月別アーカイブ: 2010年3月

長崎外の古写真考 目録番号: 752 山間の宿場町

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 752 山間の宿場町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 752 山間の宿場町
〔画像解説〕
山の高いところから山間の宿場町を見おろした風景。街道に沿って何軒もの宿屋が並んでいる。右手には川が流れ、川にはいくつもの岩が露出している。

目録番号:4256 木賀温泉(8)
〔画像解説〕
明治22年(1889)開通の宮ノ下・宮城野間新道が見えないので、それ以前の木賀温泉である。奥の鳥居の位置が薬師堂。手前が亀屋の建物群で、その右端が神代楼。須沢を挟んで手前が松坂屋。左端の白壁が見えるのが松坂屋の眺海楼。一番手前が仙石屋。右に早川、背後に箱根外輪山明神ヶ岳が見える。

■ 確認結果

目録番号: 752「山間の宿場町」は、目録番号:4256「木賀温泉(8)」にあるとおり、神奈川県足柄下郡箱根町のほぼ中央部にある「木賀温泉」である。
宮ノ下、小涌谷などとともに箱根火山中央火口丘神山東斜面の有力温泉場の一つ。泉質は単純泉また弱食塩泉。歴史が古く、江戸中期(元禄時代)には「箱根七湯」の一つ(木賀湯)にあげられ、将軍家への献上湯とされた。中風(ちゅうぶ)に効くことで知られる。小田原駅からバス30分。(Yahoo!百科事典)

長崎外の古写真考 目録番号:3095 神社山門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3095 神社山門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3095 神社山門

目録番号:6558 京都上加茂

■ 確認結果

目録番号:3095「神社山門」は、目録番号:6558「京都上加茂」にあるとおり、京都市北区上賀茂本山町にある上加茂神社の楼門である。楼門は1628年建造。
京都の社寺HPによる説明は次のとおり。現在の写真も同HPから。

上加茂神社

上賀茂神社は下鴨神社と並んで京都でもっとも古い神社の一つである。伝説では神武天皇の時代に加茂山に祭神が降臨したと言われ社殿の前にある円錐型の立砂はその山の形を表したものである。上賀茂神社は雷神を祭ることから厄除けの神、五穀豊穣の神としても信仰され、祭礼にもその性格が表れている。五月五日の競馬神事は馬の競走でその年の米作を占うもので、平安時代からの伝統行事である。最大の行事は京都三大祭の一つである葵祭りである。葵祭りの名称は参列する人の衣冠や牛車を葵の葉で飾ることにちなむ。現在も平安時代の風俗を再現した行列が京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで練歩く。

長崎外の古写真考 目録番号:5911 五重塔と池

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5911 五重塔と池

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5911 五重塔と池

目録番号: 160 浅草寺五重塔と鐘楼(1)
〔画像解説〕
弁天池奥から北に向かって五重塔と鐘楼を撮す。整理番号4-10の位置より引いて、右に振ったもの。五重塔の左隣に本堂の屋根、右手前に経蔵が見える。芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」でも有名。

目録番号:4440 浅草寺時の鐘と五重塔(2)
〔画像解説〕
弁天山の時の鐘から五重塔を望む。江戸期には庶民は時計を持たなかったから時の鐘を聞いて時刻を知った。まず捨て鐘を三つ叩いたとのこと。早朝九つ鳴れば三つを引いて明六つ(現午前6時頃)ということだった。内田九一が明治5〜6年(1872〜3)に撮影した写真だが、この写真は後に手彩色され横浜写真として販売されたものである。

■ 確認結果

目録番号:5911「五重塔と池」は、目録番号: 160「浅草寺五重塔と鐘楼(1)」及び目録番号:4440「浅草寺時の鐘と五重塔(2)」にあるとおり、まったく同じ作品て゜、「浅草寺の五重塔と鐘楼」を撮影している。それぞれのタイトルを調整要。撮影者が「日下部金兵衛」や「内田九一」となっているのも調査要。

長崎の古写真考 目録番号:4718 峠の人力車(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4718 峠の人力車(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4718 峠の人力車(2)

目録番号:2514 峠の人力車(1) 
〔画像解説〕
和服姿の女性が2人で人力車に乗り、その後方路上に傘をさした2人の和服の女性が立っている。梶棒を持つ車夫は笠を被り印半纏、膝上股引、地下足袋をはいている。背景は左崖面、右木立が並ぶ路上で撮影している。

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

■ 確認結果

目録番号:4718「峠の人力車(2)」及び目録番号:2514「峠の人力車(1)」とも、目録番号:1365「茂木街道(2)」にあるとおり、これは田上峠から茂木へ河平川沿いに下る茂木街道の明治新道(旧県道)の光景であろう。
この項は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1879

長崎の古写真考 目録番号:3870 長崎の墓地(3)

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         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3870 長崎の墓地(3)
 
 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3870 長崎の墓地(3)
〔画像解説〕
   筑後町にある本蓮寺の墓地である。本蓮寺はもとサン・ラザロ病院やサン・ジョアン・バプチスタ教会があった場所で、それが破却された後、元和6年(1620)に大村本経寺の僧日恵が開創した日蓮宗の寺院である。境内は宝永4年(1704)に拡充整備されて大伽藍を形成するようになった。画面中央上の重層入母屋造りの建物が本堂で、その左手は位牌堂、右手の大きな木の手前に木部を赤く塗られた流造本殿形式の建物は清正公堂(番神堂ともいう)の神殿で、その右は廊下と拝殿である。その上に屋根が連なってみえるのは庫裏・方丈・客殿などであろう。長崎市史によると、清正公堂神殿は明治23年(1890)の建て替えで入母屋造りの仏堂形式に変更されたというので、撮影時期は当然それよりも前である。墓前に躓いて参拝する人物はまだ髷を結っているので、むしろ明治初年、上野彦馬の撮影であろうか。本蓮寺は原爆で全壊し、以後順次伽藍を復興しつつある。

