月別アーカイブ: 2010年3月

長崎外の古写真考 目録番号:3623 ゴールデンゲート湖

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3623 ゴールデンゲート湖

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3623 ゴールデンゲート湖
〔画像解説〕
「ゴールデンゲート湖」という名称の湖は現存しない。風景から見ても東京とは考えられない。中央の着飾った子ども達やその前後に写る大人達の服装、整備された湖畔路から見れば、当時の高級リゾート地であったと思われるが、場所は特定できない。

■ 確認結果

目録番号:3623「ゴールデンゲート湖」は、画像解説のとおり、撮影地域:東京ではなく、アメリカ合衆国サンフランシスコ市内北西に位置するゴールデン・ゲート・パーク内の湖と思われる。

ゴールデン・ゲート・パークは1870年代、ウィリアム・ホールによってデザインされ、スコットランド出身の庭師マクローレンによって、50年以上をかけて作り上げられた。
HP「グーグルアース(google earth)で世界の名所めぐり」にゴールデン・ゲート・パークの衛星写真があり、中央部ストウ湖?の中に、小島2つ(青線枠)が確認できる。同HPのパーク説明は次のとおり。

長さ4.8Km、幅0.8Kmありニューヨークのセントラル・パークよりも大きい。9つの湖が散在し、9ホールのゴルフコース、乗馬場、野外音楽堂、プラネタリューム、水族館、美術館、科学博物館、ビクトリア建築の温室のほか、オランダ風車や放し飼いにされているバッファローを目にすることもできる。

長崎外の古写真考 目録番号:3538 先生と子供たちの集合写真

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3538 先生と子供たちの集合写真

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3538 先生と子供たちの集合写真

■ 確認結果

目録番号:3538「先生と子供たちの集合写真」は、撮影地域:福島とすると、福島県田村郡三春町にある日本三大桜の1つ、国天然記念物「三春滝桜」であろう。
現在の写真は、三春町HP三春の桜・観光ガイドと、ブログ「ギャメロンさんのぶら〜り日記」の
2012年4月28日記事から。同町の説明は次のとおり。

三春滝桜とは

エドヒガン系の紅枝垂桜(ベニシダレザクラ)で、大正11年10月12日、根尾谷の淡墨ザクラ・山
高神代ザクラなどとともに国の天然記念物の指定を受けた名木です。
日本を代表する桜の巨木で、日本三大桜の一つに数えられ、岐阜県の淡墨桜とともに東西の横綱に位置づけられています。
樹齢は1,000年以上といわれ、樹高は13.5m、根回りは11.3m、枝張りは幹から北へ5.5m、東へ
11.0m、南へ14.5m、西へ14.0mの巨木で、近くから見た姿は圧巻です。

所在地/福島県田村郡三春町大字滝字桜久保296番地
種 類/エドヒガン系ベニシダレ(バラ目バラ科)
高 さ/13.5m
枝張り/東に11.0m、南に14.5m、西に14.0m、北に5.5m
幹周り/8.1m(地上高1.2m)
根周り/11.3m
開花期/例年4月中旬〜下旬
樹 齢/1,000年以上(推定)
指 定/国天然記念物(大正11年10月12日、内務省告示第270号)指定名称「三春滝ザクラ」
その他/天然記念物に同時に指定された5本の桜により「日本五大桜」、あるいは、うち3本により「日本三大桜」と呼ばれています。
※ 三大桜は、「根尾谷淡墨ザクラ」(岐阜県本巣市)、「山高神代ザクラ」(山梨県北杜市)。五大桜はほかに「狩宿の下馬ザクラ」(静岡県富士宮市)、「石戸蒲ザクラ」(埼玉県北本市)。

長崎外の古写真考 目録番号:3472 佐野瀑園(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3472 佐野瀑園(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3472 佐野瀑園(1)

目録番号:3516 佐野瀑園(2)

■ 確認結果

目録番号:3472「佐野瀑園(1)」及び目録番号:3516「佐野瀑園(2)」は、撮影地域:未詳としているが、東海の名勝地として知られていた「佐野瀑園」(現:静岡県裾野市中央公園)である。
静岡県HPの世界遺産推進室/構成遺産候補の紹介による説明は次のとおり。

