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鼓 ヶ 滝  熊本市西区河内町野出

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鼓 ヶ 滝  熊本市西区河内町野出

熊本県環境立県推進課HP「水の国 くまもと」水の名所による説明は、次のとおり。県道101号岩戸観音入口橋のすぐ下流側にある。

鼓ヶ滝(つづみがたき)

滝から流れ落ちた水が洞内にこだまして、ポンポンと鼓のような音がしていたので、鼓ヶ滝という名がついたと言われている。鼓ヶ滝は、金峰山県立自然公園内を流れる河内川(2級河川)にある大岩(幅・高さともに約10m)から流れ落ちている。この景観は熊本市松尾町平山と同河内町野出地区境の県道沿いから間近に見ることができる。

鼓ヶ滝は金峰山カルデラの渓谷にあるため景勝地「肥後耶馬渓」の見所の1つとなっており、高低差はあまりないが、滝つぼの様子は、多くの写真愛好家の撮影ポイントとなっている。滝は熊本市の「水遺産」に登録されているほか、環境省認定の「平成の名水百選」に認定された金峰山湧水群にも近く、少し足を伸ばせば金峰山湧水群を訪ねることができる。

六郎次山  天草市深海町・河浦町路木

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六郎次山  天草市深海町・河浦町路木

天草市HPの文化財による説明は、次のとおり。国道266号深海分岐に案内表示板があり、山頂の公園展望台まで車道が上がる。山頂近くで車道がわかりにくいが、少し下ると表示板がある。

六郎次山
■指定区分 国指定
■指定種別 名勝
■指定年月日 昭和10年6月7日

天草下島の東海岸、深海町と河浦町の境界にそびえる六郎次山(標高405m)は下島における代表的な展望所で、下島大観山ともいい、昭和10年に千巖山及び高舞登山(上天草市)などとともに国の名勝に指定されています。
国の名勝には「観賞価値の高いもの」が選ばれますが、六郎次山の山頂からは、眼下に穏やかな深海湾の入り江を望むことができます。また、遠くには御所浦島や獅子島、長島など八代海(不知火海)に浮かぶ大小の島々を一望でき、これらのすばらしい風景を目の当たりにできます。

■地域 牛深
■所在地 深海町及び河浦町路木
■見学 常時

烏帽子坑跡  天草市牛深町西田代又

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烏帽子坑跡  天草市牛深町西田代又

天草市HPの文化財による説明は、次のとおり。牛深ハイヤ大橋を渡って、下須島の西岸「小森海岸」へ行くが、かなり遠い。「小森海岸」は、日本の夕陽百選の地である。

烏帽子坑跡
■指定区分 市指定
■指定種別 史跡
■指定年月日 平成4年12月2日

烏帽子坑は、明治30年天草練炭株式会社が創業を始め、数年間採炭されました。下須島西岸の海を隔てた「烏帽子瀬」に構築され、今も当時の姿をそのまま残している珍しい海底炭鉱跡です。
牛深を中心とした天草南部炭田は、俗に「キラ炭」と呼ばれる無煙炭で、カロリーが高く、揮発性の強い優秀な石炭で、軍艦の燃料となりました。このため、当時の海軍省などの天草炭田への期待は大きいものがあり、海底掘進という危険性があっても、露頭する炭層の採炭に着手し出炭しましたが、湧水等に悩まされ、数年間ほどで創業を中止したとされています。
それ以降約110年の間、何十回もの台風が来襲し大波を受けたにも関わらず、赤土と松ヤニを混ぜて接着したとされるアーチ型の赤レンガの坑口は現代にもその姿を留めています。
烏帽子坑の奥、西海岸に沈む風景は「日本の夕陽百選」にも選ばれています。

■地域 牛深
■所在地 牛深町字西田代又1103−2 海上にあるため、接近はできません。

牛深港のハイヤ像  天草市牛深町

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牛深港のハイヤ像  天草市牛深町

蔵之元港からフェリーで牛深港へ帰る。ハイヤ娘が出迎え。
牛深ハイヤ節は、熊本県天草市牛深(旧牛深市)で江戸時代から伝わる「元祖ハイヤ節」である。現在では全国40ヵ所以上のハイヤ系民謡のルーツとなっている。
写真3,4の「牛深ハイヤ」像は、昭和58年4月2日建立。牛深ロータリークラブ創立20周年記念。制作石原昌一。

蔵之元のゴリラ  長島町蔵之元自治公民館前

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蔵之元のゴリラ  長島町蔵之元自治公民館前

国道389号で蔵之元港にすぐ着く手前、蔵之元自治公民館前で、ゴリラを見た。地元自治会が平成23年10月に制作した「ながしま造形美術展」の作品。
以前は蔵之元港に展示していて、写真のとおりの町説明板があった。現在、蔵之元港には、最新作のマンモス像が展示されている。

