月別アーカイブ: 2009年2月

興 福 寺 (2)  長崎市寺町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

興 福 寺 (2)  長崎市寺町

興福寺は、長崎市寺町通りの北の方にある。日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。 寛永元年(1624)、中国僧の真円により創建された。
崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の1つに数えられる。黄檗宗の開祖隠元禅師ゆかりの寺院。本堂の大雄宝殿は国指定重要文化財である。
同寺パンフレットによる説明は次のとおり。拝観料300円。

国指定重要文化財  東明山 興 福 寺

興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。
この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺を建てられたといわれています。
日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。

大雄宝殿(本堂)  国重要文化財
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建、さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。

瑠璃燈(本堂内)市有形文化財・媽祖堂(まそ・ぼさどう)県有形文化財・鐘鼓堂 県有形文化財・三江会所門(さんこうかいしょもん)県有形文化財・山門 県有形文化財・旧唐人屋敷門(長崎市所有)国重要文化財・中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)県重要文化財・魚板(けつ魚)

興 福 寺 (1)  長崎市寺町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

興 福 寺 (1)  長崎市寺町

興福寺は、長崎市寺町通りの北の方にある。日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。 寛永元年(1624)、中国僧の真円により創建された。
崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の1つに数えられる。黄檗宗の開祖隠元禅師ゆかりの寺院。本堂の大雄宝殿は国指定重要文化財である。
同寺パンフレットによる説明は次のとおり。拝観料300円。

国指定重要文化財  東明山 興 福 寺

興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。
この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺を建てられたといわれています。
日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。

大雄宝殿(本堂)  国重要文化財
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建、さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。

瑠璃燈(本堂内)市有形文化財・媽祖堂(まそ・ぼさどう)県有形文化財・鐘鼓堂 県有形文化財・三江会所門(さんこうかいしょもん)県有形文化財・山門 県有形文化財・旧唐人屋敷門(長崎市所有)国重要文化財・中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)県重要文化財・魚板(けつ魚)

サント・ドミンゴ教会跡資料館  長崎市勝山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

サント・ドミンゴ教会跡資料館  長崎市勝山町

長崎代官であった末次平蔵の屋敷跡は、現在、長崎市立桜町小学校が建っている。末次平蔵が屋敷を構える以前は、サント・ドミンゴ教会が建っていたが、慶長19年(1614)の禁教令によって破壊された。
桜町小学校は、平成13年に新興善小学校と勝山小学校が合併し、勝山小学校の敷地に新築された。建替えに伴い、敷地内の発掘調査が行われ、遺構は桜町小学校の敷地内に「サント・ドミンゴ教会跡資料館」として保存され、一般に無料公開されている。

この教会は、長崎代官の村山等安がドミニコ会に寄進した土地に、薩摩を追われたモラーレス神父が、京泊(現在の鹿児島県薩摩川内市)にあった教会を解体して、木材を船で運んで建てたものである。完成してからわずか5年後には、徳川幕府の禁教令により破壊されてしまった。
禁教令が出される以前の、江戸初期の教会遺跡が残っているのは全国でも珍しく、キリスト教の象徴「花十字紋瓦」約80点のほか、多くの遺物が発見されている。

所 在 地■長崎市勝山町30−1(長崎市立桜町小学校内) 
資料館入口は長崎歴史文化博物館通り側にある。
開館時間 ■ 9:00〜17:00
休 館 日■毎週月曜日(祝日の場合は開館)と12/29〜1/3

長崎の古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3863 立神ドック(1)
目録番号:4729 立神ドック(2)
目録番号:5223 立神ドック(3)   ほか関連作品 同5224(4)、5628(6)、5894(7)あり

■ 確認結果

目録番号:3863「立神ドック(1)」の、超高精細画像による解説は次のとおり。
解説
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年代後期の写真である。
目録番号 4729(登録番号93-21)は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドッグハウスが完成し、ドックの周りにはさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のための戦艦が入っている。
立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ11.6mの本格的なドッグである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。周囲の環境から、設備も少なく、三菱会社に払い下げられた頃の写真である。

立神ドックを写した同じような構図のこれら古写真6点。年代はそれぞれ違うが、立神バス停から西泊へ向かう立神トンネル手前の山手高台から撮影されている。ここは現在、市「西立神墓地」となっており、墓地の下段部、白石家の墓のあたりからではないだろうか。
現在の三菱長崎造船所立神ドックの変貌ぶりを見てもらいたい。背景の山は右が「彦山」、左は「武功山」から「烽火山」の尾根となろう。巨大クレーンが動かないと、背景の山は良く写らない。

