月別アーカイブ: 2013年2月

2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第三?地帯標 第八号)

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2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第三?地帯標 第八号)

深堀城山は、山頂を囲むように円形の石垣城塁が築かれ、中心に八幡神社が祀られている。すぐ近くに三角点標高350mとともに「陸軍省」の標石のあることは人に知られ、「長崎県の山歩き」にも記録されている。
標石「長崎要塞第二地帯標」「第八号」である。
高橋氏は先年、登路を間違え苦労されたが、城山山頂へ登り標石を確認されていた。深堀村と土井首村の村境にあり、略図の地点に間違いない。

この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/214
以上は2007年8月16日の記事であるが、 深堀城山山頂には、この「長崎要塞第二地帯標 第八号」とは別に、50mほど離れた広場にあと1本、同じような要塞標が残っていることがわかった。

先日2月24日(日)、景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」の際、配られた講演資料「俵石城縄張り図」(村田修三氏作図 *畝状竪堀群は未調査)に、この標石が表示されている。
これまで存在を知らなかったので、おかしいなと思いながら、深堀城山へ着いてから山頂広場を調べた。確かに50mほど離れて、あと1本があったのである。

標石は、写真のとおり。刻面は「長崎要塞第三地帯標」と違うが、ここは本来「第二地帯標」が立つ区域。「第八号」だから、同じ標石と見てよい。
なぜ2本残ったか。要塞法はしばしば改正があり、標石の転用・改刻も多く、真相は不明。

深堀にもあった「ゆうこう」の木  長崎市深堀5丁目

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深堀にもあった「ゆうこう」の木  長崎市深堀5丁目

2月24日(日)景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」の際、参加者の方から「自宅の庭にある」と聞き、ウォーク終了後に訪ねた。
深堀5丁目の「深堀貝塚遺跡資料館」の車道向い側、浦川さん宅の広い庭。幹囲60cm、樹高5mほど。2本あったが、1本は枯れた。
土井首や大籠には多くあるが、深堀の町中で初めて見つかった「ゆうこう」の木である。

長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容

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長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容

このことについて、2013年1月29日に「長崎市市政への提案」をしたところ、2月26日付の長崎市広報広聴課長・茂木支所長・文化財課長の回答は次のとおり。
特に茂木支所管内の住民のみなさんは、よく読んでもらいたい。古写真や古絵葉書の著作権は何も問題はない。要望の件は、地元を愛する気持ちがあれば、すべてクリアできる。
地元の自分たちがしなければならないことをしないで、このような的外れな回答をしている。市費や自治会会費などが、こんな使い方をされたら困るのではないでしょうか。
せっかくの長崎市編入50周年記念事業の汚点となります。

長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容 (2013年1月29日提案)

旧茂木町の長崎市編入50周年を記念して、茂木地区の古写真と現在の写真を対比した「茂木今昔」が編集され、市茂木支所に展示し、DVDを公開しています。先日はNBC報道センターのニュースもありました。

長崎市茂木支所の苦労作ですが、その割には研究が足りず、茂木地区の貴重な古写真が、まだ眠っています。次は私が長崎大学古写真データベースなどから見つけている作品で、ブログ記事を参照ください。これほか多くの記事を載せています。
https://misakimichi.com/archives/2218
https://misakimichi.com/archives/2084
https://misakimichi.com/archives/3127
https://misakimichi.com/archives/5429
ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」もありますから、参照ください。
https://misakimichi.com/archives/2795

以上をふまえ、次のことを検討されるようお願いします。
1 上記の新しく見つかった古写真や絵葉書は、現地再確認を地元支所・史談会としてくれぐれもお願いします。
2 茂木地区の関係作品と判明したら、それを含めこの際「茂木今昔」を再編集することはできませんか。
3 このままでは、地元の期待に沿える内容となってなく、不完全な資料です。公開はどうかと考えます。
4 「茂木今昔」編集の話を聞き、事前にこのことを情報提供しょうとしたら返答ありません。茂木支所の対応は問題があります。
5 長崎大学古写真データベースの改善について、長崎市長として強く申し入れてください。長崎学とはなっていません。
6 市長の要望書は、ふるさと再生事業の古写真でもお願いしました。他人事のような回答は、もう結構です。
7 研究は、茂木地区の中心地域だけではなく、管内全体にも広げてください。
8 不完全な研究は、市費の無駄遣いととられます。茂木支所は十分に心して研究してください。
9 昭和33年「茂木町郷土史」以来の、後世に残る立派な内容の「茂木今昔」が完成するよう期待しています。

