長崎の台場・番所など跡」カテゴリーアーカイブ

長刀岩台場・跡  長崎市香焼町 ( 長崎県 )

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長刀岩台場・跡  長崎市香焼町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。現地は三菱香焼ドックのため立ち入りできないので、海上からの撮影。

長刀岩台場・跡 なぎなたいわ
長崎市 香焼町 台場 (新台場・増台場) 文化5-7(1808-10) 市教委 立入禁止(海岸沿いにあり船から石垣がよく見える)/三・四ノ増台場跡、常住小屋跡の石垣が残存 古台場は肥前・平戸藩、増台場は筑前・福岡藩が構築(新台場は不明)/旧香焼島の北端・長刀鼻に設置 3 B

2007年、知人の釣り船で近くの高鉾島に上陸調査後、香焼島にも接近し写した。「長刀岩台場」の詳しい文献はわからないが、場所はここであろう。
国史跡「魚見岳長崎台場跡」に、本年3月「四郎ヶ島台場跡」が追加指定された。佐賀藩が同時に築いた香焼島「長刀岩台場」や「伊王島の各台場」が指定からもれている。
特に伊王島灯台下の「出鼻(又は真鼻)台場跡」の荒れ方はひどい。旧伊王島町や長崎市が、展望台や東屋を造っている。保存状態が悪かったから、指定できなかったのだろうか。

山口広助氏のHP”広助の『丸山歴史散歩』”による説明は、次のとおり。
C-530:長刀台場跡(なぎなただいば-あと)  ●2012/01/12 
香焼町(香焼村字蔭ノ尾)【三菱香焼工場】
寛永16年(1639)ポルトガル船の日本渡航を禁止し鎖国が完成。しかし正保4年(1647)ポルトガル船が通商再開を請うため来航し長崎港は緊張が走ります。翌年の慶安元年(1648)西泊戸町番所を増強し、承応2年(1653)幕府は平戸藩松浦肥前守鎮信に命じ長崎港内7か所に台場を設けます。このうち4か所は長崎港外に設けられ、蔭ノ尾島の北、長刀岩に設けられ侵入の船を警戒していました。この台場は旧蔭の尾灯台一帯にあったものと考えられていて、文化5-7年(1808-10)には増台場が増築。さらに駐屯小屋が上下2段の平地に設けられ、石垣と大井戸が現存しています。

(2014年12月4日 追 記)
以下は、入江氏からの協力画像を末尾に追加して載せる。
香焼島の内、蔭ノ尾島に在った長刀岩台場と蔭ノ尾島の位置を航空写真に書き込みました。長刀岩台場は海岸近くが在来台場、その一段上に四番、その上に三番、二番、一番と高い場所に造られました。
蔭ノ尾は陰ノ尾とも書かれている台場で、海岸に在来台場、崖の上に新規台場が造られました。
添付した写真「長刀陰ノ尾台場1」はYahooの航空写真です。
「長刀陰ノ尾台場2」は国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」整理番号MKU628、1962年5月29日撮影の写真です。

伊王島と沖之島の台場跡  長崎市伊王島町

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伊王島と沖之島の台場跡  長崎市伊王島町

伊王島町教育委員会編「伊王島町郷土誌」昭和47年発行の関係部分写しは、上記のとおり。
現在の写真は、伊王島「円通庵下台場」(円通寺上台場ないし船津夏ノ上台場のことか)の判読不能説明板。現地は、円通寺本堂すぐ背後の高台にあり、古い石垣が少し確認できる。
沖之島には、「観音崎台場」があったようだが、これも今はすでに跡かたもなくなっている。

第3章伊王島の歴史 126頁
伊王島の台場はフェートン号事件直後(文化6年)いわゆる新台場として、野母、高浜、川原、椛島、高島、伊王島、沖之島、神ノ島の各海岸に新築したもので、このときの場所は、沖之島観音崎、船津夏ノ上、大明寺干場、中ノ田、出鼻(真鼻又は灯台鼻という)の5ケ所である。
(文化6=1809 嘉永4〜5=1851.8〜1852春)

佐賀藩兵を配備。伊王島に5万石、沖之島に2万石の蓮池や多久、武雄の小藩が6ケ月及至3ケ月づつ勤番していたことは如何に伊王島が重要視されていたことがわかる。(120頁)

