月別アーカイブ: 2010年2月

長崎外の古写真考 目録番号:3045 富士山の遠望(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3045 富士山の遠望(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3045 富士山の遠望(2)

目録番号:3999 富士山(1)
〔画像解説〕
小山町須走(すばしり)あたりから富士山を遠望したもの。富士山の大きさや左手の稜線に宝永山が見えることから撮影地点が推定される。須走は古くから富士山須走登山道の登山口で、撮影地点はその登山道の途中であろう。撮影地の書込み方から撮影者はF・ベアトと考えられる。

目録番号:4000 須走(2)       関連写真 目録番号: 614 須走(1)
〔画像解説〕
小山町須走(すばしり)から富士山を遠望したもの。須走は古くから富士山須走登山道の登山口として栄え、御殿場から山梨へ向かう甲州道の籠坂峠(かごさかとうげ)越えの麓集落でもあった。道路には民家や石塔が並び、左手には半鐘台が見える。横浜開港資料館の研究(註)と撮影地の書込み方によりF・ベアト撮影と特定できる。

■ 確認結果

目録番号:3045「富士山の遠望(2)」と、目録番号:3999「富士山(1)」は、同一写真か、ほぼ同じ地点から撮影しており、タイトル、画像解説など調整要。
目録番号:4000「須走(2)」に須走側から見た富士山の姿がある。関連写真の目録番号: 614「須走(1)」は、同じ作品で彩色がある

長崎外の古写真考 目録番号:3042 神社(9)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3042 神社(9)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3042 神社(9)

目録番号:3483 石山寺(5)
〔画像解説〕 
石山寺(いしやまでら)境内で撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。奥に見える建物は、本堂と蓮如堂。画面には、寺名の由来であるごつごつとした岩山(硅灰石【けいかいせき】)が大きく写されている。

■ 確認結果

目録番号:3042「神社(9)」は、次の目録番号:3483「石山寺(5)」にあるとおり、滋賀県大津市の有名な「石山寺」の境内。「蓮如堂」(重要文化財)とその奥の「本堂」(国宝)を、硅灰石の岩山(国天然記念物)の方から写している。

現在の写真は、「愛知札所めぐり」HPから。滋賀県石山観光協会HPによる説明は次のとおり。
蓮如堂
硅灰石の崖にせり出しで建つ懸造の建物。慶長期に三十八所権現社の拝殿として建てられましたが、後に蓮如上人が祀られるようになりました。

長崎外の古写真考 目録番号:2031 神社の境内(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2031 神社の境内(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2031 神社の境内(1)
〔画像解説〕
境内での記念撮影であろう。後ろの人物がこちらの様子をうかがっているのは、写真撮影がまだまだ珍しいものであったからであろうか。被写体と同一人物らしき女性が整理番号46-131の写真に見える。

目録番号:3483 石山寺(5)
〔画像解説〕 
石山寺(いしやまでら)境内の本堂正面から撮影したもの。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。瓦葺の建物(蓮如堂)の奥にみえるのが本堂で、承暦2年(1096)に焼失した後、再建された。

目録番号:2037 春日大社参道(5)
〔画像解説〕
参道を歩く和服姿の女性。同一人らしき人物が整理番号46-125の写真に見える。

■ 確認結果

目録番号:2031「神社の境内(1)」は、奈良市の「春日大社」と思ってタイトル「神社の境内」としているようだ。しかし、この建物は次の目録番号:3483「石山寺(5)」にあるとおり、滋賀県大津市の有名な「石山寺本堂」であろう。「撮影地域:滋賀」となる。

3枚目の目録番号:2037「春日大社参道(5)」に、「参道を歩く和服姿の女性。同一人らしき人物が整理番号46-125(目録番号:2031の作品)の写真に見える」のであるが、鳥居は赤く、これはやはり春日大社参道と思われる。

現在の写真は、「愛知札所めぐり」HPから。滋賀県石山観光協会HPによる説明は次のとおり。
石山寺本堂[いしやまでらほんどう]
巨大な硅灰石の岩盤の上に建ち、外観は一堂のようだが外陣と内陣の2堂が大棟で継がれている。外陣は慶長7年(1602年)淀君寄進の舞台造。内陣は永長元年(1096年)の建築。