平成25年2月26日
ご投稿者 様
広報広聴課長・茂木支所長・文化財課長  

回答が遅くなりましたことをお詫びします。
ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について、次のとおり回答いたします。
長崎市編入50周年記念「茂木今昔」となっていますが、「茂木をたずねて」のことではないかと思います。長崎市編入50周年記念誌は、旧茂木町編入50周年記念事業実行委員会から発行予定となっております。
「茂木をたずねて」は、作製のための事業予算を組まずに、支所業務の合間や休日等を利用して作製したもので、無料で著作権がクリアしたものを使用しています。また、全ての古写真等を使用したものでもありません。
個別の検討事項については、次のとおり回答いたします。
1の古写真や絵葉書については、上記理由により使用していません。また、現地確認を行う予定もございません。
2については、現在、再編集を行う予定はありません。
3については、ご意見としてうかがいます。
4については、長崎大学の古写真の撮影地についての内容でしたので、こちらからお答えできるものではないと判断し、お尋ねしませんでした。
7については、茂木をたずねてに掲載している写真は、田上から茂木港周辺を除いた地区は少ないものの、茂木地区全体を対象としています。
8、9については、茂木をたずねての作製のための事業予算を組まずに作製しており一定の成果を出せていると考えます。
【提案内容 5、6について】
長崎大学附属図書館所蔵の「幕末・明治期日本古写真コレクション」につきましては前回の回答のとおり、長崎大学附属図書館において調査研究をされ、現在のホームページによる公開を行われていると理解しておりますので、今回のご提案内容につきましても、附属図書館に対して、直接ご提案されてはいかがかと存じます。

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 一の瀬橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 一の瀬橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   (一の瀬橋)

目録番号:5635 蛍茶屋と一の瀬橋(2)
〔画像解説〕 
一の瀬橋と蛍茶屋。このあたりを一の瀬といい、蛍の名所で「市瀬晴嵐」として崎陽八景に数えられている。蛍茶屋は長崎を訪問する旅人が市街地に入る入口であり、長崎を発つ人々が別れを惜しんだ場所でもある。橋は承応2年(1653)、唐通事の陳道隆が私財を投じて架設した。これまで崩落の記録はない。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎手彩色古写真」aの中にある石橋は、タイトルがないが、長崎大学データベースの目録番号:5635「蛍茶屋と一の瀬橋(2)」のとおり、蛍茶屋の「一の瀬橋」である。

景観まちづくりトーク&ウォーク 「俵石城の縄張り構造と深堀氏」

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景観まちづくりトーク&ウォーク 「俵石城の縄張り構造と深堀氏」

かつて深堀地区の城山に存在した俵石城(たわらいしじょう)と深堀氏の関係性についての講演を聞き、実際に俵石城跡まで歩きます。
<期日>  2月24日(日)
<時間>  午前10時〜午後5時 ※講演は午前10時〜正午
<場所>  深堀地区公民館(深堀合同庁舎)
<講師>  木島孝之氏 九州大学大学院 助教・城郭研究者

「俵石城の縄張り構造と深堀氏」
九州大学の木島孝之先生が長崎市深堀にある俵石城について講演。ここ30年ほどの城郭研究では「縄張り研究」が盛んです。この研究の特徴は,城郭の縄張り(曲輪・堀・土塁・石垣等の土木物や建築物で構成される城郭のかたち)の構造に着目し,史料として活用する点にあります。この「遺跡から読み解く」手法は当たり前!と思われるかもしれませんが,城郭研究ではほとんどされてきませんでした。
講師の木島先生はこの視点から研究を行っている研究者です。木島先生は学生時代から文献を読み解くというよりは,あちこちの山城に行って発掘をしている!というスタイルでした。

2013年2月24日(日)快晴。景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」に参加した。資料概要は次のとおり。
〔1〕はじめに
〔2〕俵石城の縄張り構造
現存遺構の成立時期
・俵石城の創始は鎌倉中期頃とされるが、当城に限らず、当期の城郭の実態は全国的にも全く不明。
・戦国後期に出現する畝状堅堀群が存在。西海地域の城郭では最も発達した部類の石塁技術を持つ。
・織豊系の縄張り技術(枡形、食違虎口、横矢掛り、4mを越す高石垣、割肌・矢穴石垣、畿内系瓦など)がみられないー豊臣政権期以降の土木的な改修は特に行われていないと考えられる。
⇒俵石城の現存遺構の成立時期は、戦国後期ー16世紀後半(永禄〜天正期中期)とみるのが妥当。
〔2−1〕俵石城の縄張りの形態
①高山上に立地…戦国期城郭では比高300mのものは高山の部類に入る。
②地形に沿った楕円形状・単郭構造の曲輪…長辺300m・短辺100m
③石塁に曲輪が囲郭する。
④戦国期の在地系石垣技術…片岩積み。または荒割石。
高さは2.5m程度まで。高所はセットバック技法。
⑤曲輪内部の削平が甘く、自然形態を多分に残す。
⑥虎口は、技巧的なプランが発達せず、規模も小さい…単純な平入り虎口
⑦西海地方では数例しかみられない畝状堅堀群を使用…しかも堅堀相互の間隔が広い
タイプは希少。全国的にも、かなり巨大な幅と長さを持つ堅堀
〔2−2〕俵石城の縄張り構造からみえる戦国末期深堀氏の権力構造
〔松浦型プラン〕
〔2−3〕俵石城と朝鮮南沿岸部巨済島の城郭との類似性
〔3〕深堀鍋島氏の成立事情の再検討
〔4〕大配配分格深堀氏「私領」における江戸期の「御屋敷集落」

