月別アーカイブ: 2010年2月

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場
〔画像解説〕
鶏卵紙一枚もので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名で、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3230(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影と思われる。人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。

■ 確認結果

朝日新聞きょう2010年2月25日付長崎地域版「長崎今昔 長大コレクション」に載った”高島
近代化支えた立役者”は、データベースの目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の作品である。本ブログでは2009年2月紹介済。 https://misakimichi.com/archives/1619

きょうの朝日新聞の解説は、取り立てて問題にすることはない。要望としては、冒頭の文が
「1872年7月、内田九一が撮影した「高嶋」(現在の長崎市・高島)の石炭積み出し風景です」とあまりに簡略されていること。データベースの画像解説にある「明治5年(1872)6月(新暦では7月)、天皇巡幸に隋行した内田九一の撮影した…」という背景説明は必要と思われる。
後段の「内田九一は官営化に備え、政府から現地撮影を依頼されたようです」も、そのようなことは考えられないことはないが、根拠があるのだろうか。

なお、この写真は内田九一の作品に間違いないと思われる。2010年1月東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に内田写真株式会社所蔵の内田九一が撮影した写真として展示されている.
展示作品は次を参照。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo07.html

戸町テレビ中継放送所のある山(ツク尾城跡)  平成22年2月

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戸町テレビ中継放送所のある山(ツク尾城跡)  平成22年2月

平成22年2月23日(火)快晴。昼から戸町テレビ中継放送所のある山へ。この山は、長崎市南公民館どじょう会の平成3年城郭他遺構調査書に中世の「ツク尾城跡」として報告がある。
一度は登ってみたい山だった。宮さんが20日に山道を探した次の記事があり、景色が良さそうなので出かけてみた。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23672708.html

最初は、小ヶ倉バイパス「弁慶岩」バス停前から見た写真。標高120m。山名はないよう。背後は大久保山である。戸町2丁目の一方通行バス通りの中間に「ジュン理容院」があり、奥の畑小屋から竹林内をまっすぐ20分ほど急登すると山頂へ着く。各局の電波塔が建っている。山頂からの展望は写真のとおり。戸町小学校が真下に見える。危険な手袋岩に劣らぬ展望である。

帰りは女神大橋トンネル上や大久保山へ尾根が続いているようで、反対側へ歩いてみた。赤テープがずっとあり、尾根道はしっかりしていたが、最後は右手斜面の戸町3丁目の高台住宅地へ出る道。白い屋根の畑小屋の裏だった。
畑は柵囲いしており、こちらから登る場合は、山道入口がわかりにくい。写真から小屋の場所の見当をつけてもらいたい。薮は小屋裏だけ、すぐ雑木林の山道へ入る。戸町小前のバス通りからこちらは山頂まで30分位だろう。城跡の遺構はわからない。

長崎外の古写真考 目録番号:3231 松山城(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3231 松山城(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3231 松山城(1)

■ 確認結果

目録番号:3231の作品は、タイトルが「松山城(1)」。内田九一が撮影した明治天皇の巡幸写真には、「熊本城」があり「松山城」はなかったので調べたのだが、作品は「松山城」に間違いない。一行の帰路の艦隊は、鹿児島から瀬戸内海を通り、坂出の崇徳天皇陵など参拝した後、神戸へ入港したので、途中、松山へも寄港したことは考えられる。
画像解説やアルバム名がなく、なぜ「内田九一」の作品としたか説明がほしい。上野彦馬アルバム中の一連の関係や、それとも写真裏に書き込みがあったのだろうか。

長崎大学側が「松山城」とわかった経過は、HP”「おしろとぶけやしき」〜さむらいれじでんす〜”の2008年3月記事にあるようである。
「長崎大学附属図書館 幕末・明治古写真に掲載されている、「目録番号: 3231 タイトル: 城 」ですが、今までどこの城か不明だった為わかりませんでした。私はその謎に興味があったので、2年ほど前より独自に調査しておりましたが、…このお城は伊予松山城で、南櫓・太鼓櫓・土塀の古写真です…」