長崎外の古写真考 目録番号:2057 寺の山門(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2057 寺の山門(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2057 寺の山門(2)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、東京のあるお寺の山門。境内の内側から写したものだが、山門の下には数人の人物の姿が見える。

目録番号:4902 石山寺仁王門
〔画像解説〕
石山寺境内の入口に、瀬田川に向かって建つ東大門の様子。東寺真言宗大本山石山寺は、縁起では天平19年(747)聖武天皇の命により、良弁(ろうべん)が開いたといい、天平宝字5年(761)に伽藍が整備された。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。東大門は、建久元年(1190)の建築といわれるが、淀君による本堂礼堂の再建時に新築に等しい大改造が行なわれている。この門前は、現在では公園整備され、参詣客向けの土産物やレストランが立ち並んでいる。写真右の手前にある建物の場所は、現在では公園になっているが、陳列台らしきものが見えることから、土産物を販売していたのかもしれない。

■ 確認結果

目録番号:2057「寺の山門(2)」は、「撮影地域:東京」。画像解説では「場所は特定できないが、東京のあるお寺の山門。…」としている。この山門は、滋賀県大津市にある有名な「石山寺の東大門」。国重要文化財の建物である。

次の目録番号:4902「石山寺仁王門」と造りを比べてもらいたい。門の中央に吊り下げられている物も同じであろう。目録番号:2057「寺の山門(2)」は、石山寺の東大門をくぐって「境内の内側から写したもの」に間違いないと思われる。

現在の写真は、瀬田川流域観光協会HPから。同説明は次のとおり。内側から写した写真も「現身日和(うつせみびより)」にあった。
石山寺(いしやまでら)
西国三十三所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれました。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえ、国宝の本堂・多宝塔を始め漢書、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財があります。

長崎外の古写真考 目録番号:2096 丘陵地からの熱海市街

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2096 丘陵地からの熱海市街

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2096 丘陵地からの熱海市街   豆相人車鉄道は、目録番号:2093〜2095にあり。
〔画像解説〕
キャプションがないため詳細は不明だが、高台の公園と思われる場所から、盆地に広がる町並が写されている。右手には休息所が設けられているが、人物の姿は見あたらない。

■ 確認結果

目録番号:2096「丘陵地からの熱海市街」は、「キャプションがないため詳細は不明だが、高台の公園と思われる場所から、盆地に広がる町並が写されている」と画像解説している。
写された町並みが「熱海市街」となると、はたしてこの高台の公園らしい場所はどこだろうか。背景の山の格好から見ると、この広場は公園ではなく、現在もお宮の松海岸の上の高台にある「熱海駅」あたりが考えられる。

古写真では左が海岸側となる。だが、「熱海駅」は現在のJR駅ではない。JR東海道線が開通する前の、小田原ー熱海間「豆相人車鉄道」の「熱海駅」は、現在の駅から少し下った咲見町にあった。現在、この場所には「熱海温泉の宿 南明ホテル」が建っている。
目録番号の前の3作品は「豆相人車鉄道」を写している。したがって次に到着した熱海駅前で熱海市街を撮影したことは十分に考えられる。
「豆相人車鉄道」については、「熱海温泉の宿 南明ホテル」HPに次のとおり貴重な記事と古写真がある。 http://www.nanmei.co.jp/blog/log/eid95.html

人車鉄道の熱海駅だったんです   2009.05.17 Sunday 13:19 | posted by nanmei

鉄道がお好きな方がよく南明ホテルの玄関のところで写真を撮られていますが・・実は当ホテルは人車鉄道の熱海駅だったんです。えっ?人車鉄道??って?(じんしゃてつどうと読みます) 読んで字のごとし・・で機関車が走る前の鉄道でお客様の乗った車両を人が手で押して走る鉄道です。なんだかお気の毒で、私だったら降りて一緒に押してしまいそうです^^;
こんなことをして人を運んでいたんですね。当時の職員は片道だけでぐったり〜だったんでしょうね。次の写真は当時の熱海駅です(当ホテルのできる前です)
人車鉄道が終わって機関車になったときの写真もありました(^0_0^) 皆さん、着物を着ています。町並みも明治時代を思わせます。
(これは当ホテルにはあまり関係のないお写真ですがめずらしかったのでのせてみました^^;) 当ホテルの大浴場”ひのき湯”とフロント前にもお写真がかざってありますので是非ご覧ください。

