平成6年4月、長崎県立諫早農業高校東長崎分校を改編、西陵高校東長崎分校となった。敷地の北側に枯れた池や木立が残るが、大木は見当たらない。
大木がかえってあったのは、正門あたりと中へ入って左側の植栽地である。樹木札をつけていて、「スイリュウヒバ(イトヒバ)」と「コイヤ」(メタセコイア?)の大木が目立った。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ヘ)でクルギ・バショウを記している。同写真説明は次のとおり。
分校のクルギ(幹周り2.61m)、バショウ(12本)。

(ホ)清藤のセンダン  長崎市東町

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(ホ)清藤のセンダン  長崎市東町

国道34号線が矢上を過ぎて、長崎木材市場前の交差点から右折する。八郎橋を渡って業務ストア前から左の長崎街道の道へ入る。彩が丘団地の先の方の入口まで行き、まっすぐ進むのは明治道である。
「清藤のセンダン」は、この明治道の途中にある。街道の右道脇にセンダンの古木が2本あったが、1本は枯れて伐られていた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ホ)でセンダンを記している。同写真説明は次のとおり。
清藤のセンダンの木。昔長崎街道を行き来する人たちの休憩場所となったところである。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木94頁の説明は次のとおり。
◇センダンの古木  清藤のセンダンの木

国道34号線、滝の観音入口から分かれ、細い道を東へ200m程行くと、旧長崎街道である。そこからさらに200m北上すると、右手に2本のセンダンの木が並んで立っている。ここはセンダン茶屋と言われ、昔長崎街道を行き来する人たちの休憩場所となったところである。
初夏には青葉が茂り、その枝先にはかれんな花をつけ、そして、樹木の下には格好の日陰を与え、旅人の疲れを癒す憩いの場として最適なところであった。
今ではこの通りは、車の往来が激しいところから、交通事故に遭わないように、黄色いボードでしっかり守られてたたずんでいる。

長崎の西の空の夕日  その14

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長崎の西の空の夕日  その14

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 5  平成20年11月14日の17時17分頃  五島灘の夕日
写真 6〜 9  平成20年11月15日の 6時58分頃  朝明けの満月

(ニ)現川分校のサクラ  長崎市現川町

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(ニ)現川分校のサクラ  長崎市現川町

国道34号線が矢上を過ぎて、現川川の橋のところから左折して現川へ入る。現川のバス停から左へJR現川駅の方へ行くと、右手のモダンな建物が現川分校である。
矢上小学校の分校であったが、平成20年4月、長崎市立高城台小学校の開校に伴い、同校の分校に変った。
校庭にあった樹齢100年以上というサクラの老木は、枯れて伐られていたが、切株から次の若木が育っていた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ニ)でサクラを記している。同写真説明は次のとおり。
現川分校の桜 もう100年以上この地で根を張り、今なお現川分校の子供たちを見守る。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木92頁の説明は次のとおりであった。
◇桜の名木  現川分校の桜

現川分校に、今にも倒れそうな桜の木がある。国道34号線馬場バス停より北西方向へ3kmほど入り、JR市布線の現川駅より100mほど手前に、現川分校はある。明治11年現在の所が校地となった頃、植えられたものと推定される。
今では老樹のため、補強用の支柱と柵に支えられ、根元は大きく口を開けたように穴が開いている。もう100年以上この地で根を張り、今なお現川分校の子供たちを見守っている。

(ハ)現川の山の神神社のカシノキ  長崎市現川町

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(ハ)現川の山の神神社のカシノキ  長崎市現川町

国道34号線が矢上を過ぎて、現川川の橋のところから左折して現川へ入る。現川のバス停からJR現川駅の方でなく、右へまっすぐに川の上流へ行くと、左方に「山の神神社」がある。老木のアラカシが鳥居横に立つほか、他の大木もある。
次の樹木の再掲。  https://misakimichi.com/archives/464

