月別アーカイブ: 2010年3月

三重東樫山の天福寺へ移設されている藩境石

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三重東樫山の天福寺へ移設されている藩境石

この項は、2007年7月13日記事”大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認”を参照。  https://misakimichi.com/archives/84

「大村郷村記」三重村に記す「櫻の首白眼」に建てられた銘のある大塚「従是 東北大村領 西南佐嘉領」は、東樫山町836番地新道宅前の空き地に放置されていたのを、私たちの調査により判明したのを記事にしているが、この藩境石はその後、地主の希望により2007年11月頃、同宅上部にある天福寺の正門横へ移設されている。

私たちは、郷村記による元々建っていた「櫻の首白眼」に戻すのが、地域の歴史がわかり良いのではないか。天福寺に置けば目立つかも知れないが、これから価値がでる史跡の保存方法としてあまり感心できない。
寺に移すにしても、長崎市三重支所前の藩境石とも連合自治会に相談し、費用をあまりかけずに簡単な説明板を付け、いきさつが良くわかるように考えてほしいと願っていたが、それは叶っていないようである。

天福寺の正門横へ移設されている藩境石を早く見に行かなくてはならないと思っていたが、ついつい遅れていた。先日、川上氏と三重を訪ね確認してきたのが、上の写真である。
なお、4月11日(日)長崎学さるく”三重樫山などの藩境石とゆうこうの古木めぐり”では、天福寺のこの藩境石と、法要がなかったら同寺の秘仏「金のマリア像」を拝見できる。

長崎の西空の夕日  10−05

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長崎の西空の夕日  10−05

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成22年 3月10日の17時30分頃から
写真  4〜 6  平成22年 3月21日の18時23分頃から
写真  7〜 9  平成22年 3月26日の18時32分頃から

長崎外の古写真考 目録番号:5581 海上の半島

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5581 海上の半島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5581 海上の半島

目録番号: 314 備後鞆津の弁天島
〔画像解説〕
福山の南にある鞆は奈良時代以降,瀬戸内の海上交通の要衝として栄えた。沖合いに浮ぶ仙酔島,弁天島,皇后島等は「日東第一形勝」として江戸時代,朝鮮通信使・李邦彦によって賞賛された。写真中央にある弁天島には文永8年(1271)の石製塔婆や宝形造の弁天堂がある。

■ 確認結果

目録番号:5581「海上の半島」は、目録番号: 314「備後鞆津の弁天島」にあるとおり、広島県福山市鞆町の鞆の浦海岸の「弁天島」や「仙酔島」であろう。
現在の写真は、鞆の浦 / 幕末の町並みが残る港 (福山市鞆町) | 福山特産・沼隈ぶどう田中商店HPから鞆・海岸から臨む弁天島。同説明は次のとおり。

< 鞆の津 / 鞆の浦 / 鞆(※) >
鞆の浦は広島県福山市南部に位置し、同公園を代表する景勝地として知られる(国の名勝にも指定)。瀬戸内海国立公園開所当初の指定地のひとつ。鞆港や仙酔島などを含む地区で、内海交易や寄港地、中継貿易地として発展した。とりわけ、福禅寺境内にある対潮楼から望む仙酔島は、朝鮮通信使の李邦彦により、「日東第一形勝」と絶賛されたことは有名。また仙酔島自体も雄大な海食崖や海食洞が見られ、変化に富んでいる。最高峰の大弥山は瀬戸内海を一望し、観光遊歩道が設けられている。また、鞆は文化地区としても価値が高く、現在も当時の港町の繁栄を残す町並みが残り、古くからの社寺も見られる。
Wikipedia「瀬戸内海国立公園/鞆の浦・阿伏兎(あぶと)岬」の項より一部引用

長崎外の古写真考 目録番号:4628 八角屋根のある広場

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4628 八角屋根のある広場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4628 八角屋根のある広場

目録番号: 950 横浜山手公園(1)      関連作品 目録番号:2784、4914
〔画像解説〕
横浜公園。15か月前は薮の茂る墓地であった。日本政府からゆるい条件で借りて半分を開拓して公園になった。居留民の努力の賜のである。The Far East 明治4年(1871)4月14日号。「復刻版The Far East」より引用。

目録番号: 951 山手公園の外国軍楽隊
〔画像解説〕
公園の野外音楽堂。軍楽隊で過去3年居留民を楽しませてくれた第10連隊第1大隊も近く引き上げて軍楽隊のいない海兵隊と交代する。軍楽隊はフェットン指揮で2回連隊で、州に1回この公園で演奏するのである。The Far East 明治4年(1871)4月14日号。「復刻版The Far East」より引用。

■ 確認結果

目録番号:4628「八角屋根のある広場」は、目録番号: 950「横浜山手公園(1)」や目録番号:
951「山手公園の外国軍楽隊」にあるとおり、「横浜山手公園」内の建物である。