楽しい記事であろう。現在の熱海市街と山の姿は、「沼津の風景 周辺市町の風景写真」HPから。豆相人車鉄道と当時の熱海駅の古写真は、「熱海温泉の宿 南明ホテル」HPから。同ホテルの玄関脇に『豆相人車鉄道記念碑』がある。
「人車鉄道の世界」豆相人車鉄道は、 http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm

長崎外の古写真考 目録番号:6609 近江 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6609 近江 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6609 近江

目録番号:1338 比良遠望
〔画像解説〕
“比良山系は琵琶湖西岸にある標高1,000m程度の山群。近江八景「比良の暮雪」として有名。「さざなみや 比良の山風 さ夜ふけて 月影寒し 志賀の唐崎」(源実朝)”

■ 確認結果

目録番号:6609「近江」は、ボードインコレクション(4)のアルバムにある作品。撮影場所が不明だが、まったく同じ写真がデータベースの目録番号:1338「比良遠望」で見つかった。
右上にタイトル、説明、ローマ字表記のキャプションがある。このような作品は目録番号:1322「三条大橋」から目録番号:1343「下鴨神社」まで22点(別に目録番号:3450,3454,3471,3483,3484があったので27点)ある。
京都・奈良・滋賀の社寺など名所を写し、外国人向け絵葉書のような一連の写真である。すべて卓越した構図となっており、出来ばえが素晴しい。撮影者は誰だろうか。

超高精細画像があるとキャプションを読まれ、撮影場所を正しく推定できそうだが、画像解説では源実朝の歌を紹介しているので、「志賀(滋賀)の唐崎」が考えられる。
琵琶湖の西岸、現在の滋賀県大津市唐崎1丁目に「唐崎神社」がある。境内は滋賀県指定史跡。宇志丸宿禰が植えたのに始まるとされる「唐崎の松」がある。境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の浮世絵「唐崎の夜雨」で知られており、「近江八景」に選ばれている。

古写真は神社の湖岸側突端「唐崎」を写したものだろう。東を向いているので、「比良遠望」と題しながら写っている山は「湖東三山」と思われる。北を向くと大津市街越しに「比良山」の雄大な姿が眺められると思われる。ここは現在、県営都市公園:湖岸緑地「唐崎苑」となっている。
近江八景の図は、社団法人びわ湖大津観光協会HP「びわ湖大津よりどり観光ガイド」から。唐崎からの遠望は、バス・ギルポイントHP「柳が崎から大宮川河口A(柳が崎から四谷川河口付近)」の参考写真を載せた。

長崎外の古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3224 精錬所

目録番号: 408 有馬(但馬が正)の生野銀山
目録番号:5066 神戸の海岸線

■ 確認結果

目録番号:3224「精錬所」は、明治天皇巡幸に随行した内田九一の写真と思われるが、巡幸写真に掲載がなかった。やはり有名な鉱山の精錬所だった。兵庫県朝来市(旧生野町)にあった「生野銀山」。内田九一は巡幸の途中、神戸から立ち寄ったのだろう。
「生野銀山」は、大同2年(807年)に開坑し、信長・秀吉・徳川幕府の時代を経て明治元年には政府直轄となり、その後は皇室財産にまでなった大鉱山。1200年以上も銀山として栄え、昭和48年に閉坑した。現在は史跡、鉱物館、体験観光施設となっている。

古写真のポイントは、手前にある川の橋、石門の門柱、背景の山。参考写真は
1 日本名勝旧蹟産業写真集 刊行大正7年の生野銀山古写真 (国立国会図書館所蔵写真から)
2 生野銀山の現在の川の橋と背景の山 (HP色々な画像:生野銀山01から)
3 生野銀山の石門の門柱 菊の御紋入り (HP神戸観光壁紙写真集から)
関連作品の目録番号: 408「有馬(但馬が正)の生野銀山」は、小川一真撮影。生野峠の街道風景であろうか。