五竜の滝
黄瀬川と佐野川の合流点付近にかかる三島溶岩流の末端に形成された滝であり、鮎壺の滝の上流約5キロメートルにある。明治24(1891)年、ホテルなどの洋館が建設され、「佐野瀑園」(現裾野市中央公園)として東海の名勝地として知られていた。滝は五条に分かれ、本流の三条を雄滝、東側の支流にかかる二条を雌滝と呼ぶ。また、向かって左から雪解、富士見、月見、銚子、狭衣の滝と呼んでいる。雪解、富士見の滝は特に壮観である。
所在地:裾野市千福松ヶ窪

長崎外の古写真考 目録番号:3477 寺の境内(9)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3477 寺の境内(9)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3477 寺の境内(9)

目録番号:1021 築地西本願寺本堂
〔画像解説〕
浄土真宗本願寺派別院。山号は三縁山。家康の帰依を受け、将軍家の菩提所となる。手前から堂を見上げている人物がひとり。

■ 確認結果

目録番号:3477「寺の境内(9)」は、目録番号:1021「築地西本願寺本堂」にあるとおり、本堂右側に写る青銅ないし陶器製の灯籠と松の木が同じであるため、東京都中央区築地の「築地西本願寺本堂」と思われる。
「写真の中の明治・大正 国立国会図書館写真帳から」にも、「築地西本願寺」の古写真があり、山門内部に同灯籠が写っている。現在の写真は、西新橋通信HPの名所旧跡から。同説明は次のとおり。

築地本願寺     古代インドに出会う
東京メトロの駅貼りポスターに載っていた寺のイラストがずっと頭の中に残っていた。築地本願寺という有名な寺で、場所は地下鉄日比谷線築地駅のすぐそば。当社のクライアントからも徒歩
10分ほどで行ける距離であり、ちょっと足を伸ばしてみた。
門をくぐると、まるで西方の古代遺跡にでも紛れ込んだような錯覚を覚えた。そこには、石造りの重厚で荘厳な建物がそびえていた。内部は外観とはかなり異なる趣だったが、今まで持っていた寺のイメージとは異質の不思議な世界が広がっており、未知の文化に触れるような緊張感が何とも心地よかった。この建物は古代インド様式の寺院建築で、東京帝国大学工学部の伊東忠太教授が設計し、昭和9年(1934)に完成したものだそうだが、格式ある寺が、このような建築を決断したこと自体が大きな驚きだ。
ところで、もともと本願寺は鎌倉時代、親鸞が広めた浄土真宗の寺で、最初にできたのが京都の本願寺。江戸時代になって本願寺が東西に別れ、東本願寺ができてから西本願寺と呼ばれるようになったが、単に本願寺といえばこの西本願寺をさす。築地本願寺はその西本願寺の別院として江戸時代に建立され、今日に至っている。一方、浅草本願寺は最初、京都の東本願寺の別院であったが、紆余曲折を経て、現在は浄土真宗の中でも別の宗派の寺となっているとのことだ。ややこしい。

長崎外の古写真考 目録番号: 750 大釣鐘(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 750 大釣鐘(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 750 大釣鐘(1)        関連作品 目録番号:3365 同(2)
〔画像解説〕
常楽寺銅鐘(重要文化財)か。常楽寺は北条泰時によって建立され、宋からの来朝僧、蘭渓道隆はここに宋の禅院の規式そのままに、同寺を設計し、わが国禅門の基礎を築いたと言う。銅鐘には宝治2年(1248)の銘があり、執権北条時頼が北条泰時追善のために造ったと伝える。

目録番号:4475 方広寺大鐘(2)    関連作品 目録番号:3093 同(1)、4771 同(3)
〔画像解説〕
石柱敷の上に置かれた方広寺大鐘を南西から北東に望む。男性が両手を広げて大鐘を抱きかかえ、その前に3人の子供が立つ。手前には多数の扇子の骨が干されている。大鐘は豊臣秀頼が方広寺再建に際し慶長19年(1614)の大仏開眼供養時に造営したもので、高さ4.5m、口径2.8m、厚さ28cm、重量約8.3tと言われる。右奥の二層の大仏殿は昭和48年(1973)に焼失した。

目録番号:5498 京都方広寺の梵鐘

■ 確認結果

目録番号: 750「大釣鐘(1)」は、現在、鎌倉国宝館に展示されている鎌倉市の「常楽寺の梵鐘」でない。梵鐘の形や文様がまったく違う。この梵鐘は、目録番号:4475「方広寺大鐘」などにあるとおり、京都市東山区にある天台宗の寺院「方広寺」の梵鐘であろう。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとおり。
「国家安康の鐘」は、慶長19年(1614年)に京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。前述の銘は撞座の左上にある。家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる。