現在の「松山城」写真は、HP”覚ゑがき『記憶のそら』”から。古写真とまったく同じ構図の写真があったので、すぐ「松山城」と確認できた。
データベースでは、タイトルを「松山城」と変更しているのに、「撮影地域:未詳」のまま。撮影地域「愛媛」で検索しても、この作品は出てこない。

長崎の古写真考 目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5631 南山手からの大浦居留地と出島(3)

目録番号:5887 南山手からの大浦居留地(6)
〔画像解説〕
南山手から大浦海岸通りと東山手洋館群を望む。右前方の丘には活水学院(ラッセル館)、長崎港の奥に出島の一部が見える。明治10年代末。

■ 確認結果

目録番号:5631「南山手からの大浦居留地と出島(3)」と、目録番号:5887「南山手からの大浦居留地(6)」はまったく同じ作品であろう。
タイトル、画像解説など調整を要する。お互い関連作品でも出てこない。撮影場所は現在の南山手地区町並み保存センターあたりからと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5245 茂木通田上(2)    同作品 目録番号:5246 同(3)
〔画像解説〕
大正初期の茂木街道田上峠付近の絵葉書写真。田上は長崎県庁から一里、当時人家20〜30戸、茶屋10戸ほどで蕎麦と筍が名物。旅人の休息所であり、茂木に向かう旅行者はここで旅装を整えた。田上寺、観音寺、千歳亭など旧跡も存在する。写真から人力車による旅行風景がわかる。

目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林を撮影した絵葉書写真である。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。写真は明治18(1885)年に新道として整備された旧県道である。

目録番号:5248 茂木街道田上竹林(2)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林と馬車による竹の切り出し風景を撮影した絵葉書写真。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。

目録番号:5249 茂木街道田上竹林(3)
〔画像解説〕
大正中期の田上付近の竹林と蝙蝠傘をさす少女たちが歩く姿を絵葉書写真にしている。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町の竹林は有名であり、ここからから採れるタケノコは古くから田上タケノコとして評判であった。

■ 確認結果

1枚目の目録番号:5245「茂木通田上(2)」と、同作品の目録番号:5246「同(3)」は、田上峠を過ぎ転石バス停から左へ入る。茂木街道の明治新道(旧県道)は、ホテル古都先からⅤカーブして河平川の谷間へ下るので、明治新道の下手からホテル古都あたりの上手の坂の道路を撮影していると思われる。
タイトルが(1)から(3)まで「茂木通?田上」。「茂木街道」とするのが一般的ではないか。

2枚目から4枚目の目録番号:5247「茂木街道田上竹林(1)」、目録番号:5248「茂木街道田上竹林(2)」、目録番号:5249「茂木街道田上竹林(3)」は、河平バス停の真下付近の河平川の谷間となる。河平川は若菜川の支流。
茂木街道の明治新道(旧県道)は、転石から河平川沿いに茂木の黒橋へ下った。3枚の古写真の撮影場所は、ちょうどその中間あたりと思われる。ここは茂木町となる。

同作品を含めたこの5点の、目録番号の前は「田上峠の茶屋」、後は「茂木の橋」を撮影した作品となっており、田上峠から茂木へ下る途中の場所の撮影と考えられる。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1520
https://misakimichi.com/archives/1528
「田上」付近とあまりにも誤解されそうなタイトルと画像解説はどうかと思われる。向井去来が訪れた「千歳亭」(現徳三寺境内に句碑がある)は、明治新道のルートでは外れた場所となった。

岳路からみさき道本道へ上がり鶴山へ  平成22年2月

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岳路からみさき道本道へ上がり鶴山へ  平成22年2月

平成22年2月21日(日)快晴。岳路からみさき道本道へ上がり鶴山(標高251m)へ。参加
15人。絶好の山歩き日和だった。
三和行政センター前9時30分発ー西大道ー蚊焼ー岳路グランドー前町境みさき道本道(昼食)ー鶴山ー秋葉山林道ー古茶屋坂みさき道ー三和行政センター2時45分着(徒歩距離約10km)

蚊焼入口から西大道の道塚にまず上がり、「岳路みさき道」へ入る。永一尾の山の稜線を行く「みさき道本道」の別ルートとして、海沿いの集落の蚊焼、岳路、黒浜、以下宿から高浜延命水で本道と合流する「岳路みさき道」があった。岳路海水浴場バス停下に、今魚町道塚がなぜか1本離れて残るため、私たちが推定したルートである。

