長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5868 茂木への道(5)
目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。
目録番号:2264 茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。
目録番号:4718 峠の人力車(2)
■ 確認結果
きのう、2012年3月3日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木街道の転石付近 開削後まもない光景」。
解説は「上の写真は英海軍の見習い将校ヘンリー・スチュアートが1890(明治23)年、開削されたばかりの茂木街道を通って茂木へ旅行した際に撮影したものです。…場所は転石付近で、茂木方向を写しています。…
1894年ごろに撮影された下の写真は、絵の具で彩色された幻灯機用のガラス板です。同じ写真が横浜の写真家玉村康三郎のアルバムに収蔵されているため、製作者は玉村と思われます。… 写真に写る街道は、まだ新しい道の雰囲気を伝えています。中央の人力車は写真右下方向に曲がって山道をくだり、平口橋を経て茂木に至ります」とある。
長崎大学のデータベースでは、上の写真は目録番号:5868「茂木への道(5)」、下の写真は目録番号:1365「茂木街道(2)」。玉村アルバムの同じ写真は、目録番号:1365「茂木街道(2)」の作品である。
写真は田上から下った「柳山辺り」は、旧街道の道なので解説誤り。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1879
いずれも、明治20年(1887)6月開通した「茂木新道」すなわち「明治旧県道」の、転石から平口橋の谷間へくだる旧カーブ付近を、撮影しているのは間違いない。
上の写真は、ホテル古都あたりから撮影している。少し下って谷間が広け、カメラの向きを変えて撮影したのが、下の写真であろう。
今回、古写真考とするのは下の写真には、まったく同じような場所から撮影した参考写真がある。年代は新しいと思われるが、目録番号:4718「峠の人力車(2)」であるから紹介する。
転石から「明治旧県道」の旧カーブを河平川の方へ下って行き、高架橋(唐八景トンネルの国道324号)の下にあるのが、「平口橋」である。