長崎の古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集:  83 戸町の入江
古写真集:  84 小菅と長崎港
目録番号:4238 高鉾島(24)     関連作品 「高鉾島(1)」ほか25点
目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎市古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の94頁に掲載がある古写真の2点。同146頁による「図版解説」は次のとおり。

83 戸町の入江〔彩色〕               日本カメラ博物館所蔵
長崎港入り口の目印となっていた高鉾島(左下の表題にあるように鎖国期からパッペンベルグと呼ばれていた)は、外国人には殉教地としても知られ、多くの写真が残されている。これは戸町の丘上から遠望したもので、右手の岬が神崎鼻。左手の入江には和船が停泊している。美しい彩色の写真である。明治中期ころの撮影であろうか。横浜開港資料館所蔵の同一作品はファサリ商会の撮影と推定されている。

84 小菅と長崎港〔彩色〕              日本カメラ博物館所蔵
戸町の丘上の墓地から長崎港を遠望したもの。眼下にみえるのが明治元年に完成した小菅修船場(通称ソロバンドック)で、艦船がドック入りしている。茶色に塗られた捲上げ小屋は、現存するわが国最古の煉瓦造建築である。対岸の中央が三菱造船所の立神ドックで、背後の山が稲佐山。電柱が立っていることからして、明治30年代の撮影とみられる。停泊している艦船も5000t以上の大型船がふえていたのがうかがえる。

HPに同じ写真が収録されている。古写真集: 83「戸町の入江」は、目録番号:4238「高鉾島(24)」に、同: 84「小菅と長崎港」は、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となっている。
「高鉾島(24)」外に、「高鉾島」の同じ構図の関連作品は、(1)から(42)のうち、実に25点がある。いずれも戸町の丘上から撮影されている。

目録番号:4238「高鉾島(24)」は、前記のファサリ商会の撮影と推定されている同一写真。右下に墓石が写り、戸町墓地から見た景色である。
小ヶ倉バイパスから戸町墓地の上部駐車場へ行く。長崎港入口の同写真は、駐車場から右手でなく、左手へ上がった墓地の高台から撮影されている。この辺りが撮影の名所だったのだろう。
次に、長崎港内と市街地へ視界を移した写真が、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となる。日本カメラ博物館所蔵で「長崎古写真集 居留地編」94頁に掲載された2枚の写真は、いずれも戸町墓地の左手高台のほぼ同じ場所から撮影されたと考えられる。

戸町墓地の右手高台を正面へ見る場所。墓地の後ろは、平成19年2月完成した大型マンション「アプローズ長崎南六番館」が建つ。ここは古城「水本城址」であり、「戸町御番所」の境界でもあった。マンション駐車場奥から、わずかに残った山頂へ行かれる。
「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間 弐拾九間半 亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」と4面に刻んだ「五番標石」が残る。寸法は21cm角、高さ90cm。標石が、長崎県史跡に指定されている。
「戸町御番所」の標石は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437

長崎の古写真考 目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

■ 確認結果

高島は、長崎港から南西へ約14.5km。伊王島と端島(軍艦島)の中間にある島である。石炭の島として栄え、昭和61年(1986)に閉山した。
目録番号:5242「高島二子島炭鉱前景」は、「二子島」以外、説明が特にない。「二子島」とは、高島本島の南海岸にあった2つの小島である。手前のが「上二子島」、その先のが「下二子島」と呼ばれた。現在、大きな風車の高島風力発電装置が建っている所が「下二子島」である。
本島との間は広い埋め立て地となり、高島ふれあい多目的運動公園もできている。

高島の移り変わりは、高島港ターミナル近くの「石炭資料館」に、地図や古写真が展示されている。双方から判断すると、「下二子〜上二子間の埋め立て工事」は明治41年(1908)頃、完成が大正3年(1914)。高島本島と二子島が連絡道で結ばれたのが、大正9年(1920)となろう。

目録番号:5242「高島二子島炭鉱前景」の古写真は、「上二子島」の頂上あたりから「下二子島」を撮影していると思われる。
下二子〜上二子間の埋め立てが済み、「二子島炭坑」の広い操業場となった年代。右側の沖に浮かぶ2島は、「中ノ島」と「端島」(軍艦島)。左側は野母崎の半島で「権現山」が写る。