きょうはその一部を岳路まで歩く。西大道から蚊焼小前まで下り、蚊焼大川沿いに松永工業まで行き、折山の裏手尾根を通り岳路の道塚へ至る。これが昔の集落を結ぶ道であり、一方のみさき道だった。岳路の道塚見学後、鶴山へ行くため岳路グランドから荒れた前町境尾根をみさき道本道まで登り、出合った所で昼食。

午後はみさき道本道を少し進み、稜線を離れて宮崎ダム上にある「鶴山」へ。八郎岳や川原大池、天草などの展望が良い岩のピークだが、あまり知られていない。名のとおり季節には鶴の渡りが真上に見られるが、きょうは残念だった。
下山路踏査のため、後は地図により秋葉山の山腹を行く林道を探しながら、三和行政センターまで戻った。きょうのコースは整備すると、冬場の1日歩きに良いコースとなろう。
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23688091.html

長崎外の古写真考 目録番号:2047 駅前の人力車 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2047 駅前の人力車 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
整理番号46番台の一連の作品を見ている。

目録番号:2047 駅前の人力車
〔画像解説〕
整理番号46-141から46-145までと46-160の合わせて6枚は、一連の写真と思われる。撮影者は未詳。駅名は分からないが、東海道線の一駅である。中央に立つ外国人や客を降ろす人力車夫など駅前の賑いを伝えている。

目録番号:2048 駅構内の蒸気機関車
〔画像解説〕
整理番号46-141と同じ駅の構内であろう。真直ぐ伸びる鉄路と蒸気機関車が、文明開化の象徴として捉えられている。

目録番号:2049 駅構内からの富士山
〔画像解説〕
線路の伸びた先に富士山が見える。プラットホームの柱と屋根だけの建物の中に荷物が積み上げられている。やがて貨物列車に積み込まれるのであろう。懐かしい鉄道構内風景である。

■ 確認結果

まったくの推定。JR東海道線から御殿場線が分かれる静岡県小田原市「国府津駅」ではないだろうか。線路が分かれ、富士山の光景が似てる。後の2作品は、車窓からの富士山風景となっている。
現在の写真は、しあのゆるいブログの東海道線国府津駅からと、小田原市観光HPから駅近く曽我丘陵から見た富士山。

長崎外の古写真考 目録番号:2665 隅田川の舟遊び(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2665 隅田川の舟遊び(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2665 隅田川の舟遊び(2)
〔画像解説〕
明治4年(1871)〜6年(1873)に来日した、有名なアメリカの国民的詩人ヘンリー・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)の長男チャールズ・ロングフェロー(Charles Appleton Longfellow)の記念アルバムに同じ写真が貼ってある。チャールズが内田九一に依頼して撮影したと思われる。障子の間から顔を出している大柄な和服を着た男がそのチャールズの可能性がある。左から2人目の女性は山谷堀にあった料亭有明楼(ゆうめいろう)の女将お菊で、他はチャールズ馴染みの芸者。

目録番号:4583 隅田川の舟遊び(3)
〔画像解説〕
山谷堀が隅田川に流れ込む河口にあった有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で内田九一が撮影。浅瀬なので舟が浮いていない。それでブレずにシャープに撮れている。背景は向島で牛島神社や長命寺のある辺りである。この度長崎市立博物館所蔵の内田九一撮影のアルバムの中にこの写真を見つけ、九一撮影だと確認した。撮影は明治5年と思われるが、本写真は後に複写され販売されたもの。

目録番号:4772 隅田川の舟遊び(5)  関連作品 目録番号:2658 同(5)、4623 同(4) 
〔画像解説〕
大正14年(1925)東京朝日新聞社発行『アサヒグラフ臨時増刊写真百年祭記念号』に同じ写真が「内田九一氏と東京隅田川の舟遊」として載っている。説明に「明治七年頃の撮影で舟中欄干にもたるるは内田九一氏 平田健一氏所蔵」となっている。九一は洒落者だったので洋服姿で写った写真が多い。これは和服なので珍しい。

