長崎の古写真考 目録番号:1365 茂木街道(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1365 茂木街道(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

目録番号:2264 茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。

目録番号:5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)

■ 確認結果

目録番号:1365「茂木街道(2)」の〔画像説明〕によると、茂木街道は「人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた」
古写真は、現在の田上1丁目の転石バス停から、旧県道の道へ行き、ホテル古都の先、これまでの茂木街道と、この明治20年(1887)開通した明治新道(旧県道)の折れ曲がって河平川の谷間沿いへ下る分岐地点を写している。

次の目録番号:2264「茂木街道(3)」と、目録番号:5868「茂木への道(Road to Mogi)(5)」も、道の向きと背景となった茂木町方面の山の連なりを見ると、3枚とも同じところの地点を撮影している。目録番号:1365「茂木街道(2)」と目録番号:2264「茂木街道(3)」は、人力車、人物から同じ写真だろう。

それなのに、なぜ2枚目の目録番号:2264「茂木街道(3)」の説明は、撮影地点が「柳山辺り」となるのだろう。「柳山」はここからまっすぐにこれまでの茂木街道の道を行って、若菜川本流となる別の谷間へ下ったところにある集落である。
昭和57年長崎大水害により、アーチ式石橋「柳山橋」は流失した。