「上二子島」の頂上あたりまで、当時は建物がびっちり建っていた。石垣が残る。現在は完全に荒れて、途中の畑地としている所までしか登れない。
ここでは「下二子島」が写せない。やむなく高島本島側の空室がほとんど古い市営アパート8階の階段窓から、同じような景色を写してみた。

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

古写真集:  87 高島炭鉱の立坑

古写真集:  88 高島炭鉱の石炭搬送場

■ 確認結果

高島は、長崎港から南西へ約14.5km。伊王島と端島(軍艦島)の中間にある島である。石炭の島として栄え、昭和61年(1986)に閉山した。
目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の超高精細画像による解説は次のとおり。
解説
鶏卵紙一枚のもので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名であり、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3232(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に随行した内田九一の撮影と思われる。
人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。

古写真の向いの三角の小島は、現在「飛島磯釣り公園」となって、遊歩道と釣場、橋で繋がっている「飛島」である。中央奥は、伊王島の下島「沖之島」で、遠見山のピークが見える。
したがってこの古写真は、高島の北海岸にある「南風泊港」を撮影していることは間違いない。「本町」バス停下に、グラバーが高島炭坑開発のため、イギリス人技師モーリスを招き、明治2年(1889)4月、日本最初の蒸気機関による立坑(約43m)を開坑した市指定史跡「北渓井坑跡」が残り、港左方海岸の小島へ行くと松林の中に「グラバー別邸跡」がある。

次の古写真集: 87「高島炭鉱の立坑」と同: 88「高島炭鉱の石炭搬送場」の写真が、当時の上が「南洋井坑」、下が「北渓井坑」の採炭の様子を写していると思われる。その石炭をトロッコで、「北渓井坑」は近くの船積場「南風泊港」に運んでいたのである。
現地の史跡説明板は、このうちの2枚の古写真を使用して設置されている。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の96頁に写真があり、147頁の「図版解説」による説明は次のとおり。

87 高島炭鉱の立坑
88 高島炭鉱の石炭搬送場          いずれも日本大学芸術学部所蔵
慶応4年(1868)、T.B.グラバーは領地支配者だった佐賀鍋島藩の長崎出張人松林源蔵と共同経営の協約を結んで、高島炭鉱の新規開発事業に乗り出した。本国から最新式の機器・技術を導入して、深さ70m余におよぶ堅坑道を穿ち、機械化によって大量の良質炭を採掘、運搬することに成功した。すなわちわが国鉱業の最初の近代化をもたらしたわけだが、経営の方はその後、紆余曲折があって明治14年に三菱商会の所有となった。
撮影は上野彦馬。明治中期頃であろうか。

高 島 (6) 石炭資料館の展示古写真類  長崎市高島町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

高 島 (6) 石炭資料館の展示古写真類  長崎市高島町

長崎港口、伊王島のすぐ先となる高島へ行く。古くから炭坑の島として栄え、日本の近代化を支えてきた。昭和61年(1986)閉山。現在は、島の特性と美しい海を活用する町おこしを始め、新たなリゾートの島として生まれかわっている。
長崎港から南西へ約14.5km。高速船で34分である。海釣り・健康(入浴)パック2,000円が得。全周6.4km。島内は周囲の景観を楽しみながら、2時間もあれば歩いて一周できる。

(5)は、「石炭資料館」の展示品。近代化産業遺産。(6)は、展示古写真類。
「石炭資料館」は、高島港ターミナル近くにある。昭和61年に閉山した高島炭坑が、かつて操業していた頃の坑内、坑外で使用していた人車(トロッコ)・炭車・採炭機械などや歴史資料が展示されている。また、高島町の古写真や昔の農機具など民俗資料も展示されている。
入館無料。開館時間は9:00〜17:00。休館日は年末年始。

高 島 (5) 石炭資料館の展示品  長崎市高島町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

高 島 (5) 石炭資料館の展示品  長崎市高島町

長崎港口、伊王島のすぐ先となる高島へ行く。古くから炭坑の島として栄え、日本の近代化を支えてきた。昭和61年(1986)閉山。現在は、島の特性と美しい海を活用する町おこしを始め、新たなリゾートの島として生まれかわっている。
長崎港から南西へ約14.5km。高速船で34分である。海釣り・健康(入浴)パック2,000円が得。全周6.4km。島内は周囲の景観を楽しみながら、2時間もあれば歩いて一周できる。