「俵石城縄張り図」では、8本の畝状堅堀群が表示されている。善長カトリック墓地下の山中に長さ100mくらいの横堀?を、私は以前から見ている。水路のような感じもするが、念のため確認をお願いしたい。(最後の2枚の写真のとおり)

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 お栄の桟橋?

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 お栄の桟橋?

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   783 Nagasaki Wharf

目録番号:3816 長崎稲佐海岸(3)
〔画像解説〕  超高精細画像
長崎港の湾奥の西岸では、稲佐地区が半島のように突き出ている。その最頂部から長崎市街地に向けて連絡船の航路があった。この写真は稲佐の先端から長崎市街地を遠望した写真である。撮影時期は、長崎市街の建物から判断して、明治20年(1887)代である。写真手前は稲佐の桟橋で、手前の石段の品格から見て、使用頻度の高い施設であることが分かる。木製の桟橋の先に、洗練された金属製の街灯が設置されている。対岸は長崎市街地の沿岸部である。中央の林が見えているところが長崎県庁である。その右に出島がある。写真の左側、船の向こう側は大波止から浦五島町である。この付近の沿岸部には、倉庫を構えた屋敷が立ち並んでいる。左の山は立山で、山裾に筑後町の寺院群が見える。

目録番号:5630 長崎稲佐海岸(5)    掲載略

目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
〔画像解説〕
稲佐お栄(道永えい)の経営していた「ホテル・ヴェスナー(春)」とそこに登るための桟橋。ホテルは明治26年(1893) 11月に完成した。現在の旭町・浜崎水産アパートの場所で、崖地の下を道路が通っている。背後が稲佐山である。この写真から当時の地形とホテルの場所がよく分かる。写真下の桟橋が「お栄の桟橋」。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎手彩色古写真」aの中にある「783 Nagasaki Wharf」は、長崎大学データベースの目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」ほかにあるとおり、稲佐崎の桟橋である。
この項は、本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1547

ただし、長崎大学データベースの目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」の解説は、間違いであろう。長崎市街地へ通船があった志賀の波止は、まだ北側の入江ではないか。立山や山裾に筑後町の寺院群までは写っていない。左の山は彦山である。
これは、目録番号:5519「ホテル・ヴェスナーと桟橋」の方の解説が正しく、稲佐崎のいわゆる「お栄の桟橋」ではないか。

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 高鉾島?

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 高鉾島?

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   高鉾島?

目録番号:2922 高鉾島(14)
〔画像解説〕  超高精細画像
大型アルバムの1枚を剥がしたもので、キャプションにG42.TAKABOKO,(PAPPENBERG),NAGASAKIと印字されている。これは横浜の小川一真のアルバムからである。高鉾島の古写真は多いが、対岸の神ノ島側から撮影されたものは少ない。高鉾島は鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島として外国人に知られていた。写真は、長崎市街の対岸にあたる稲佐側の神ノ島から高鉾島および現マリア観音前を写したものである。岬における海岸近傍の集落の様子がよく撮影されている。右側の海に張り付いた民家は風除けのためかすべて瓦葺きである。船は伝馬船であり、波を避けて内湾に係留されている。畑が海の傍まで切り開かれている。中央の民家は風当たりの強い岬の鼻に立てられ、階段には石段が積まれ、軒先には水甕と桶がみえる。縁側と戸口に干してあるのは穀物であろうか。このあたりは隠れキリシタンが住んだ集落で、「神」の地名が多い。背景右側は香焼島、遠景は長崎半島の山々である。目録番号4084(整理番号79-2)と同じアングルである。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎手彩色古写真」aの中にある1番目の写真。右下のキャプションがわからない。 長崎のどこかの島だろう。あとで載せる女神の小島ではないようだ。考えられるのは、長崎大学データベースの目録番号:2922「高鉾島(14)」にある風景である。