第10章 史跡・名勝 471頁
33 円通寺上台場
通称夏ノ上台場といわれ、四郎ケ島、神之島に対して重要の堡塁であり、大モチール砲もここの据えつけられたのではないかと思われる。石垣の石も殆んど持ち去られて耕地となっている。当時は80ポンド砲まで据えつけ完備していた。
34観音崎台場
これは寛永4年の図にあるが、今はすでに跡かたもなくなっている。

(2015年6月25日 追 記)
入江氏から「以前作成していた伊王島の台場地図に若干、手を加えた地図を送ります」とのことで、この地図を追加する。

四郎ケ島の草刈りツアーと風景  平成23年4月

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四郎ケ島の草刈りツアーと風景  平成23年4月

長崎港の港口、長崎市神ノ島町3丁目にある四郎ケ島は、江戸時代後期となり佐賀藩が長崎港警備のため、総力をあげて築いた台場跡である。台場として国第一級の史跡にかかわらず、事情があり指定されずにいる。
佐賀の人が史跡保存にかえって関心があり、このため今回も史跡見学を兼ねた草刈りツアーが実施された。

平成23年4月22日(金)、佐賀城本丸歴史館ボランティアガイドなど26人がマイクロバスで来崎、四郎ケ島の史跡見学と草刈りをした。午後は三菱長崎造船所史料館を見学している。
さがテレビも同行、取材していた。四郎ケ島は現在、発掘調査が行われており、中央広場では、遺跡のほぼ全容を見ることができる。
長崎の連絡役江越先生の手伝いで、私たちも参加したが、朝から雨だったので長崎の参加者は5人だった。

四郎ケ島台場跡の草刈り整備  長崎市神ノ島町3丁目

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四郎ケ島台場跡の草刈り整備  長崎市神ノ島町3丁目

長崎港口にある四郎ケ島は、江戸時代後期となり佐賀藩が長崎港警備のため、総力をあげて築いた台場跡である。台場として国第一級の史跡にかかわらず、事情があり指定されずにいて荒れ気味である。
佐賀の人が史跡保存にかえって関心があり、このため2年前4月に続き今回も佐賀側から3人が史跡見学を兼ねた草刈りに来崎された。

平成22年4月2日(金)曇り。四郎ケ島の海道入口に10時集合。江越先生からの依頼により長崎側は10人が参加。計13人で12時30分まで草刈りをした。
台場跡の井戸から中央広場へ上がる道及びトンネルを抜け長崎港口の香焼側を向いた大砲の砲口の場所を重点的に実施した。2門の砲口の場所は前面の竹薮を伐ったので、海が見え入港する船などの見通しが良くなった。
他の場所はどうした進展があったのか、直前にどこかの手で大々的な全般の草刈りが行われていて助かった。

当日の草刈り作業の様子は、宮さんのブログ記事を参照。私はデジカメを持参忘れ、携帯により作業後の島内の主な個所を写してきた。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/24234099.html

四郎ケ島の草刈りツアーと風景  長崎市神ノ島町3丁目

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四郎ケ島の草刈りツアーと風景  長崎市神ノ島町3丁目

長崎港の港口にある四郎ケ島は、江戸時代後期となり佐賀藩が長崎港警備のため、総力をあげて築いた台場跡である。台場として国第一級の史跡にかかわらず、事情があり指定されずにいて荒れ気味である。
佐賀の人が史跡保存にかえって関心があり、このため今回も史跡見学を兼ねた草刈りツアーが実施された。

平成20年4月7日(月)、有明海ぐるりんネット原田理事ほか、佐賀城案内ボランテァの会の人など20人ほどがマイクロバスで来崎、四郎ケ島の見学順路の草刈りをした。写真はその様子と四郎ケ島からの景観など。風景は前にも紹介している。
長崎の連絡役江越先生の手伝いで、私たちも参加したが、朝から雨だったので長崎の参加者は4人だった。

長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」  江越弘人氏作成資料

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長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」  江越弘人氏作成資料

これは、平成19年4月28日及び10月14日実施した長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」の際に、参加者へ配布した講師江越弘人氏(「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者・長崎街道ネットワークの会会長)作成資料である。