■ 確認結果

内田九一撮影「風頭山の行楽風景」を調べていて、この写真もHP上でわかった。 
1枚目の目録番号:2665「隅田川の舟遊び(2)」と、2枚目の目録番号:4583「隅田川の舟遊び(3)」は同じ作品。「この度長崎市立博物館所蔵の内田九一撮影のアルバムの中にこの写真を見つけ、九一撮影だと確認した」らしいが、「撮影者:内田九一」と入力修正しないと、撮影者検索で内田九一作品として出てこない。

内田九一が大阪で開業した現内田写真株式会社所蔵写真。2010年1月に東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に展示された。
この項は次で確認。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo07.html

次に3枚目の目録番号:4772「隅田川の舟遊び(5)」は、舟に乗っている人数が多い。「明治七年頃の撮影で舟中欄干にもたるるは内田九一氏 平田健一氏所蔵」写真。
内田九一の弟子か「撮影者:臼井秀三郎」となっている。関連作品の目録番号:2658 「同(5)」と目録番号:4623「同(4)」も同じ写真なので、同様に修正が必要。

長崎の古写真考 目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1)
〔画像解説〕
現グラバー園の展望台下付近から大浦と出島を望んだもの。画面左下の洋館が南山手8番のもので、中段右手の旗竿が2本立つ大きな建物は幕末期からあるベルヴューホテルである。その手前に大浦天主堂への坂道がみえる。大浦海岸通りにも2階建ての大型洋館が並びはじめ、海岸通りの突き当たりには運上所(税関)の荷物改所の初代建物が建つが、東山手の丘には14番の建物だけがあって、16番の洋館(現在は南山手に移築)はまだない。こうした建物の様子からすると、明治5年(1872)〜6年頃の撮影であろう。幕末期以降は長崎港の浚渫が放置されていたので、出島前には中島川が運んできた土砂が堆積し、干潮時には写真のように広大な砂州が露出した。これでは出島や大浦に小型の艀も接岸しがたくなるので、のちに中島川を出島の北側へ流す港湾改修工事を行う動機となった。左手の下り松42番の空き地に積み上げられているのは石炭であろう。

目録番号:2881 南山手からの大浦居留地と出島(2)

目録番号:2868 南山手からの大浦居留地と出島(1)
〔画像解説〕
グラバー園下の坂道付近から撮影したもの。左下の洋館は南山手8番の敷地内、現南山手地区町並み保存センターの位置に建っていたもので、その屋根上に下り松42番地の工場や倉庫がみえる。右手中央の建物は幕末期から存在したベルヴューホテルだが、入り口のポーチが増築されていたのが分かる。その手前は、大浦天主堂への坂道である。大浦居留地は多くの洋館が立て込み、海岸通りの中央には街路樹が植えられ、突き当たりの税関前の波止には大きな平屋建てが新築されているが、東山手の丘上には16番館や明治15年(1882)建設のラッセル館はまだ見えない。出島には、江戸期以来のカピタン部屋を利用したオランダ領事館の3段になった屋根がみえ、その建物がまだ建て替えられていないことが確認できる。出島右端には神学校や新教の教会なども見えないので、明治7年(1874)〜8年頃の風景であろう。遠くには立山と金比羅山、三つ山などが望まれる。

目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港
〔画像解説〕
モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている。南山手から長崎港奥を望む。この建物は南山手8番(現南山手地区町並み保存センター)で、慶応3年(1867)頃アメリカ人シュミット・スパンが建てた個人住宅。寄せ構造りの母屋の左右先端に半六角形の張り出し部を付け、海側にヴェランダをもつ、複雑な平面の建物であった。左前には東屋らしい別邸の屋根も見える。右側の瀟洒な洋館は下り松42番D。湾奥は浦上方面で、右の船溜まり五島町の海岸から立山。左側には淵村の集落が写っている。左の軍艦は明治5年(1872)長崎巡行で天皇を乗船したお召し艦「竜驤」のようである。筆書きのキャプションが記された外の写真と比較して、撮影者は東京から随行した内田九一と推定される。内田はこのとき天皇の九州巡幸に写真師として随行し長崎、熊本、鹿児島で多くの写真を撮影した。