(追 記 2014年3月25日)
関連作品の目録番号: 408「有馬の生野銀山」が、長崎大学データベースで最近、タイトルが「有馬の剣山」と修正されていた。
蓬莱峡出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、次のとおり。「有馬の剣山」のタイトルの方に間違いないようである。
目録番号:5066「神戸の海岸線」も、有馬街道で蓬莱峡上部あたりの景色と思われる。

蓬莱峡  
蓬莱峡(ほうらいきょう)は兵庫県西宮市の六甲山地にある峡谷。瀬戸内海国立公園の指定区域。

概要[編集] 蓬莱峡は、六甲山の裏側(北側)を有馬高槻構造線に沿って西から東へまっすぐ流れる大多田川の上流部、支流の座頭谷川との合流地点より上流(西側)にある。風化した花崗岩が鋸歯状の鋭い岩峰の稜線を見せる峡谷である。断層破砕帯にあたり、地質学では「バッドランド(悪地)」と呼ばれる地形であるが、これほど険しい地形は世界でも特異とされる。右の写真にある白い岩は著しく風化した花崗岩であり、その表面は素手で簡単に崩せるほどもろい。
殺伐とした白い無数の剣山があまりにも非現実的な風景であることから、映画やテレビドラマのロケ地としてしばしば採用された場所であったが、現在は六甲山地への代表的な登山ルートの一つとして広く知られる存在である。

写真説明
蓬莱峡:白く尖った地形は風化した花崗岩、その奥の茶色の崖は段丘が侵食されたもの
北側から見た座頭谷と蓬莱峡:左の砂防ダムが並んだ地形が座頭谷座頭谷は、その昔、ここを通りかかったひとりの座頭が道に迷い、ついには行き倒れになったという言い伝えから名づけられたものである。

歴史[編集]
・豊臣秀吉が大阪から有馬温泉へ向かうときに通行した道「有馬街道」の難所であった。
・江戸時代の儒学者貝原益軒か著した「有馬山温泉記」(1711年)では「剣岩」・「大剣」・「小剣」と記されている。
・黒澤明監督「隠し砦の三悪人」(1958年)の主な撮影地となる。

長崎の古写真考 目録番号:3222 大光寺(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3222 大光寺(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3222 大光寺(2)        同作品 目録番号:3220 大光寺(1)(彩色あり) 

目録番号:3251 大光寺(3)
〔画像解説〕
内田九一撮影の大光寺と男性。同じアングルで上野彦馬が同じポーズをとりベアトが撮影した幕末の写真が残されているが、明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮影したと推測される。同じ写真の無彩色もコレクションの中にある。

■ 確認結果

長崎市寺町の浄土真宗本願寺派「大谷山大光寺」の境内。3作品は彩色のあるなしはあるが、まったく同じ写真である。
目録番号:3251「大光寺(3)」では、「内田九一撮影の大光寺と男性。…明治5(1872)年の天皇の西国巡幸で長崎に随行した九一がこの写真と同じポーズでこれを撮影したと推測される。…」と画像解説している。

続く「同じ写真の無彩色もコレクションの中にある」というのが、目録番号:3222「大光寺(2)」の作品であろう。これが本作品と思われる。同じ作品の目録番号:3220「大光寺(1)」とも、「撮影者:未詳」のままになっているので、画像解説とも調整してほしい。関連作品では出てくるが、撮影者検索では出てこない。

長崎の古写真考 目録番号:2415 鉱山の風景

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2415 鉱山の風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2415 鉱山の風景

■ 確認結果

朝日新聞2010年2月25日付長崎地域版「長崎今昔 長大コレクション」に載った”高島 近代化支えた立役者”により、データベースの目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の作品を昨日紹介したばかりだった。
きょう何気なく「鉱山」で条件検索すると、目録番号:2415「鉱山の風景」が出てきた。その石炭船積みの元となる「高島炭鉱北渓井立坑の操業風景」の写真なのである。

この古写真は、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の96頁に掲載があり、147頁の「図版解説」による説明は次のとおり。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1619

87 高島炭鉱の立坑
88 高島炭鉱の石炭搬送場          いずれも日本大学芸術学部所蔵
慶応4年(1868)、T.B.グラバーは領地支配者だった佐賀鍋島藩の長崎出張人松林源蔵と共同経営の協約を結んで、高島炭鉱の新規開発事業に乗り出した。本国から最新式の機器・技術を導入して、深さ70m余におよぶ堅坑道を穿ち、機械化によって大量の良質炭を採掘、運搬することに成功した。すなわちわが国鉱業の最初の近代化をもたらしたわけだが、経営の方はその後、紆余曲折があって明治14年に三菱商会の所有となった。
撮影は上野彦馬。明治中期頃であろうか。