琴の尾岳のもう1つの烽火台跡  山頂北側山腹

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琴の尾岳のもう1つの烽火台跡  山頂北側山腹

諌早市多良見町と西彼杵郡長与町の境にある琴の尾岳は、標高451.4m。四方の眺望よく大村湾と長崎空港を眼下に望み、公園として整備されている。山頂の展望台には琴尾神社があり、鎖国時代、長崎烽火山から烽火の知らせを受ける重要な中継地点となり、烽火台跡がある。その跡は無線中継所下の駐車場側にあり(別項ですでに紹介している)、一般の人にはここしか知られていない。

しかし、琴の尾岳にはあと1つ、別の場所に同じような烽火台跡があった。別項の引用文末尾にあったが、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊の「二、琴ノ尾岳狼煙台跡」の項195頁の記しているのは次のとおりである。

狼煙場跡は、この地から約一キロメートル北側にも一基ある。これは『郷村記』には記されていない。位置にしても「長崎狼火山の狼煙」と直接には、「請継」ぐことはできないところにある。どのような意味をもち、働きをするものか容易には断定できない。本来の「狼煙場」がなんらかの事故により狼煙を上げえなかった時、その補助的意味をもつものであろうか、という見方もある。

この一基はどこにあり、どんなものか、私も知らなかったから、さっそく行ってみた。現地は多良見町佐瀬。琴の尾岳の北側山腹となり、車で行く以外はわかりにくいところにある。伊木力から長与へ至る県道207号線で五十石公民館まで行く。この先に入口案内標識があり、標識に従い10分ほど勢女集落を過ぎ林道をひたすら登る。畑地の奥にやっと烽火台跡が見える。
写真のとおりの見事な烽火台跡である。郷土誌が記す疑問がよくわかる。不思議な烽火台跡であった。
場所は、別項の琴尾神社一の鳥居(勢女道)があったとされる近くであるので、その地図を見てもらいたい。道路マップにも表示されている本がある。

琴ノ尾岳烽火台跡  諌早市多良見町佐瀬

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琴ノ尾岳烽火台跡  諌早市多良見町佐瀬

諌早市多良見町佐瀬字竹山、琴ノ尾岳(451m)南側の中ほど(410m)の斜面に造られている。無線中継所塔の下の小駐車場に案内標識があり、遊歩道を下ってすぐのところである。現地説明板は写真のとおり。
詳しくは、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊192〜195頁に次のとおりあった。

(二)琴ノ尾岳狼煙台

寛永十五年(一六三八)、島原の乱は終わった。この乱によってキリシタン勢力の巨大なることを知った幕府は、鎖国体制を強化しなければならなくなっていた。それは、鎖国令を出すことも必要だが、そのほかに異国船の動向に警戒を強化することであった。当時としては、「早継ぎ飛脚」もその一つだろうが、あらかじめ合図の意味を決めておけば事足りる「狼煙」による方法があった。これは、異国船の入港を見つけると、すぐに近隣の諸大名に知らせることを企画したのだった。長崎奉行に命じて、長崎村の斧山に狼火山番所と野母村の権現山に野母遠見番所を設置した。遠見番所は、異国船の船影を見つけると、「白帆注進」によって、早く長崎奉行所に知らせるという方式で、一方、長崎の狼火山番所(鳴滝町)は、異国船来航の知らせの狼煙をあげ、大村領に所属する琴ノ尾岳狼煙場と諌早領の多良岳狼煙場とに知らせ、長崎警備の体制を取らせることにした。

この「琴ノ尾岳狼煙場」跡が旧伊木力村に残っている。それは山頂付近の傾斜面に存在している。以前に実測した時の構造の大きさは、一辺約九・五メートルの方形の基壇の上に、外径約三・五メートルの円形の竈跡がある。構造は、専ら安山岩の石材によるが、かなり散在して、竈跡も土砂が堆積している状態であった。それで構造は破壊されて、往時の姿からかなりの変貌をしてしまっていたが、、現在、修復された形で存在している。