(5)は、「石炭資料館」の展示品。近代化産業遺産。(6)は、展示古写真類。
「石炭資料館」は、高島港ターミナル近くにある。昭和61年に閉山した高島炭坑が、かつて操業していた頃の坑内、坑外で使用していた人車(トロッコ)・炭車・採炭機械などや歴史資料が展示されている。また、高島町の古写真や昔の農機具など民俗資料も展示されている。
入館無料。開館時間は9:00〜17:00。休館日は年末年始。

長崎の3つの「オランダ坂」  長崎市東山手町・丸山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の3つの「オランダ坂」  長崎市東山手町・丸山町

長崎には現在、「オランダ坂」と呼ばれる坂が3つある。山口広助氏HP「丸山歴史散歩」によると、以下のとおり。
なお、HP「長崎県の坂」では、南山手町の「(前)東急ホテルから大浦天主堂・グラーバー園に行く坂」も、東山手のオランダ坂と区別するため「下り松(さがりまつ)オランダ坂」と言われたようだが、今は一般的には「グラバー通り」と呼ばれている、と記しているため、この坂は除外したい。

東山手町に2つ。まず、「ホテルニュータンダ横から活水学院へ向かう坂道」。第二次世界大戦後、しばらくは「ロチ坂」と呼ばれていた。江戸末期の居留地造成の際に切り開かれた道。当初は切通しとも呼ばれ、道幅は現在の3分の1ほどしかなかった
明治18年(1885)来崎したフランスの小説家、ピエール・ロチが、居留地からこの道を通り、十人町の仮寓の家へ往来しているところからこの名が付いた。現在は、観光目的のため「オランダ坂」へと変化しているようだとある。

次は、「活水学院や海星学園がある高台から石橋電停に向かうなだらかな坂道」。もともと、御崎道で使われた街道。今のように広く開けたのは江戸末期、居留地造成の際に整備された。
文久3年(1863)日本初のイギリス聖公会会堂(礼拝堂)が東山手に完成すると、東山手や南山手に住む多くの外国人信者が日曜毎にこの坂道を通るようになった。当時、長崎人はオランダ人でもイギリス人でも欧米人のことを“オランダさん”と呼んでいたため、オランダさんが通る道ということで「オランダ坂」と呼ばれるようになった。
誠孝院前の坂を俗に「誠孝院の坂(ジョウコインーサカ)」というのは、昭和8年(1933)誠孝院が移転してから呼ばれたものである。

以上2つの坂には、通りに大きく「オランダ坂」と刻んだ石碑が建って、良く知られている。
しかし、丸山町にある「阿蘭陀坂/オランダ坂(おらんだざか)」が、長崎の中で「オランダ」とつく最初の場所、「ほんとうのオランダ坂」であるらしい。
思案橋先の電車通りから、標柱がある右の坂段へと入る。料亭「青柳」の角門からさらに折れ曲がりながら坂道を行くと、写真のとおり手書きの説明板があった。白紅の梅が満開の梅園身代わり天満宮へ着いた。、
山口広助氏HP「丸山歴史散歩」による説明(C−45 2005/07/01記事)は次のとおり。

C−45:阿蘭陀坂/オランダ坂(おらんだざか)
丸山町8−1横(旧本石灰町/矢柄町)
祟福寺前から電車通りに突き当たったところに丸山に抜ける28段の階段があります。古賀十二郎先生著「丸山遊女と唐紅毛人(前編)」の中にも記述があるようにこの階段を阿蘭陀坂といいます。江戸時代(鎖国時代)、丸山遊女は出島阿蘭陀商館に出入を許されていた唯一の女性で、「阿蘭陀行き」と呼ばれていました。言伝えでは、その阿蘭陀商館行きの遊女が出島に向かうとき、丸山の表門を通らずこの階段を下だり、当時、川(玉帯川)だった電車通りのところから小舟に乗って出島に向かっていたといわれています。この阿蘭陀商館に向かう「阿蘭陀行き」の遊女が通った坂(階段)というところから阿蘭陀坂と呼ばれるようになります。

一方、幕末の開国後、丸山の上手の小島(中小島公園付近)に西洋料理店の福屋が出来、居留地に住む多くのオランダ人(当時、外国人はすべてオランダ人と呼んでいた)が頻繁に福屋に通ったといわれています。このオランダ人が丸山の花街の中を通らず、この坂を通り福屋に向かったところからオランダ坂となったともいわれています。