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ハ)でカシノキを記している。同写真説明は次のとおり。
現川 山の神神社のカシノキ。400年は経っていると聞く。毎年10月に願成就の神事。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木92頁の説明は次のとおり。
◇樫の大木  現川 山の神神社の樫の木

現川分校よりさらに500mほど北へ上ると、現川地区の守り神社である”山の神”神社にたどり着く。その入り口にひと際大きく、高い樫の木が居座っている。根元から裂けたように大きく穴の開いたこの老樹は、400年は経っていると聞く。
この神社では、毎年10月に願成就の神事が行われている。

(ロ)現川の連理樹だったスギ  長崎市現川町

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(ロ)現川の連理樹だったスギ  長崎市現川町

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ロ)でムクノキを記している。同写真説明は次のとおり。
現川のムクノキ 幹周り4.21m。
マップでは、JR現川駅から現川峠へ上がる車道の左側(西方)。幹囲4.21mというムクノキの大木なのに、地元で話は聞けないし、所在がどうしてもわからずにいる。

考えられるのは、もう現川峠近くカーブした道路脇に「大権現社」の石鳥居がある。この鳥居下の谷間に、昔の現川峠越しの旧道が残り、大権現社とは別の祠「弁天様」が祀られている。
ここにあったスギとクロガネモチの「連理樹」である。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木89〜95頁には、すでに掲載されていない。
郷土誌の古いのは、東長崎町編「東長崎町誌」昭和38年3月発行。名木・珍木・巨木105頁に、次のとおり「連理」の記録がある。当時の写真も同107頁から。

連 理

現川と加勢首に杉とクロガネモチ(俗称シロキ)の珍しい連理がある。現川より長崎の西山に通ずる山道の中腹で、2本の木がぴったりくっつき、周囲4.85mある。
木の下に素朴な自然石でつくった弁天様がある。毎年9月7日にお祭りがあり、しめなわをはりかえする行事が伝えられている。

以上が昭和38年の記録。「弁天様」は旧道の中ほど。曲がりくねった現在の車道の下から登っても、上から下っても旧道は荒れて歩きにくい。行きやすいのは、大権現社鳥居の手前となる車道を斜めに横切った水路。植林地内のコンクリート溝の中を下ると、「弁天様」の近くに出る。
植林地内には、参詣のかすかな踏み跡が見られる。

連理だったスギの方は、薄暗い谷間に奇怪な枝を広げて、今も生きている。根元に巻き込まれたクロガネモチは、朽ち果て黒々として、大木であった丸い跡だけ残していた。
車道の右と左、クロガネモチとムクノキの違いがあるが、マップの地点と幹周りの大きさからすると、連理樹だったこの木と思われる。
町誌のクロガネモチは、マップどおり、正しくは「ムクノキ」だったのではないか。
このため、樹木の項目も「現川の連理樹だったスギ」に変えた。

最後の写真は、現川峠近くの「大権現社」鳥居と、加勢首で見るクスノキの大木。奥の家は、長崎大学第一外科教授だった調来助医師の養実家となるらしい。昭和20年8月9日大学病院で被爆し、その後、医局員たちとともに被爆者の治療・救護のため、日夜奔走されたことは、今なお語り継がれている。

(イ)矢上切り通しのモチノキ  長崎市田中町

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(イ)矢上切り通しのモチノキ  長崎市田中町

矢上入口となる切通交差点から、マルキョウ東長崎店前を通る国道34号線を行き、しばらく進んで国道右手を見ると、奥の民家裏手の高台に大木が見える。この木が「矢上切り通しのモチノキ」である。
次の樹木の再掲。  https://misakimichi.com/archives/623  

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(イ)でモチノキを記している。同写真説明は次のとおり。
矢上切り通しのもちの木 幹周り3m およそ150年。白山大権現様。被爆したもちの木 爆風で一瞬のうちに葉っぱが全部散る。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木93〜94頁による説明は次のとおり。

