月別アーカイブ: 2007年11月

光正寺のラカンマキ  諌早市長野町

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光正寺のラカンマキ  諌早市長野町

諌早市長野町の光正寺へは、有喜からが近いが道順が少しわかりにくい。諌早から行き小野小学校前から、右谷間の川沿いの市道を進む(この市道が有喜へ出る)。
宗方堤の奥で二方に分かれ、右手の広い道を行き、橋を渡ったカーブの所が柳原集落。寺の標識があり、寺は右上に見える。
Otoji.K氏のHP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

諫早市の大ラカンマキ

諫早市長野町の光正寺にある。樹高20m、幹回り2.8m。樹齢は不詳。
ご住職の話では、このマキの根は階段下にあったが、現在の境内の高さまで2mほど埋めて階段を造ったとのこと。マキの根が見えないわけだ。実際の幹回りは3mを越すに違いない。葉が小ぶりだったので、イヌマキでなくラカンマキだろう。
マキの側にフジがあるが、マキに絡んでいたのをはずして藤棚にしたとのこと。境内のイチョウの大木は境内を埋め立てた後に植えたと言う。

滝の観音の伏樹  長崎市平間町

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滝の観音の伏樹  長崎市平間町

矢上の滝の観音は、間の瀬川の中流にある。国道34号線「観音口」バス停から長崎バイパスへ出る県道の中間に参道入口がある。滝と標石は、別項によりすでに紹介している。
Otoji.K氏のHP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

長崎市・平間町の滝の観音の伏樹

「名勝文化財」として県指定を受けている。横たわった巨木の下をくぐるようになっている伏樹門がある。看板に「巌橿」と記してあるので、カシの巨木である。アカガシ? イチイガシ?
境内には、クスノキ、スギ、ナギ、イチョウ、イヌガヤ、ネムノキなどの高木がある。奥に進むと、30mの滝が現われる。この滝には名前がないと言う。人里にある滝で名前がないのは、国内ではここだけらしい。
川の向う側には竹林が広がっている。1Kmほど下った川沿いに「滝の茶屋」があり、ソーメン流しが楽しめる。

阿蘇神社の社叢  諌早市多良見町化屋

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阿蘇神社の社叢  諌早市多良見町化屋

阿蘇神社は、国道34号線から多良見町の中心街に入る入口にある。社殿には、北村西望書の額があった。
Otoji.K氏のHP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

阿 蘇 神 社 の 社 叢

神社内にはクスノキ、スタジイ、アラガシの大木の他、 イスノキ、モッコク、ヤマビワ、ヤマモガシ、 ナナミノキ、ウラジロガシ、トキワガキ、タブ、ヒゼンモチなどの高木がある。また、ヤマヒハツ、ヒサカキ、オガタマノキ、カクレミノ、シャシャンボの他、クチナシ、マンリョウが多数ある。写真はアラガシとスタジイの大木。
「長崎県植物誌」の著者である外山三郎氏は、阿蘇神社には樹木が多く、県の天然記念物にも値すると記している。大切に保存しておきたい社叢である。

長崎県立総合運動公園沿いのメタセコイア  諌早市宇都町

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長崎県立総合運動公園沿いのメタセコイア  諌早市宇都町

メタセコイアの街路樹は、長崎市爆心地公園沿いに50mほど続くが、諌早市の長崎県立総合運動公園沿いの方が県下一であろう。この公園と道路は昭和44年長崎国体のため整備された。Otoji.K氏のHP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

メ タ セ コ イ ア

スギ科メタセコイア属 落葉高木。枝や葉は対生し、小枝は秋に葉と一緒に落ちる。中国四川省で発見された生ける化石として有名になった。
国立民族歴史博物館の辻誠一郎氏によると、「三木茂博士が化石で発見した植物ですが、その後、中国で生きていることがわかり世界をおどろかせました。中国の生きた植物から増やした苗がアメリカ人によって日本に贈られ、2代目、3代目が全国の校庭や公園ですくすく育っています。」。日本に移植されたのは、1950年頃という。… 

長崎水辺の森公園の秋景色

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長崎水辺の森公園の秋景色

平成19年11月29日撮影。長崎水辺の森公園は常盤・出島地区に2004年4月完成。同年度グッドデザイン金賞(建築・環境デザイン部門)を受賞している。
長崎県美術館があり、国際観光船の埠頭も近くである。

12月2日にサハフィアプリンセス号が入港していたから画像を追加した。

ダイヤランドの開発前と開発後の航空写真比較

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ダイヤランドの開発前と開発後の航空写真比較

「みさき道」の道筋となった小ヶ倉入口「源右衛門茶屋」から土井首大山祗神社前「鹿尾川渡り」までの「加能の尾」の大部分は、三菱地所が開発した大型団地「ダイヤランド」と変った。ダイヤランドは昭和56年起工、昭和59年4月から販売を開始したから、もう26年余を経過している。

団地となっては昔の道跡をたどれない。この開発前の姿の写真を探していたところ、ダイヤランド3丁目山下雄氏の協力により、同団地2丁目自治会が2年前発行した会報に、昭和56年(1981)3月(着工前)の航空写真があったのを、先の項で紹介していた。

その元の版となる写真がすぐ見つかった。おととい11月27日、私が小の用あり長崎市小ヶ倉支所に立ち寄った。支所長とたまたま会い、この写真のことを話した。すると「写真はこれでないか」と、支所カウンター後ろ壁の掲示板を教えてくれた。
写真は上のとおり。開発前は1981.3、開発後は1989.3撮影とある大きな航空写真。三菱開発から提供を受け、地元民のため前から掲示しているそうである。

