長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:3799 茂木街道(4)
〔画像解説〕 超高精細画像
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。この写真は、明治20年(1887)頃の田上の茶屋を撮影した写真である。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。田上峠は長崎から茂木に到る中継点に当たり、峠に茶屋ができて賑わった。
目録番号: 337 茂木街道田上(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
上記と同じ。省略。
目録番号: 366 茂木街道田上(2) ((1)と同じ写真。掲載略)
〔画像解説〕
長崎から茂木へ行く途中の峠。長崎から茂木への要路で田上峠は茂木口といわれていた。峠の茶屋と人力車が時代を感じさせる。整理番号8-11と同一ネガからの焼き付けと思われる。
■ 確認結果
先週、2012年2月25日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「田上の茶屋 木おけから湯気たつ」。
解説は「…この場所は、背後の田上の切り通しから下りてきた茶店です。写真には「長崎の茂木街道」と英語の説明書きがあります。先々週紹介した田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたりです。…下の写真は同じ場所を田上側から撮影しています。…」とある。
まぎらわしい説明だろう。「田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたり」とは、田上の交差点から200mほど下った橋のある「転石」角あたりを考える。やや遠過ぎる。上の写真の目録番号:3799{茂木街道(4)」は、茂木側から田上側を、下の写真の目録番号: 337「茂木街道田上(1)」は、田上側から茂木側を撮影している。
きょうの掲載記事「茂木街道の転石付近」も確認を要することがあり(次記事とする)、きょう一緒に現地で調査してきた。現在の写真はそれぞれのとおり。
河平のご年配長橋さんが、昔の田上の茶屋のことを良く覚えておられた。上の写真で言うと、左は「石津酒店」、右は「木村茶屋」という茶屋だろう。2月11日付の判明した「梶原茶屋」は、現在の「長崎バス田上発着場」など挟んで、その上の方にあったという話である。
戦後、昭和24〜25年頃までこの建物は残っていた。転石角には寿司・竹の子弁当の店があった。河平川の平口橋先には大楠の根元に「楠茶屋」もあったらしい。
「石津酒店」は、現在も同じ場所に酒店ビルがある。主の話でも位置的に間違いないだろうと確かめた。したがって、上の写真の撮影場所は、現在の茂木から上がってきた長崎バス「田上」バス停あたりから。山手からの小川と「出合う」と言うべき場所だろう。
田上のこの谷の川は、正しくは「河平川」の源流。田手原町から流れるのが「若菜川」本流である。長崎大学及び長崎市役所茂木支所で、茶屋名とも撮影場所の再検証をお願いしたい。