長崎外の古写真考 目録番号:4621 唐風山門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4621 唐風山門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4621 唐風山門

目録番号: 122 芝増上寺文昭院霊廟仕切門(1) 関連作品 目録番号:4162、4262、5545
〔画像解説〕
英語で「東京芝の寺」と説明されているが、これは東京芝の増上寺境内にあった文昭院(徳川六代将軍家宣)の墓所の入り口にあった仕切門である。霊廟入り口の往時の雰囲気がうかがえる。門番と思われる男性には髷が残っている。

■ 確認結果

目録番号:4621「唐風山門」は、目録番号: 122「芝増上寺文昭院霊廟仕切門(1)」ほか関連作品にもあるとおり、東京都港区芝公園4丁目にあった「芝増上寺文昭院霊廟仕切門」であろう。
関連作品の目録番号:4262は、タイトルが「有章院霊廟」となっている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとおり。

増 上 寺 徳川家霊廟

増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。
第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝建造物に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らない貴重なものであったが、昭和20年(1945年)の空襲で建造物群のほとんどが焼失した。現在は台徳院霊廟の門4棟と、有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)を残すのみであり、それらも保存状態の悪さが目立つ。

焼失前の有章院霊廟焼け残った建築のうち以下のものが重要文化財に指定されている。
台徳院霊廟 惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)
台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門(以上3棟はホテル建設に際し、埼玉県所沢市の  狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されている)
有章院霊廟 二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)柵で仕切られているが、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しい。

これらの霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年(1958年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された。墓所は安国殿裏手に移転している。現在の増上寺徳川家墓所の入口の門は、もと文昭院霊廟の奥院の宝塔前中門だったもの。秀忠夫人崇源院霊牌所の一部は鎌倉建長寺に移築された。霊廟跡地は、東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:1239 谷川(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1239 谷川(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1239 谷川(2)
〔画像解説〕
大きな岩が点在し、それらに当たり砕けながら流れる水の様子が捉えられている。露光時間が長いので砕ける水を瞬間的に写すことは出来ないが、流れの速さは感じ取れる。遠景の橋を人が1人渡っている。

目録番号:4620 橋の架かる渓谷

目録番号:2013 保津峡と京都鉄道保津川鉄橋
〔画像解説〕
保津川下りの船内から上流の京都鉄道保津川鉄橋を望む。保津峡は嵐峡とも呼ばれ、亀岡保津橋附近から嵐山渡月橋附近までの保津川約13kmの峡谷である。急流奇岩が連続する景勝地で、愛宕山・老坂間の標高約400mの山地をV字形に刻んだ深い峡谷に、清滝川などの支流が合流している。写真は京都鉄道嵯峨・園部間が開通した1899年8月以後の撮影。

■ 確認結果

目録番号:1239「谷川(2)」は、次の記事を参照。目録番号:1690「保津川(8)」の山と似ている。京都の「保津川」ではないだろうかとしていた。
https://misakimichi.com/archives/2274

この谷川の同じ橋を、近景で写した作品が別にあった。目録番号:4620「橋の架かる渓谷」。
この2作品の橋が保津川かどうかわからないが、目録番号:2013「保津峡と京都鉄道保津川鉄橋」と光景は似ている。

長崎外の古写真考 目録番号:4617 山門前の僧侶たち

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4617 山門前の僧侶たち

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4617 山門前の僧侶たち

目録番号:1229 藤沢の寺(2)
〔画像解説〕
明治初年(1868)の鈴木真一撮影と推定される写真(横浜開港資料館蔵)と同じ。‘TEMPLE FUGISAWA 藤沢遊行寺’と書かれたタイトル用の立札がある。寛政9年(1797)板行『東海道名所図会』の挿図や幕末に作成されたという同寺蔵の境内絵図からすると、右側の唐門(からもん)は「中雀門」(現存)でその後ろは「小書院(こじょいん)」となる。中雀門(ちゅうじゃくもん)は、県の調査報告書によれば19世紀中期の建立という。また、木々の間に見える右端の屋根が「大書院」、左端の建物が「観音堂」になるかも知れない。なお、同寺は藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくざんむりょうこういんしょうじょうこうじ)と号す時宗の総本山である。一般には遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られ正中2年(1325)の開創と伝えるが、のち荒廃・復興をくり返し、江戸時代になってからも度重なる天災によって寺容が変貌したという。また、大正12年(1923)に起きた関東大震災の後、同寺の建物群は中雀門のほか数棟を残して新しいものに建て替えられたようである。

■ 確認結果

目録番号:4617「山門前の僧侶たち」は、目録番号:1229「藤沢の寺(2)」にあるとおり、山門の造り及び山門両側の透塀から、神奈川県藤沢市西富1−8−1にある時宗の総本山「清浄光寺」(一般には「遊行寺」(ゆぎょうじ)の名で知られる)の中雀門と思われる。
現在の写真は、時宗総本山遊行寺HPから。同説明は次のとおり。

