琴ノ尾岳烽火台跡  諌早市多良見町佐瀬

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琴ノ尾岳烽火台跡  諌早市多良見町佐瀬

諌早市多良見町佐瀬字竹山、琴ノ尾岳(451m)南側の中ほど(410m)の斜面に造られている。無線中継所塔の下の小駐車場に案内標識があり、遊歩道を下ってすぐのところである。現地説明板は写真のとおり。
詳しくは、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊192〜195頁に次のとおりあった。

(二)琴ノ尾岳狼煙台

寛永十五年(一六三八)、島原の乱は終わった。この乱によってキリシタン勢力の巨大なることを知った幕府は、鎖国体制を強化しなければならなくなっていた。それは、鎖国令を出すことも必要だが、そのほかに異国船の動向に警戒を強化することであった。当時としては、「早継ぎ飛脚」もその一つだろうが、あらかじめ合図の意味を決めておけば事足りる「狼煙」による方法があった。これは、異国船の入港を見つけると、すぐに近隣の諸大名に知らせることを企画したのだった。長崎奉行に命じて、長崎村の斧山に狼火山番所と野母村の権現山に野母遠見番所を設置した。遠見番所は、異国船の船影を見つけると、「白帆注進」によって、早く長崎奉行所に知らせるという方式で、一方、長崎の狼火山番所(鳴滝町)は、異国船来航の知らせの狼煙をあげ、大村領に所属する琴ノ尾岳狼煙場と諌早領の多良岳狼煙場とに知らせ、長崎警備の体制を取らせることにした。

この「琴ノ尾岳狼煙場」跡が旧伊木力村に残っている。それは山頂付近の傾斜面に存在している。以前に実測した時の構造の大きさは、一辺約九・五メートルの方形の基壇の上に、外径約三・五メートルの円形の竈跡がある。構造は、専ら安山岩の石材によるが、かなり散在して、竈跡も土砂が堆積している状態であった。それで構造は破壊されて、往時の姿からかなりの変貌をしてしまっていたが、、現在、修復された形で存在している。

大村藩が残した『郷村記 伊木力村』を見ると、「狼煙場蹟之事」として、次のように記述してある。
狼煙場蹟之事
一 壱岐力村琴の緒嶽の半腹に狼煙竈の跡あり、古来より長崎異変の節、長崎狼火山の狼煙、此嶽にて請継、此火平戸錐崎へ通する定なり、然共試之に曇天且雲霧深き時分ハ、此狼煙分明に通し兼る故、文化六年(一八〇九)平戸よりの相談に依て、長崎府司に達し止之、飛脚を以通するよふに極るなる
(『郷村記 伊木力村』図書刊行会 刊 二五頁)

この狼煙は、平戸藩に報知する目的もあったと記してある。だが、じゅうぶんにその機能が発揮できなかったところから、この一文によると、平戸藩からの申し出によって長崎奉行の判断によりこれを廃止したという。その文化六年の前年(一八〇八)は、長崎でフェートン号事件が起こっている。この事件は、イギリス船フェートン号が不法に長崎に入港してきて、オランダ商館員を捕らえ、そして、長崎奉行所には、薪水、食糧などを要求し、それを獲得して退去するという事件である。長崎奉行の松平康英は責任を取って切腹した。このイギリス船の暴挙は、ヨーロッパでの国際戦争の流れの一環であった。オランダ国は、フランス帝国のナポレオン皇帝の支配下にあって、有名無実化していた。これを機に幕府は海防を強化し、再編成をしなければならず、それでこの狼煙場は、じゅうぶんに対応できなかったことが廃止の直接的契機となったと考えられる。

狼煙場跡は、この地から約一キロメートル北側にも一基ある。これは『郷村記』には記されていない。位置にしても「長崎狼火山の狼煙」と直接には、「請継」ぐことはできないところにある。どのような意味をもち、働きをするものか容易には断定できない。本来の「狼煙場」がなんらかの事故により狼煙を上げえなかった時、その補助的意味をもつものであろうか、という見方もある。