なお、「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」HPの2008年5月10日記事に同じような古写真があり、露天に置かれている事情を次のとおり説明している。
地震・落雷・火災などで再建があっている。新しい鐘楼が完成して再び中へ収めた姿が、天井絵から目録番号:5498「京都方広寺の梵鐘」と思われる。

方広寺は、豊臣秀吉によって建てられた寺院で、巨大な大仏殿と大仏、広大な境内を誇る大寺院でした。大仏殿は慶長期に失われましたが、天保期にかつての大仏の縮小版と仮殿が建てられ、それは昭和48年に焼失するまで残っていました。
この古写真は、明治初期に撮影された鶏卵紙の貴重な古写真で、中央に写る「国家安康・君臣豊楽」の有名な梵鐘がまだ鐘楼のなかに収められておらず、露天に置かれています。

長崎外の古写真考 目録番号: 26 鎌倉の大釣鐘

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 26 鎌倉の大釣鐘

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 26 鎌倉の大釣鐘
〔画像解説〕
建長寺の大釣鐘か。建長寺は臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山のなかで首位に位置する。執権北条時頼は深く禅宗に帰依し、建長元年(1249)に本寺の建立を企画し、同5年に完成した。鐘は鐘楼外門にある。

目録番号:4247 知恩院大釣鐘(5)  関連作品が目録番号:2581 同(1)ほか(6)まであり。
〔画像解説〕
知恩院大釣鐘を鐘楼西側から東に望む。知恩院大釣鐘は吉水の鐘とも呼ばれ、寛永13年(1636)に三条釜座によって鋳造された日本最大の銅鐘である。高さ5.4m、口径2.7m、厚さ29cm、重量約7.5t(約2万貫)である。

■ 確認結果

目録番号: 26「鎌倉の大釣鐘」は、目録番号:4247「知恩院大釣鐘(5)」などにあるとおり、京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院「知恩院」の大釣鐘である。
現在の写真は、ゆんフリー写真素材「梵鐘」から。同説明は次のとおり。

知恩院の大鐘楼です。1636年鋳造の高さ3.3メートル、口径2.8メートル、重さ約70トンの釣鐘です。ここでの大晦日の除夜の鐘は17人で撞く大規模なもので、日本では有名です。知恩院(ちおんいん)は浄土宗総本山の寺院で、開基(創立者)は法然です。江戸時代には京都における徳川家の拠点とする目的から大規模な伽藍が建立されました。

長崎外の古写真考 目録番号:1529 湖畔の宿場町

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1529 湖畔の宿場町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1529 湖畔の宿場町
〔画像解説〕
場所を特定する手掛かりはないが、他の写真などとの比較から、芦ノ湖あたりの雰囲気がうかがえる。いずれにせよかなり賑いを見せる宿場町のようである。風景写真としても美しい。

目録番号:3148 箱根宿(7)
〔画像解説〕
箱根関所跡付近から見た箱根宿。立木の背後二階屋は旅籠はふや(現在の箱根ホテル)、その右手の大きな藁葺き屋根は本陣で、順に川田本陣・駒本陣・石内本陣・天野平左衛門本陣。目録番号2945より本陣の裏庭等が芦ノ湖に突き出ている。背後の左手の山が鞍掛山で、その右側の鞍部が箱根峠。

目録番号:4677 芦ノ湖(17)
〔画像解説〕
箱根関所の跡地付近から箱根宿を望んだ写真である。写真中央に見える樹木の下の建物は、「湖崖に層楼を築く」(明治27年出版『増補箱根温泉案内』)と紹介されている「はふや」の三景楼(さんけいろう)である。高瀬四郎右衛門が経営する「はふや」は明治10年(1887)代にこの三景楼を新築し、宿泊客に対して西洋料理を出すなど先駆的な旅館として人気を集めていた。三景楼の後ろには、川田覚右衛門・駒佐五右衛門(柏屋)・石内太郎左衛門(鎌倉屋)・天野平左衛門といった本陣の大屋根が連なる。箱根宿の本陣は6軒あるが、その内の5軒が湖側にあり、芦ノ湖から遠く富士山を望むことのできる眺望の利く場所に位置していることがわかる。また、湖岸に石積みをして敷地内に裏庭を確保している。背景のなだらかな峰を越え、山を下ると三島である。