神の島から四郎ケ島へ行く途中の突端か、四郎ケ島へ渡る海道あたりからなら、撮影できそうな写真である。
島の大きさに疑問があるが、奥が「高鉾島」、右側へ突き出た岩が現在、聖マリア像が建つ「ドンク岩」と考えられないだろうか。島の背後に対岸の山が写っていないのは気になる。
しかし、これは違った。今から再調査を始め、記事は後日修正したい。 

長崎の古写真考 長崎古えはがき 杉山橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 杉山橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
中島川水車   Nakajima River, Nagasaki
古長崎101景   Nakajima River, Nagasaki
NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   No 238 Nakajima, Nagasaki
c   G100 NAKAJIMA-GAWA. NAGASAKI

目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)
〔画像解説〕  超高精細画像
長崎を代表する山、彦山(右側)・豊前坊(左側)を画面中央後ろに、左岸人家の手前のところに江戸時代の上水道として使用された倉田水樋の水源、常夜灯下側には日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂(中島聖堂)、写真には見えないが、常夜灯左下側には、日本三大聖堂の一ついわれた長崎聖堂(中島聖堂)、常夜灯左上が上野彦馬邸(上野撮影局)に当たる。明治中期の銭屋川(中島川)の風景である。残念なことに、常夜灯は昭和57年(1982)の長崎大水害で流失してしまった。近くにある若宮神社の秋の大祭に奉納される「竹ン芸」は、境内に高さ10mの2本の青竹を立て、これに穴を開け横木を通し、狐の面を被った雄狐と雌狐に扮した二人の青年が竹によじ登り「つり下がり、大の字、さか立ち、逆さ降り」等の曲芸を「ローレンヒューヒューライローレン」の竹ン芸囃子にのって演じるものである。現在、長崎市の無形民俗文化財に指定されている。また、若宮神社は「古いお宮を若宮」と唄われ、長崎七不思議数え唄の一つに数えられている。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎古えはがき」及び「長崎手彩色古写真」の中にある中島川の白い木橋の4点は、長崎大学データベースの目録番号:3802「中島川と上野彦馬邸(5)」に写っている橋と同じであろう。
長崎歴史文化博物館郷土資料の古賀文庫「長崎橋梁台帳」によると、橋名はないが、「明治
24年2月落成 杉山徳三郎私設ニシテ木造」とある。

明治を築いた企業家杉山徳三郎氏の邸宅がこの前にあり、私費で架けたため地元では「杉山橋」と呼ばれた。杉山氏は田上2丁目の「徳三寺」も建てられた。
現在、鉄製の人道橋「紅葉橋」が架かっている場所にあったのが、「杉山橋」である。
「ナガジン」越中先生の話に、「紅葉橋は上野彦馬が愛人の名前をつけた」とあるが、詳しくわからない。

長崎の古写真考 長崎古えはがき 茂木ホテル

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 茂木ホテル

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎古えはがき 
ホテル 茂木ホテル

目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)
〔画像解説〕
大正初期の茂木長崎ホテルの絵葉書写真。写真には茂木長崎ホテルの従業員が玄関で写されている。建物は和風寄席棟造り2階建て。2階の廊下には洋風のヴェランダがめぐらされている。外国人の客も多かった。

目録番号:5258 茂木長崎ホテル(2)  掲載略

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがき ホテル「茂木ホテル」の中、上記2点は、潮見崎の方にあった「茂木長崎ホテル」である。茂木には2つのホテルがあった。若菜川河口、弁天崎の方にあった「茂木ホテル」(後のビーチホテル)とは、別のホテルである。

長崎大学データベースとも、混同し間違った解説が多い。朝日新聞「長崎今昔」は私が間違いを知らせ、その後、訂正記事があったが、朝日新聞デジタル版は訂正がない。
この項は、本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/3149
最後の写真が、潮見崎の方にあった「茂木長崎ホテル」跡地。高崎湯の左側となり、現在はアパートが建っている。

長崎の古写真考 長崎の写真師たち 対馬厳原

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎の写真師たち 対馬厳原

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎の写真師たち 
長崎古写真撮影者不明 対馬厳原

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎の写真師たち 長崎古写真撮影者不明「対馬厳原」は、厳原港東の浜の「立亀岩」を撮影している。
ミッキー氏ブログ「島暮らし満喫・・・民際交流の島 対馬 Tsushima」に、別の古写真が掲載され、記事は次のとおり。現在の写真も同ブログから。

厳原港のようす   (厳原町大手橋・明治末期〜大正時代か)
帆前船(運搬船)や漁船などが係留、停泊しているが、港内は風もなく、遠く矢来(堤防)にたたずむ人たちの話し声が聞こえてくるような静かな情景である。
立亀岩の元にもほとんどの人の手が加わっていない東の浜の原風景がしのばれる。構図もすばらしい。原版は絵はがきかと思われる。(原所有者不明、小松接写フィルムによる)