大村藩が残した『郷村記 伊木力村』を見ると、「狼煙場蹟之事」として、次のように記述してある。
狼煙場蹟之事
一 壱岐力村琴の緒嶽の半腹に狼煙竈の跡あり、古来より長崎異変の節、長崎狼火山の狼煙、此嶽にて請継、此火平戸錐崎へ通する定なり、然共試之に曇天且雲霧深き時分ハ、此狼煙分明に通し兼る故、文化六年(一八〇九)平戸よりの相談に依て、長崎府司に達し止之、飛脚を以通するよふに極るなる
(『郷村記 伊木力村』図書刊行会 刊 二五頁)

この狼煙は、平戸藩に報知する目的もあったと記してある。だが、じゅうぶんにその機能が発揮できなかったところから、この一文によると、平戸藩からの申し出によって長崎奉行の判断によりこれを廃止したという。その文化六年の前年(一八〇八)は、長崎でフェートン号事件が起こっている。この事件は、イギリス船フェートン号が不法に長崎に入港してきて、オランダ商館員を捕らえ、そして、長崎奉行所には、薪水、食糧などを要求し、それを獲得して退去するという事件である。長崎奉行の松平康英は責任を取って切腹した。このイギリス船の暴挙は、ヨーロッパでの国際戦争の流れの一環であった。オランダ国は、フランス帝国のナポレオン皇帝の支配下にあって、有名無実化していた。これを機に幕府は海防を強化し、再編成をしなければならず、それでこの狼煙場は、じゅうぶんに対応できなかったことが廃止の直接的契機となったと考えられる。

狼煙場跡は、この地から約一キロメートル北側にも一基ある。これは『郷村記』には記されていない。位置にしても「長崎狼火山の狼煙」と直接には、「請継」ぐことはできないところにある。どのような意味をもち、働きをするものか容易には断定できない。本来の「狼煙場」がなんらかの事故により狼煙を上げえなかった時、その補助的意味をもつものであろうか、という見方もある。 

香焼栗ノ浦鼻山中にある不思議な土塁

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香焼栗ノ浦鼻山中にある不思議な土塁

写真のとおり、香焼栗ノ浦鼻山中に不思議な土塁を目にしている。長崎要塞地帯標が香焼島には、竹崎鼻と栗ノ浦鼻に建てられた地図があり、探した地帯標はなかったが、この土塁を見つけた。
栗ノ浦の鼻へは、現在、伊王島大橋の架橋工事中で、この工事現場からは行けない。集落の右手浜に出て、消防ホース格納庫のところから家の間の路地を上る。先の道と合い踏み跡をつめると、浜から10分もかからずこの地点に着く。
竹薮が密生し全容はわからないが、高さ3m、直径6m位の小石を積んで築いた土塁。脇岬遠見山の山頂や風車のある脇岬狼煙台で、このような造りを見ていたので、私は不思議に感じた。
しかし、香焼の遠見岳には市指定史跡のはっきりした遠見番所跡がある。戦時中は高射砲陣地が、この栗ノ浦、遠見岳近くの現中央墓地のところ、田ノ浦にあったと地元で聞いている。栗ノ浦鼻山中の土塁は、昔の狼煙台でなく、戦時中の砲台跡とも考えられる。
香焼町の郷土誌はふれてないので、参考のため紹介してみた。

香焼島遠見岳の遠見番所跡  長崎市香焼町

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香焼島遠見岳の遠見番所跡  長崎市香焼町

長崎市香焼町の字丹馬先に登り口の案内板がある。現地説明板は次のとおり。

市指定史跡 遠 見 番 所 跡
指定年月日 平成8年5月23日  所有者 長崎市
この番所は、寛永20年(1643)に佐賀藩によって遠見岳頂上に設置されたもので、遠見番と呼ばれた番人が常駐、異国船を発見すると、直ちに深堀領主で佐賀藩家老の鍋島家に連絡、同家を通じて長崎奉行所に報告された。その連絡は、野母崎町脇岬の遠見山に設置されていた遠見番所からの連絡を受けると、この番所から注進道と呼ばれた小道を通って深堀の鍋島家に連絡された。
なお、この跡地は香焼町出身の大久保喜市氏によって寄贈されたもので、現在でも、当時の番所の石垣の一部と、注進道が残っている。また、遠見岳は、町内の最高峰でもあり、眺望も非常に良い。
長崎市教育委員会