■ 確認結果

目録番号:1529「湖畔の宿場町」は、目録番号:3148「箱根宿(7)」及び目録番号:4677「芦ノ湖(17)」にあるとおり、箱根関所跡付近から見た「箱根宿」である。
タイトルなどのの調整要。

長崎外の古写真考 目録番号:1312 谷川の丸木橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1312 谷川の丸木橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1312 谷川の丸木橋
〔画像解説〕
場所を特定する手掛かりはない。谷川にかかった丸木橋をすげ笠をかぶり、裾を端折った人物が杖を頼りに渡っている。

目録番号:2996 箱根山中の木橋
〔画像解説〕
箱根山中には大小様々な河川があるが、主な川は早川と須雲川 である。この写真がどちらかは微妙であるが、川幅や石の形等から、須雲川の方ではないかと推測する。丸太を渡したような木橋は、堂ヶ島や木賀の写真で早川に架かったものなどが見られるが、この写真とは風景が異なる。

■ 確認結果

目録番号:1312「谷川の丸木橋」は、目録番号:2996「箱根山中の木橋」と同じ写真である。撮影場所は、箱根山中の「須雲川」に架かった橋ではないかと推測されている。

悠々人氏HP「旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅 (19)箱根湯本〜畑宿」から、須雲川を渡る「旧東海道」図と、現在新設された須雲川自然探勝歩道にできている「仮設木橋」写真を参考のため載せる。この木橋が古写真の場所というわけではない。同氏の記録は次のとおり。

鎖雲禅寺  霊泉山鎖雲寺は早雲寺の塔頭の一つとして湯本に創建されたが、東海道の賑わいに合わせ、寛永7年(1630年)にここ須雲川村に移されたとのこと。この鎖雲寺を出ると須雲川に架かる須雲橋となる。この橋を渡ると、女転がしの坂となる。橋の左袂に「女転がし坂登り1町余」と掘られた石碑がある。
須雲川自然探勝歩道  乗馬の女性がこの坂で落馬したことから女転がしの坂と呼ばれるようになった。しかし、関東大震災の時、崩落してしまいその坂は今は無い。 須雲橋の手前を川沿いに須雲川自然探勝歩道が出来ている。舗装された県道を歩くのは面白くないので、この自然探勝歩道の道を選んだ。入口の道標に畑宿まで1700m、元箱根まで6200mと書いてあった。
須雲川渓谷  樹間より須雲川渓谷が見え、なかなか快適な歩道となっている。旧東海道はこうであったろうという感じの道である。…なおさら快適な山歩きをしている感じであった。
須雲川仮設木橋  途中で、須雲川を渡る所がある。ちゃんとした橋が出来ているわけではなく、丸太で出来た梯子状の橋が渓谷の岩と岩の上に掛けてある。手前から坂を下り、この丸木橋を渡って対岸に行くようになっている。手前に大きく「あぶない、増水時注意」との警告板がある。対岸に渡ると、急な坂を上り、県道に出る。この坂の途中が一部旧東海道になっている。
割石坂石畳道  自然歩道より県道に戻り横断すると「割石坂(わりいしさか)登り1町余」と掘られた石の道標がある。ここからまた暫くは旧街道歩きとなる。案内板に、曽我五郎が冨士の裾野に仇討ちに向かう途中、ここで腰の大刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところと書かれている。

長崎外の古写真考 目録番号:1470 東海道大橋からの富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1470 東海道大橋からの富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1470 東海道大橋からの富士山
〔画像解説〕
キャプションにある「大橋」に該当する地名は見あたらない。あるいは中央の橋の名称か。その橋と、対岸の二本の松ごしに、やや霞んだ富士山の遠景がとらえられている。

目録番号: 169 鈴川河合橋からの富士山(1)
〔画像解説〕
沼川(ぬまがわ)を渡る旧東海道に架けられた河合橋(かわいばし)の南側から富士山を撮影した写真である。沼川は浮島沼(うきしまぬま)を水源とし、この橋の下流で田子の浦(たごのうら)に注ぐ。架橋部分は、元々渡船箇所であったが、寛文年間(1661〜1673)に架橋された。河合橋は江戸時代から高欄の板橋であったが、高欄に斜格子が入り、橋板が水平に近づく点や既に電信柱が存在するため、明治中期頃の撮影と考えられる。橋の手前には茅葺きの建物が写るが、橋と建物の間には小さな船着場があり、荷物の積み下ろしが行われていた。橋の向こうは東海道の松並木で、この先、吉原宿(よしわらしゅく)へ向かうと富士山が道の左側に見える「左富士」となる。この写真は、静岡出身の写真師水野半兵衛(みずのはんべえ)の残したガラス乾板にあるため、水野の撮影したものである。