◇もちの木の大木  切り通しのもちの木

国道34号線、下切通しのバス停より東南方向へ200mほど行くと、小高い所に見上げるほど大きなもちの木がある。幹回り3mあり、ねじれたように左右に大きく枝を伸ばしている。
安政年間に植えられ、およそ150年は経っていると伝えられている。木の根元に祭られた白山大権現様は、地主の田中家の先祖である田中権蔵氏が1913年(大正2年)、石川県の白山神社を詣でた時のお礼を祭り、当時16軒あった地元の人たちの”守り神”となった。以前は毎月10日に地元の家々で供え物をして、お祭りをされていたが、今では長島實氏が上げ物をして祭っておられる。
この大木、もちの木にも最大の危機があった。それは、長崎に原爆が落とされたとき、その爆風で一瞬のうちに葉っぱが全部散ってしまい、丸裸になってしまった。これぞ正真正銘の被爆したもちの木なのである。今は元気を取り戻し、春になると花を咲かせ、そして、秋には赤い実をつけ、小鳥たちの楽しい憩いの場になっている。

戸石の銀鉱跡?金山(かなやま)  長崎市戸石町

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戸石の銀鉱跡?金山(かなやま)  長崎市戸石町

布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊146〜147頁に、明治の終わりころまで続いた「川平金山」の話がある。
私も現地を実際に調査し、2カ所の坑口跡が、今も現存しているのを確認している。市南部の藤田尾海岸にも金山跡がある。
川平金山の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/262
藤田尾の金山は次項。 https://misakimichi.com/archives/281

「川平金山」は長崎市の北部地域。同著によると「川平金山の一帯から、西は長崎市と時津、長与が接する百合野付近、東は帆場岳をへて現川周辺にいたる東西10km、南北5kmの範囲に、安山岩質のマグマが地中で冷えて固まった岩石が分布している」
「川平の金鉱は、川平閃緑岩類の岩石に微量にふくまれていた金が熱水によって溶けだし、特定の場所にあつめられて形成された」そうである。

私が今回訪ねたのは、市の東部地域、「戸石の金山(かなやま)」である。下記の東長崎郷土誌により最近、その存在を知った。
現川周辺の延長線上に位置するが、「川平金山」と同じ岩脈か、別の岩脈か、私には何も説明ができない。中尾には銀山があった古記録がある。八郎川を挟んだ戸石のは、単純に図から見ると「行仙火山岩類」の区域である。
11月17日(月)に長崎学さるく「三ツ山と六枚板の史跡をさるく」において、江越先生を講師として川平金山跡を訪ねるため、戸石の金山も早急に確認しておく必要があった。

戸石町の現地は、長崎市立戸石小学校の正門の方から戸石保育園前を通って、奥へ入る道路がある。東長崎ゴルフガーデンの裏手山腹を行き、農園入口で行き止まりとなっていた。
ちょうどこの区間の中間ほどの谷間に、大きなミカン農家と倉庫があり、その先にすぐ1軒の空き家が右手の石垣上にある。この家の横の岩面に、写真のとおり坑口を開けていた。

柵をして横穴の中は立ち入り禁止。水を抜いている2本の塩ビ管がある。小さな穴が空いて水が噴出していた。
近所のミカン農家の主の話によると、この横穴はかつて、「金」でなく「銀」を採掘した坑道跡のようである。山の反対側の民家の方に出口があった。入口の柵から中に入ってもすぐ崩壊があり進めないし、出口側も崩壊のたため、今は確認できないということであった。

今回の報告はとりあえずここまで。詳しい資料が見当たったら、また報告したい。
東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、郷土の誇り31頁による説明は次のとおり。
29 金   山 (かなやま)

戸石小学校の裏山を一つ越すと俗称かなやまという所がある。そこに一軒の家があるが裏手の山腹におよそ千五、六百メートルの横穴がある。入口は狭いが中に入るにしたがって広くなり、こうもりがすんでいる。
人々は昔、金を採掘した跡だと言っているが、地質は安山岩で、岩石中にも、洞内から流れる水にも金属光沢のある鉱物を含んでいるが、繊弱な岩石であるから金鉱であるかは疑わしい。十数年前まではこの清水を薬湯として入湯したものであった。