これまで何度も支所に行っていたが、うかつだった。資料はその気になって探さないと、なかなか見当らない。続けて資料の写真が見つかり、開発後の姿の航空写真もあったのは、変貌を比較する上で良かった。

宗方神社の大クス  諌早市宗方町  

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宗方神社の大クス  諌早市宗方町

国道57号線が諌早市街を抜ける所に小野小学校がある。右へ入り学校正門入口の脇に宗方神社がある。境内は石垣上の高台で、大木が茂って車窓からもすぐわかる。
Otoji.K氏のHP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。現地に諫早市の説明板はなかった。
宗方神社の大クス

諌早市小野小学校側の宗方神社にある。幹周り7.6m。境内には、クロガネモチやホルトノキの木の大木やヒゼンマユミがある。

女夫木の大スギ  諌早市小川町

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女夫木の大スギ  諌早市小川町

国道57号線諌早の総合運動公園前を通り、小栗町交差点の先で小栗小学校前となる小川町交差点から右の小栗団地へ入る。団地奥に新しい長崎刑務所があり、道を進むと女夫木のバス終点に着く。ここに国の天然記念物の大スギがある。
度重なる落雷・台風などの被災から守るため、痛々しい姿で保護され立っている。現地説明板は次のとおり。

国指定天然記念物  女夫木の大スギ  昭和50年6月26日指定

女夫木の大スギは、昔から地域のシンボルとして市民に親しまれてきました。
高さ31m、目通り幹廻り9m、樹齢約600年といわれており、全国有数の巨樹として国の天然記念物に指定を受けています。
この大スギがある地域は女夫木と呼ばれていますが、昔は2本の大スギが夫婦のように自生していたので、このような名がついたといわれています。
この大スギの表皮をはいだり傷をつけたり、また火災を出したりしないよう大切にしましょう。
長崎県教育委員会 諌早市教育委員会  平成5年3月建

諌早市森山町下井牟田にある水準点

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諌早市森山町下井牟田にある水準点

水準点がある場所は、島原鉄道森山駅前の国道から南へ少し下る。諌早市森山町下井牟田の「原」という集落。現行地形図によると3.4mの水準点がある。明治初期、この道路が干拓前の海岸沿い主要道であったと思われる。道を間違ってここへ出て、たまたま「水準点」の標識があったので、よく見てみた。

写真のとおり広い干拓農地を背景にして道路脇にある。コンクリート製の枡囲いでガードされている。蓋のプレートは「基本 一等三角点 建設省国土地理院」。重い蓋を開けたら、頭部にあの突起のある石柱の旧型だった。長崎市では見かけない古い水準点を生かす保存方法。国土地理院は苦労しているようだ。干拓の歴史も感じた。

「歳旦塚」(さいたんつか)は芭蕉の句ではない

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「歳旦塚」(さいたんつか)は芭蕉の句ではない

長崎市西山本町9番30号松本宅の家囲い一段下の庭にある。「長崎の歳旦貰ふ歳暮哉 芭蕉翁」と刻まれ、「歳旦塚」と言い芭蕉の句として紹介されることが多い。本ブログ先項も他本から間違って紹介していた。

実はこの句は芭蕉の句ではない。西山の中尾氏の協力により文献があることがわかった。長崎手帖社「長崎手帖 No.11」昭和33年1月25日発行の「碑をたずねて 6」27頁に、次のとおり中西啓氏の稿「歳旦塚について」があったから載せて訂正したい。
長崎にある句碑は、タッちゃんのブログ「あしたのビルフィッシャーのために(その1)」がよく調べられてわかりやすい。「歳旦塚」を参照ください。「長崎名勝図絵」も『傍に芭蕉翁の歳旦塚あり』と記述しているらしい。

歳旦塚について    中 西  啓

西山の奥、椿原の祗樹林(旧崇福寺末庵)の跡に歳旦塚と呼ばれる巨石が残っている。
歳旦塚という名は、芭蕉翁の句として
長崎の歳旦貰ふ歳暮哉
を巨石に刻んだ為に起ったものであるが、これは実は江戸座の俳人湖十の作で、芭蕉の句ではない。然し長崎の大原洵美及び加賀金沢の暮柳舎三世北圣が志主となって祗樹林の境内にこの句碑を建立した時は既に芭蕉に仮托されたものである。
金沢出身の梅室は化政時代の大家であるが、この句を称して文政二年刊、古賀梅調の「牛あらひ集」の序に引用している程である。但し梅室は「六七十年むかしの句なるよし」と云っていて、芭蕉作とは述べていない。そしてさすがにこの句の意味も正しく理解している。
元来、この句は歳旦の意味が判らなくては句意も摑めないであろう。即ち、この歳旦は当時年始に発行されていた歳旦帖のことで、年末に長崎の歳旦帖を貰う程交通が開けていることを詠ったものである。先頃、長崎で出された二・三の歳旦帖を管見に入ったので別の機会に紹介したいが、長崎の歳旦は当時としては特異なもので、在留唐人に題字を書かせたものもあり、今日も尚何となくエキゾチックな匂いを保っている。
この句碑が特に意義があるのは、芭蕉の誤伝句を伝えたということの他に、寛政十年作劉雲台の七言詩と、陸秋実撰、程赤城書の長文が刻まれているからである。秋実の文には芭蕉が長崎に来遊したかの様に記してあり、芭蕉の九州来遊のことを記した偽書簡が流布していた頃とは云え、祗樹林が西山に移ったのが芭蕉没後であることも考慮してないけれども在留唐人が俳諧を理解する上に一つの契機を与えたものとして国際文芸交流の大切な郷土史蹟と云えるであろう。然しこの句碑も次第に曾っての清閑な環境を失って了ひ、歳旦の意味と共に忘れ去られようとしている。                                  (筆者 長崎学会々員)