■ 確認結果

前記事の「風頭山の行楽風景」について、「内田九一」撮影となる巡幸写真を調べていて気付いた。南山手のグラバー邸や現現南山手地区町並み保存センターあたりから、大浦海岸通りや出島方面を望んだ4作品。
1枚目の目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」と、2枚目の目録番号:2881「南山手からの大浦居留地と出島(2)」は同じ作品である。
3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、やや低い所から撮影され、新しい写真のようで港内の艦船が違う。

3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」に、4枚目の目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品を、左に付けると組写真らしくなった。1枚目や2枚目では合わない。
長崎大学側の4枚目の解説は、「モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている」ことにより、明治天皇巡幸に随行した写真家「内田九一」の作品と推定している。

「内田九一」が撮影した巡幸写真については、次の研究紀要を参照。掲載写真の「図23 長崎 大浦」は、1枚目の目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」、ないし2枚目の目録番号:2881「南山手からの大浦居留地と出島(2)」の方に間違いないだろう。
内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置(PDF) 
http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/061-072.pdf -html

長崎居留地パノラマについて見ると、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版は、28〜29頁に後ろのパノラマ写真のみ掲載されている。目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」と目録番号:2902「同(2)」の2枚続きの作品である。

これに対し、92頁に4枚目の目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品もあるが、単葉で掲載され「図版解説」ても、組写真である説明はしていない。
4枚目と組写真のようになった3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、どのように考えて良いのだろうか。

目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」などは、石黒敬章氏著「続 幕末・明治おもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷37頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
屋形船の不思議
〔写真16〕南山手より望んだ長崎市中。中央の干潟の向こうに出島が見える。右手前の洋館は南山手の外人居留地になる。その向こう側に大浦川がある。横浜写真アルバムにある写真だが内田九一が明治5年6月撮影したもの。

長崎の古写真考 目録番号: 657 風頭山(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 657 風頭山(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 657 風頭山(1)     関連作品  目録番号:1195 風頭山(2)
〔画像解説〕
横浜写真の50枚組(小川一真製作と思われる)の小型アルバムに収載され、鉛筆書きでNagasakiとキャプションがある。長崎旧市街の東部に位置する風頭山の物見遊山の情景。山の麓には長崎有数の寺院が並び、中腹から頂上付近までそれらの墓地が続いている。明治以前にはこの山に清遊を試みる者も多かった。この山頂から長崎港を望んだ写真も多い。この場所は現在でも残る風頭山頂横の古い石切り場の跡であり、切り立った岩はそのためである。切り出された石は墓石に使われた。和服を来た男女31人が思い思いのポーズで写されているが、中には子供も数人いる。服装は当時の普段着として興味深いが、16人ほどの男性成人のうち5人が丁髷を結い、残りの7人は散切り頭であり、女性には和傘と蝙蝠傘を持つものがあり明治初期の風俗をよくうかがわせている。左手背後の市街は立山方面で、海の奥に浦上新田の縁が見える。明治
10年代頃か。

■ 確認結果

朝日新聞のきのう2010年(平成22年)2月18日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”風頭山から艦隊見物 和洋折衷の物見遊山”。
この古写真は、データベース上の目録番号: 657「風頭山(1)」の作品である。関連作品の目録番号:1195「風頭山(2)」も同じ写真。画像解説は上記のとおりで、これまで撮影者は未詳とされていた。この項と現地写真は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1912

ところが、きのうの朝日新聞の解説文。「1872年7月、内田九一が撮影した。明治天皇の艦隊を風頭から見物する長崎の人々です。…」と変わった。
内田九一は、明治天皇の巡幸に随行した写真家である。巡幸で撮影したとされる写真は、次の研究紀要に報告がある。目録番号: 657「風頭山(1)」は、この巡幸写真にない作品である。
内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置(PDF) 
http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/061-072.pdf -html

解説が変わったいきさつは、次のとおり。HP「大阪天満宮表参道<祭屋梅の助>のぼてふり日記」の3頁にある。
http://ameblo.jp/maturiya-umenosuke

