「歳旦塚」(さいたんつか)は芭蕉の句ではない
長崎市西山本町9番30号松本宅の家囲い一段下の庭にある。「長崎の歳旦貰ふ歳暮哉 芭蕉翁」と刻まれ、「歳旦塚」と言い芭蕉の句として紹介されることが多い。本ブログ先項も他本から間違って紹介していた。
実はこの句は芭蕉の句ではない。西山の中尾氏の協力により文献があることがわかった。長崎手帖社「長崎手帖 No.11」昭和33年1月25日発行の「碑をたずねて 6」27頁に、次のとおり中西啓氏の稿「歳旦塚について」があったから載せて訂正したい。
長崎にある句碑は、タッちゃんのブログ「あしたのビルフィッシャーのために(その1)」がよく調べられてわかりやすい。「歳旦塚」を参照ください。「長崎名勝図絵」も『傍に芭蕉翁の歳旦塚あり』と記述しているらしい。
歳旦塚について 中 西 啓
西山の奥、椿原の祗樹林(旧崇福寺末庵)の跡に歳旦塚と呼ばれる巨石が残っている。
歳旦塚という名は、芭蕉翁の句として
長崎の歳旦貰ふ歳暮哉
を巨石に刻んだ為に起ったものであるが、これは実は江戸座の俳人湖十の作で、芭蕉の句ではない。然し長崎の大原洵美及び加賀金沢の暮柳舎三世北圣が志主となって祗樹林の境内にこの句碑を建立した時は既に芭蕉に仮托されたものである。
金沢出身の梅室は化政時代の大家であるが、この句を称して文政二年刊、古賀梅調の「牛あらひ集」の序に引用している程である。但し梅室は「六七十年むかしの句なるよし」と云っていて、芭蕉作とは述べていない。そしてさすがにこの句の意味も正しく理解している。
元来、この句は歳旦の意味が判らなくては句意も摑めないであろう。即ち、この歳旦は当時年始に発行されていた歳旦帖のことで、年末に長崎の歳旦帖を貰う程交通が開けていることを詠ったものである。先頃、長崎で出された二・三の歳旦帖を管見に入ったので別の機会に紹介したいが、長崎の歳旦は当時としては特異なもので、在留唐人に題字を書かせたものもあり、今日も尚何となくエキゾチックな匂いを保っている。
この句碑が特に意義があるのは、芭蕉の誤伝句を伝えたということの他に、寛政十年作劉雲台の七言詩と、陸秋実撰、程赤城書の長文が刻まれているからである。秋実の文には芭蕉が長崎に来遊したかの様に記してあり、芭蕉の九州来遊のことを記した偽書簡が流布していた頃とは云え、祗樹林が西山に移ったのが芭蕉没後であることも考慮してないけれども在留唐人が俳諧を理解する上に一つの契機を与えたものとして国際文芸交流の大切な郷土史蹟と云えるであろう。然しこの句碑も次第に曾っての清閑な環境を失って了ひ、歳旦の意味と共に忘れ去られようとしている。 (筆者 長崎学会々員)