87「高島炭鉱の立坑」の作品がそうであるが、88「高島炭鉱の石炭搬送場」とも、いずれも日本大学芸術学部所蔵とあり、長崎大学の古写真データベースにないと思っていた。長崎大学側もまだこの作品がデータベースに収録されていることを知らないと思われる。
高島炭鉱の写真はまだ数点ある。上野彦馬の撮影だろうか。彩色されたカラー作品となっているが、4本の煙突の噴煙は同じ向きで、同作品に間違いない。明治天皇の巡幸写真との関連で内田九一とも考えられる

長崎外の古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほ

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3225 大川辺りの風景

目録番号:3229 大阪の河口の風景
〔画像解説〕
川口波止場である。大阪は慶応4年(1868)7月15日に開港した。安治川河口から約4キロ上流のところに設けられ、税関・電信も設置された。写真に写っている船は外輪船である。遠くに見える洋館は、外国人居留地の建物である。明治20年(1888)ころと思われる。

目録番号:6578 大阪 安治川橋

■ 確認結果

1枚目の目録番号:3225「大川辺りの風景」は、「撮影者:内田九一」なのに「撮影地:未詳」となっている。「大川」とは、大阪では「旧淀川」の流域のようである。大川は、中之島で堂島川、土佐堀川の2川に分かれ、都心の川、堀を流れて、流末は安治川、尻無川、木津川の3川となり大阪湾に注いでいる。上流に「大橋」が遠く写る。橋が特定できれば良いが不明。「街路灯」が立つ。

2枚目の目録番号:3229「大阪の河口の風景」も、「内田九一」の作品。1枚目と風景が似ていることがわかるだろう。撮影場所は、大阪外国人居留地の「川口波止場」である。波止場に停泊中の「外輪船」。「街路灯」は右端に小さく写っている。
「外輪船」の奥に橋が写る別の角度の古写真もある(岩崎家近代建築古写真から)。

3枚目は目録番号:6578「大阪 安治川橋」。ボードインコレクションで撮影者未詳。中央に大きく写る「街路灯」。橋の中央部が「可動橋」となっている。
3枚とも「街路灯」は、大阪外国人川口居留地の「街路灯」のようである。したがって、1枚目の写真も、大阪「安治川畔」の風景と考えて良いと思われる。内田九一は最初、大阪で開業した。
大阪市HP「橋梁顕彰碑」安治川橋の説明は次のとおり。

橋梁名:安治川橋(あじがわばし)   所在区名:西区  河川名:安治川

江戸時代初期までの淀川河口部には九条島が流れを遮る位置にあり洪水がたびたび起こり、また土砂堆積により舟運にも不便をきたすことが多かった。このため貞享元年(1684)幕府の命により、河村瑞賢が水路を開削し、安治川と名付けられた。その後、周辺に富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。安治川橋はこの新地の開発に伴い初めて架設された。
江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として、準備を進め、明治新政府によって明治元年(1868)大阪開港とともに外国人に競売された。居留地には、洋館や舗装道路が造られ大阪の文明開化の拠点となった。
明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。
明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗しよく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。

そのほか参考資料は、HP上で調べると次のようなものがあった。
・明治大正図誌 大阪 「浪花安治川口新橋之景(長谷川小信)」
・明治18年測図 安治川橋付近の地形図
・大阪旧川口居留地模型(「なにわの海の時空間」施設に展示) 
・明治12年(1879年)版大阪府区分新細図ヨリ転写 「本田地誌」1933年版の巻頭地図

(2011年12月16日 追 記)
目録番号:3229「大阪の河口の風景」は、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊37頁に、「3 明治10年(1877)明治天皇畿内行幸写真」として掲載されているが判明した。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2801

同解説は次のとおり。行幸に随行した写真師は、記していない(27頁)。掲載写真を末尾に追加した。
13 大坂川口ノ景
大坂市港区の安治川河口にある船着場の光景。着色写真。