2010-01-29 【復刻「天満人」Web版(14)】内田九一が撮った風頭山の行楽風景
風頭山の行楽風景
日本写真界のパイオニアの一人として名を馳せた伝説の写真師・内田九一(くいち)を一門の祖として、明治4年天満に創業した内田写真株式会社の歴史は、日本の「写真の歴史」でもありました。
下の写真は内田九一が明治5年に明治天皇の西国巡行に随行した折に撮った長崎・風頭山(かざがしらやま)の行楽風景です。天皇が長崎に入られたのは6月16日。九一には名所旧跡を写真に収めて外国に紹介するという使命が託されていました。写真の中の人物はすべてエキストラで、九一は一人ひとりにさりげないポーズをとらせました。ハイカラな恰好をした人がいるのは、さすが長崎です。
長崎の市街地が一望できる風頭山は、山頂で長崎名物の凧(はた)上げなども行われ、昔から多くの行楽客で賑わいました。山の中腹には、坂本龍馬が設立した日本最初のカンパニー「亀山社中」がありました。…

長崎の巡幸滞在は3日ほど。内田九一は風頭山へ出かけ、港の艦隊は写さず(写しているかも知れない)、エキストラによる長崎の有名な行楽地「風頭山の行楽風景」を撮影に行ったというのが、真相のようである。どおりで人物は、港の見物風景となっていない。
ニックネーム「祭屋梅の助」HP氏のプロフィールも面白い。大阪生まれ。76年、写植業を開業。業種の衰退により廃業し、以後、大阪・天満を中心に取材活動を続ける。
雑誌「天満人」の編集人から「ぼてふり」に加齢(?)なる転身!大阪天満宮の表参道で名物「ぼてふりまんじゅう」を売ってます。天秤を肩に、まんじゅうを売りながら天満のまちも案内する。

内田九一は、弘化元年(1844)長崎生まれ、長崎でオランダ人から写真術を修得し、慶応元年には大阪に写真館を開業し、翌年には横浜と江戸に開業した。初めて明治天皇を写真に収めた。写真家の第一人者として活躍、31歳で肺結核のため死去した。
内田写真館はその後も受け継がれ、現在も大阪市北区天神橋に内田写真株式会社(創業 明治4年5月)は健在している。

ぼてふり日記に「伝説の写真師・内田九一(くいち)を一門の祖」とあり、最近の2010-01-29記事である。内田写真株式会社に「風頭山の行楽風景」の写真原板が保存されていて、内田九一作品と判明したものと思われる。
朝日新聞の記事は、このようなエピソードを紹介してほしい。データベースは以前として前のまま。変更はすぐ対応してもらいたい。

なお、朝日新聞の先週2010年2月11日付記事”明治天皇巡幸の長崎 豊かな街 強烈な歓迎”に載った現在の万才町、高木清右衛門邸から撮影とされる「市街地パノラマ(1)〜(3)」の作品も、昨年8月に長崎地方法務局屋上から撮影済みだったので、現在の写真(クリック拡大)を再び紹介する。この項の記事は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1927

参考のため追加した古写真は、同じ風頭山を写した内田九一の別作品「長崎港」。長崎市立博物館蔵。長崎文献社「続・アルバム長崎百年」昭和58年刊11頁に掲載があった。解説は次のとおり。

明治の初め頃東京で評判の内田九一(うちだ・くいち)という写真家がいた。宮内省御用係で、明治天皇が長崎御巡行の際は、お付きカメラマンとして長崎にも来たことがある。といっても、もともと、上野彦馬の門弟で長崎出身。いうところの、シュツランのほまれ、である。この人が、「全国名所風景」というアルバムを製作して日本中の美しい風景、珍しい眺めを撮影している中に「長崎港」と題する、この一枚がある。全国名所に選んだほどだから、そのころの港は、さぞ、きれいだったろう。
しかし、九一は、港は単なるバックとして扱い、風頭山の中腹に何かの集団らしいさまざまの服装の男女の一群を集め、むしろ、この”人間たち”にポイントを置いたような被写体構成をやっている。この写真は実物は、古ぼけていたが、九一の写真感覚は当時としては、すごくフレッシュだったといえる。その意味で敢えて、ここに掲げた。(市博蔵)