天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石  諌早市多良見町山川内

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天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石  諌早市多良見町山川内

大石一久先生の研究によって近年解明され、本が発行されている話題の墓石。これまではただ「玄蕃(ゲンバ))さん」の石と呼ばれていた。
諌早市多良見町山川内にある。県道33号線がJR長崎本線に平行して反対側山腹を走り、伊木力へ下る手前「下川内」バス停の対面に赤レンガの線路ガードが見える。このガードの真裏となる。道順は案内標識が整備されている。現地説明板は次のとおり。

天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石

千々石ミゲルは、天正年間(一五八二—九〇)にローマに派遣された天正遣欧使節四人のひとり。千々石町の出身で、永禄十二(一五六九)年ころに生まれ、十三、四歳で使節となる。帰国後、天正十九(一五九一)年にイエズス会に入会するが、慶長六(一六〇一)年ころに同会を脱会。その後、大村藩に仕え、神浦・伊木力に六百石の食禄を受けている。その間、名を清左衛門と改めて妻を娶り、四人の子息に恵まれた。また、慶長十一(一六〇六)年の大村藩によるバテレン追放令で、清左衛門はキリスト教を邪法と進言し、自らもキリスト教を棄てて日蓮宗に改宗したとされる。
その直後、理由は定かでないが、清左衛門は藩主大村喜前の愛顧を失って弾劾を受け、有馬領(島原半島)に移る。ただ、そこでも厳しい仕打ちをうけ、元和八—九年(一六二二—二三)年までは長崎に逃れたといわれている。
この墓石は、千々石ミゲル(清左衛門)夫妻のものとみられ、施主は墓石の裏面に名を刻む四男の千々石玄蕃と考えられる。銘文によれば、ミゲルは寛永九年十二月十四日(一六三三年一月二十一日)、妻は二日後に亡くなっているが、墓石には「大村に恨みをもって死んだので、大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」という伝承が伝わっている。
ミゲルの波乱に満ちた生涯を物語るこの墓石は、天正遣欧使節を今に伝える国内で唯一の証でもある。