長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

古写真集:  87 高島炭鉱の立坑

古写真集:  88 高島炭鉱の石炭搬送場

■ 確認結果

高島は、長崎港から南西へ約14.5km。伊王島と端島(軍艦島)の中間にある島である。石炭の島として栄え、昭和61年(1986)に閉山した。
目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の超高精細画像による解説は次のとおり。
解説
鶏卵紙一枚のもので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名であり、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3232(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に随行した内田九一の撮影と思われる。
人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。

古写真の向いの三角の小島は、現在「飛島磯釣り公園」となって、遊歩道と釣場、橋で繋がっている「飛島」である。中央奥は、伊王島の下島「沖之島」で、遠見山のピークが見える。
したがってこの古写真は、高島の北海岸にある「南風泊港」を撮影していることは間違いない。「本町」バス停下に、グラバーが高島炭坑開発のため、イギリス人技師モーリスを招き、明治2年(1889)4月、日本最初の蒸気機関による立坑(約43m)を開坑した市指定史跡「北渓井坑跡」が残り、港左方海岸の小島へ行くと松林の中に「グラバー別邸跡」がある。

次の古写真集: 87「高島炭鉱の立坑」と同: 88「高島炭鉱の石炭搬送場」の写真が、当時の上が「南洋井坑」、下が「北渓井坑」の採炭の様子を写していると思われる。その石炭をトロッコで、「北渓井坑」は近くの船積場「南風泊港」に運んでいたのである。
現地の史跡説明板は、このうちの2枚の古写真を使用して設置されている。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の96頁に写真があり、147頁の「図版解説」による説明は次のとおり。

87 高島炭鉱の立坑
88 高島炭鉱の石炭搬送場          いずれも日本大学芸術学部所蔵
慶応4年(1868)、T.B.グラバーは領地支配者だった佐賀鍋島藩の長崎出張人松林源蔵と共同経営の協約を結んで、高島炭鉱の新規開発事業に乗り出した。本国から最新式の機器・技術を導入して、深さ70m余におよぶ堅坑道を穿ち、機械化によって大量の良質炭を採掘、運搬することに成功した。すなわちわが国鉱業の最初の近代化をもたらしたわけだが、経営の方はその後、紆余曲折があって明治14年に三菱商会の所有となった。
撮影は上野彦馬。明治中期頃であろうか。