 ”文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。この日は、家宣の亡くなった日である。”

■ 確認結果

 
 目録番号:3870「長崎の墓地(3)」は、超高精細画像の画像解説にあるとおり、長崎市筑後町にある「本蓮寺の墓地」である。タイトルの変更要?。

長崎外の古写真考 目録番号:3018 神社(8)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3018 神社(8)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3018 神社(8)

目録番号:3103 芝増上寺境内(1)
〔画像解説〕
“文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。この日は、家宣の亡くなった日である。”

■ 確認結果

目録番号:3018「神社(8)」は、目録番号:3103「芝増上寺境内(1)」にあるとおり、「芝増上寺境内」であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:2990 滝(6)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2990 滝(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2990 滝(6)

目録番号: 491 湯元温泉湯滝
〔画像解説〕
湯の湖からの水の落口に広い岩盤を末広がりに流れ下る湯滝がある。 湯滝が湯川となって戦場が原を流れ龍頭の滝となって中禅寺湖に落ちる。 滝壷近くの中央の立木はまだ小さい。 昭和末大きくなったこの立木は洪水で流失した。

■ 確認結果

目録番号:2990「滝(6)」は、目録番号: 491「湯元温泉湯滝」にあるとおり、「湯本温泉湯滝」(「湯本」が正)であろう。湯滝は奥日光、湯ノ湖から流れ落ちる滝で、高さ50メートル、幅20メートル。華厳の滝、竜頭の滝と並び奥日光三名瀑のひとつである。
現在の写真は、ギャメロンさんのブログ「ぶら〜り日記」から。

長崎外の古写真考 目録番号:2364 五重塔

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2364 五重塔 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2364 五重塔

目録番号:1780 仁和寺五重塔
〔画像解説〕
仁和寺五重塔を塔西側から東に見上げる。辺りには小高い松の木と、御室桜が植えられている。手前の左右に続く参道は仁和寺の仁王門と金堂をつなぐ。仁和寺五重塔は寛永14年(1637)に徳川家光が創建した。各方約5.5m、高さ33mの朱塗の五層塔婆である。

■ 確認結果

目録番号:2364「五重塔」は、目録番号:1780「仁和寺五重塔」にあるとおり、京都市市右京区御室大内にある仁和寺の五重塔でないだろうか
真言宗御室(おむろ)派の総本山、御室御所とも言われている。仁和寺五重塔(重要文化財、江戸時代初期 寛永14年 1637年再建、本瓦葺、高さ32.7m)
復古式五重塔の代表作。塔は、各層の屋根の大きさがほぼ同じという江戸期の特徴を示している。現在の写真は、京都の塔から。

長崎外の古写真考 目録番号:1106 蓮池(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1106 蓮池(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1106 蓮池(2)
〔画像解説〕
本コレクション中に蓮池の写真が多数ある。整理番号15-49「不忍池(2)」などとの比較から、本写真も不忍池と思われる。全面の大きな蓮の花と遠景の木立の対比によって、池の広がりが強調されている。

目録番号:2253 鶴岡八幡宮の蓮池(5) ほか
〔画像解説〕
” №54B. LOTUS FLOWERS AT KAMAKURA.’とある。向かって右には木の鳥居があり、その左側の赤い建物は若宮で、上にあるのは上宮廻廊(かいろう)であろう。ところで、明治期には池の周囲に馬場があったというが、この写真では判然としない。「玉村康三郎作品集」所収。撮影年代未詳。

■ 確認結果

目録番号:1106「蓮池(2)」は、目録番号:2253「鶴岡八幡宮の蓮池(5)」ほかのとおり、「鶴岡八幡宮の蓮池」だろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1149 神社(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1149 神社(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1149 神社(3)
〔画像解説〕
神社の社殿配置を全体的に捉えた写真であるが、神社の特定は未詳である。

目録番号:1540 生田神社(3)
〔画像解説〕
湊川神社の写真である。湊川(みなとがわ)神社はJR神戸駅の北に位置し、建武3年(延元元年[1336])5月湊川の戦で足利軍に敗れ、この地で自刃した楠木正成(くすのきまさしげ)を祀る。神社としての歴史は、慶応4年(1868)4月に政府が社壇造営を決定したことに始まる。明治5年(1872)4月に社号は湊川神社、社格は別格官幣社と決まり、5月には社殿が完成。写真は明治10年頃から20年代前半の撮影であろう。手前の建物は拝殿、奥は本社である。写真には写っていないが、元禄5年(1692)に徳川光圀(みつくに)が建てた「鳴呼忠臣楠子之墓」(ああちゅうしんなんしのはか)の石碑などが現存する。神社北方の丘陵には、後に実業家大倉喜八郎(おおくらきはちろう)が別荘を営んだのにちなんで、明治44年(1911)大倉山公園が開園される。その右手の宇治野山には、明治29年(1896)兵庫県立神戸測候所が創設され、大正9年(1920)に日本最初の海洋気象台が発足する。

■ 確認結果

目録番号:1149「神社(3)」は、目録番号:1540「生田神社(3)」と同じ神社を撮影した写真である。目録番号:1540「生田神社(3)」は、タイトルが「生田神社」となっているが、画像解説では「湊川神社の写真である」とし、解説している。

湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
生田神社(いくたじんじゃ)も、同じ神戸市中央区にある神社だが、古写真の中央建物は、当時の「神能殿」のようであり「湊川神社」が正しいと思われる。