目録番号: 206 鈴川河合橋附近からの富士山 
〔画像解説〕
鈴川は元吉原ともいい、吉原の駅が寛永16年(1639)水害をさけて、移動したのち、鈴川駅が作られたという。富士に最も近い鉄道の駅があり、海浜には田子の浦が広がっている。

目録番号:2913 鈴川河合橋からの富士山(2)
〔画像解説〕
沼川(ぬまがわ)を渡る旧東海道に架けられた河合橋(かわいばし)の南側から富士山(ふじさん)を撮影した写真である。沼川は浮島沼(うきしまぬま)を水源とし、この橋の下流で田子の浦(たごのうら)に注ぐ。架橋部分は、元々渡船箇所であったが、寛文年間(1780〜1780)に架橋された。この写真の河合橋には「河合橋」と名前が記され、単純な二段の高欄で、橋板は緩く弧を描く上、橋のたもとに船着場の建物がないことからも目録番号169(整理番号4-20)の写真の河合橋より少し古い時期のものと考えられる。橋の向こうには東海道の松並木が見え、その間には電信柱が消された痕跡が残る。橋の上にいる人力車や大八車の人々の様子は不自然であり、モデルを使っての撮影であろう。静岡出身の写真師水野半兵衛(みずのはんべえ)は、時期を変えて河合橋を何度も撮影しているため、この写真も水野の撮影の可能性がある。

■ 確認結果

目録番号:1470「東海道大橋からの富士山」は、目録番号: 169「鈴川河合橋からの富士山(1)」などにあるとおり、この橋は「鈴川河合橋」のことだろう。
現在の写真は、「絵葉書にみる東海の富士」から。同説明は次のとおり。

河合橋は、鈴川駅(現JR吉原駅)北方200m、沼川にかかる東海道の橋。橋の上の馬車は、鈴川−大宮間を結んだ富士馬車鉄道で、明治23年開業。当時、富士郡南部唯一の交通機関だった。橋の上には、北に向かって右側に幅2フィートの線路がひかれていた。そのため、鉄道馬車は左側通行、馬力は右側通行に見える。

長崎外の古写真考 目録番号: 640 一の滝 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 640 一の滝 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 640 一の滝
〔画像解説〕
場所は不明であるが、滝壷の側に立っているのが外国人のようであるから、場所は横浜の近くではないかと思われる。

目録番号: 904 滝壺で遊ぶ子供たち
〔画像解説〕
水量豊かな山間の滝壷で十数人の子供たちがふんどし姿で水遊びをしている。手前に飛び込み台があり、回りにはカンカン帽をかぶった見物人がいる。

目録番号: 231 布引滝(6)        関連作品は12点あり
〔画像解説〕
布引滝下部を構成する雌滝とその滝壺。観瀑のための施設と人影も見える。

■ 確認結果

目録番号: 640「一の滝」及び目録番号: 904「滝壺で遊ぶ子供たち」の滝は、目録番号: 231「布引滝(6)」にあるとおり、布引渓流の下流の滝「雌滝」(めんたき 高さ19m)ではないだろうか。
布引滝は神戸の外国人居留地から近く、外国人が多く訪れた。幕末から多くの写真が撮影された。写真は布引滝「雌滝」で、橋の手前に観覧用の廊橋が架けられている。4つの有名な滝を、下流から数えると「一の滝」となるのではなかろうか。

布引の滝(ぬのびきのたき)は、神戸市中央区を流れる布引渓流(名水百選)にある4つの滝の総称。日本三大神滝のひとつ。布引滝とも表記する。名瀑として知られる古来からの景勝地である。かつて役小角が開いた滝勝寺の修験道行場として下界とは一線を画する地であった。

六甲山の麓を流れる生田川の中流(布引渓流)に位置し、上流から順に「雄滝(おんたき)」、「夫婦滝(めおとだき)」、「鼓ケ滝(つつみがだき)」、「雌滝(めんたき)」からなる。 栃木県日光市の華厳の滝、和歌山県那智勝浦町の那智の滝とともに三大神滝とされ、日本の滝百選に選ばれている。平安時代の歌集『伊勢物語』や『栄花物語』をはじめ、古くから宮廷貴族たちが和歌に詠むなど多くの紀行文や詩歌で紹介される文学作品の舞台となっている。