長崎の古写真考 目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1224 南山手からの大浦居留地(1)
〔画像解説〕
現グラバー園の展望台下付近から大浦と出島を望んだもの。画面左下の洋館が南山手8番のもので、中段右手の旗竿が2本立つ大きな建物は幕末期からあるベルヴューホテルである。その手前に大浦天主堂への坂道がみえる。大浦海岸通りにも2階建ての大型洋館が並びはじめ、海岸通りの突き当たりには運上所(税関)の荷物改所の初代建物が建つが、東山手の丘には14番の建物だけがあって、16番の洋館(現在は南山手に移築)はまだない。こうした建物の様子からすると、明治5年(1872)〜6年頃の撮影であろう。幕末期以降は長崎港の浚渫が放置されていたので、出島前には中島川が運んできた土砂が堆積し、干潮時には写真のように広大な砂州が露出した。これでは出島や大浦に小型の艀も接岸しがたくなるので、のちに中島川を出島の北側へ流す港湾改修工事を行う動機となった。左手の下り松42番の空き地に積み上げられているのは石炭であろう。

目録番号:2881 南山手からの大浦居留地と出島(2)

目録番号:2868 南山手からの大浦居留地と出島(1)
〔画像解説〕
グラバー園下の坂道付近から撮影したもの。左下の洋館は南山手8番の敷地内、現南山手地区町並み保存センターの位置に建っていたもので、その屋根上に下り松42番地の工場や倉庫がみえる。右手中央の建物は幕末期から存在したベルヴューホテルだが、入り口のポーチが増築されていたのが分かる。その手前は、大浦天主堂への坂道である。大浦居留地は多くの洋館が立て込み、海岸通りの中央には街路樹が植えられ、突き当たりの税関前の波止には大きな平屋建てが新築されているが、東山手の丘上には16番館や明治15年(1882)建設のラッセル館はまだ見えない。出島には、江戸期以来のカピタン部屋を利用したオランダ領事館の3段になった屋根がみえ、その建物がまだ建て替えられていないことが確認できる。出島右端には神学校や新教の教会なども見えないので、明治7年(1874)〜8年頃の風景であろう。遠くには立山と金比羅山、三つ山などが望まれる。

目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港
〔画像解説〕
モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている。南山手から長崎港奥を望む。この建物は南山手8番(現南山手地区町並み保存センター)で、慶応3年(1867)頃アメリカ人シュミット・スパンが建てた個人住宅。寄せ構造りの母屋の左右先端に半六角形の張り出し部を付け、海側にヴェランダをもつ、複雑な平面の建物であった。左前には東屋らしい別邸の屋根も見える。右側の瀟洒な洋館は下り松42番D。湾奥は浦上方面で、右の船溜まり五島町の海岸から立山。左側には淵村の集落が写っている。左の軍艦は明治5年(1872)長崎巡行で天皇を乗船したお召し艦「竜驤」のようである。筆書きのキャプションが記された外の写真と比較して、撮影者は東京から随行した内田九一と推定される。内田はこのとき天皇の九州巡幸に写真師として随行し長崎、熊本、鹿児島で多くの写真を撮影した。

■ 確認結果

前記事の「風頭山の行楽風景」について、「内田九一」撮影となる巡幸写真を調べていて気付いた。南山手のグラバー邸や現現南山手地区町並み保存センターあたりから、大浦海岸通りや出島方面を望んだ4作品。
1枚目の目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」と、2枚目の目録番号:2881「南山手からの大浦居留地と出島(2)」は同じ作品である。
3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、やや低い所から撮影され、新しい写真のようで港内の艦船が違う。

3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」に、4枚目の目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品を、左に付けると組写真らしくなった。1枚目や2枚目では合わない。
長崎大学側の4枚目の解説は、「モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている」ことにより、明治天皇巡幸に随行した写真家「内田九一」の作品と推定している。

「内田九一」が撮影した巡幸写真については、次の研究紀要を参照。掲載写真の「図23 長崎 大浦」は、1枚目の目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」、ないし2枚目の目録番号:2881「南山手からの大浦居留地と出島(2)」の方に間違いないだろう。
内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置(PDF) 
http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No01/061-072.pdf -html

長崎居留地パノラマについて見ると、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版は、28〜29頁に後ろのパノラマ写真のみ掲載されている。目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」と目録番号:2902「同(2)」の2枚続きの作品である。

これに対し、92頁に4枚目の目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品もあるが、単葉で掲載され「図版解説」ても、組写真である説明はしていない。
4枚目と組写真のようになった3枚目の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、どのように考えて良いのだろうか。

目録番号:1224「南山手からの大浦居留地(1)」などは、石黒敬章氏著「続 幕末・明治おもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷37頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
屋形船の不思議
〔写真16〕南山手より望んだ長崎市中。中央の干潟の向こうに出島が見える。右手前の洋館は南山手の外人居留地になる。その向こう側に大浦川がある。横浜写真アルバムにある写真だが内田九一が明治5年6月撮影したもの。