東海道の名刹 時宗総本山 遊行寺
「遊行寺」と呼ばれ、親しまれているこの寺は、時宗の総本山で、『藤澤山無量光院清浄光寺』というのが本当の名前ですが、時宗の法主が遊行上人といわれるところから、遊行上人がおいでになる寺ということで、「遊行寺」と呼ばれるようになりました。
また、藤沢は遊行寺の門前町として生まれ、「藤澤山」の山号が町の名となり、やがて東海道の宿場町に発展し、今日の藤沢市となりました。

中 雀 門
遊行寺境内の建造物の中でもっとも古く、紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、安政6年
(1859)に建てられました。この門は四脚門で、高さ6m、幅2.7mで「船橋国造菅原義正」とされる、フクロウの彫刻は特に素晴らしいものです。
明治の大火は免れましたが、関東大震災で倒壊しました。その後以前の姿そのままに再建されました。平成20年4月大改修完成。

長崎外の古写真考 目録番号: 644 大阪の三重の塔 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 644 大阪の三重の塔 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 644 大阪の三重の塔(2014.2.1追加修正。掲載は略)
〔画像解説〕
詳細不明。平野部に位置すると思われる寺院の伽藍をなす三重の塔と講堂が映し出されている。

目録番号:2419 三重塔のある寺

目録番号:4612 三重塔
〔画像解説〕
石黒コレクションの明治8年頃に収集された古写真のアルバムに同じ写真がある。三重塔の左手奥にはかなり大きな建物の屋根が見える。これも寺院建築であろう。背景に山が写っていないので、広い平野部であると思われるが場所は不明だ。明治初年の古い写真である。

■ 確認結果

目録番号: 644「大阪の三重の塔」、目録番号:2419「三重塔のある寺」、目録番号:4612「三重塔」は、同じ写真である。
目録番号: 644「大阪の三重の塔」、目録番号:4612「三重塔」では、撮影地域:大阪とあり、これから調べると、大阪府貝塚市水間町にある「水間寺(みずまでら)三重塔」と思われる。
現在の写真は、大阪府の塔HP「水間寺」から。本堂と三重塔の配置が合い、本堂左側に写る三重塔前の灯籠の列が同じであろう。同説明は次のとおり。

水間寺(みずまでら)三重塔

水間寺は、天平16年(744年)行基が聖武天皇の勅を報じて創建した。厄除観音として参詣者が多い天台宗の寺院。境内の愛染堂は、お夏・清十郎の逢瀬の場所といわれる。
水間寺三重塔(市指定文化財、江戸時代後期 天保五年 1834年再建、本瓦葺、高さ 20m)。三層部、軒は扇垂木、組物は三手先組物。二層部、軒は二軒繁垂木、中備えは三間とも蓑束。

塔は擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも蟇股で十二支を彫刻。三層部、尾垂木の彫刻。二層部の竜頭彫刻。相輪は型の通りで、龍車が方形になっている
三重塔は、かって多宝塔で多宝如来を安置した。天正の兵乱で焼失し万治年間に三重塔を建て、釈迦如来像を安置した。初層、中備えの蟇股(十二支の彫刻)。初層の彫刻を施した尾垂木。三重塔は、井原西鶴の「日本永代蔵」に記載されたモデルの塔と考えられている。

本堂の内部。江戸時代に岸和田城主の庇護を受け再建された。お夏・清十郎の墓。水間寺本堂(市文、江戸時代 文化八年 1811年再建、入母屋造、本瓦葺)。
*南海貝塚駅より水間鉄道、水間駅下車、徒歩約7分。

三重の歴史散策・変遷と三重エリアトピックス  長崎市三重町ほか

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三重の歴史散策・変遷と三重エリアトピックス  長崎市三重町ほか

長崎市三重地区の歴史散策・変遷は、長崎伝習所三重トピア塾発行「みえ通信」から、三重エリアトピックスは、三重商工会発行「三重・外海ふるさと発見ガイド」から紹介する。
(ズーム拡大後、拡大画像は右上の×で消す。資料提供:三重商工会)

長崎外の古写真考 目録番号:4604 渓谷(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4604 渓谷(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4604 渓谷(1)

目録番号:4631 渓谷(2)

目録番号: 618 保津川(4)       
〔画像解説〕
保津川の露出した岩床と、ごつごつした岩肌を見せる山の姿がとらえられている。

■ 確認結果

目録番号:4604「渓谷(1)」及び目録番号:4631「渓谷(2)」は、目録番号: 618が「保津川(4)」ならば、同じ景色のため、京都府の「保津川」となろう。
保津川の具体的な場所の確認はできていない。「烏帽子岩」というのがあるが、これだろうか。「孫六岩」という最大の岩もある。写真は、モイチ氏HPの「保津川下り」から。