明神古墳群  長島町蔵之元明神

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明神古墳群  長島町蔵之元明神

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。蔵之元港への国道389号に明神古墳群への入口案内板がある。

明神古墳群
【所在地】出水郡長島町蔵之元明神
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 58 年4月 13 日

明神古墳群のある蔵之元は,長島の西北部にあたり,西に長島海峡をへだてて天草の牛深市を望む。古墳群は,東シナ海に流れ込む河川の南側で,礫層の上に形成された広葉樹やガジュマルの茂る海岸防風林の中にある。
古墳群全体は小高い墳丘を形成し,その中に 30 基余りの栗石積みの竪穴式石室が点在している。うち6基が昭和 37,38(1962,63)年に発掘調査されたが,他は未調査である。
1号墳は栗石を横積みした不整形な長方形で,長軸が約3 m ある。石室床面ではサンゴや軽石の破片,人骨片,鉄鏃,刀子などが発見されている。
2号墳は,羨門をもつ横穴系竪穴式石室で,長軸約 2.75m,羨道の長さ 55cm で遺物はない。
3号墳は,2号墳と同形式で,土師器片,鉄刀,鉄鏃等が出土し,頭骨と鏡も出土し小浜崎古墳群した。

小浜崎古墳群  長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先

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小浜崎古墳群  長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。蔵之元港への国道389号に小浜崎古墳公園への入口案内板がある。

小浜崎古墳群
【所在地】出水郡長島町蔵之元鬼塚,白金,白金先
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 58 年4月 13 日

小浜崎古墳群は,長島の西北部,東シナ海に細く突き出た丘陵に点在する鬼塚古墳1号墳・2号墳,白金古墳,小浜崎古墳の総称である。
鬼塚古墳1号墳は,6世紀中葉から後葉にかけての横穴式石室をもつ高塚古墳である。羨道をもつ複式石室の構造は,北九州・畿内タイプの要素が強く,本県唯一のものである。
鬼塚古墳2号墳は,竪穴式で複式の箱式石棺を有する。
白金古墳は,6世紀中葉の横穴式石室をもつ積石塚古墳である。形式的には,柄鏡式に近いが前方後円墳であるかは不明である。墳丘は,長径 7.3m,短径 5.7m,高さ 1.7m の小規模なものだが,金環,ガラス小玉類その他の副葬品が確認されている。
小浜崎古墳は6世紀中葉と推定され,中心に地表下 20 〜 30cm ほど掘りこんだ竪穴式石室をもち,その上に円形の墳丘があったと推定される。石室は,扁平な割石を小口積みにして側壁をつくっている。過去に盗掘にあっているためにめぼしい副葬品はないが,昭和 39(1964)年の発掘調査で鉄剣破片等が確認されている。

入来町小路の石敢当  薩摩川内市入来町浦之名

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入来町小路の石敢当  薩摩川内市入来町浦之名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。本ブログ次を参照。
入来麓周辺の「石敢当」調査(概略図⑤〜⑪分)  https://misakimichi.com/archives/4132
前回不明の小路の石敢当は、薩摩川内市入来支所に調査をお願いし、私自身で確認していなかったため、今回の帰路立ち寄り、概略図⑨、⑩の石敢当を撮影してきた。

入来町の石敢當1 いりき
薩摩川内市 石敢當 高49㎝,幅13㎝ 元文4(1739) 市教委/ 日本の石敢當p146 石垣に埋もれている (正面)「石敢當」 3 C

薩摩街道の妹背橋  薩摩川内市高城町

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薩摩街道の妹背橋  薩摩川内市高城町

HP「旧街道ウオーキング 人力」薩摩街道を歩く2008年11月26日(水)記事は、次のとおり。

牛ノ浜〜西方御仮屋〜上川内〜JR川内

…「西郷どんの手水鉢」が左手にある。弘化3年(1846)岩永三五郎の設計で石造りの美しい眼鏡橋の妹背橋が架けられたが、この工事に座書役として従事したのが18歳の西郷隆盛だった。竣工までの3年間宮園さん宅に奇遇し、朝夕この手水鉢を使ったと説明されている。

高城川に架かる「妹背橋」を渡るが、その手前右側に行ったところに妹背橋についての説明板がある。ここも丸目さんに教えていただいたところだ。それによると初代妹背橋は木造桁橋であったと思われ、その後弘化3年
(1846)に第二代妹背橋は石造り眼鏡橋に造りかえられている。この石橋は二連の角石をアーチ型に組み合わせ、高城川の洪水の激流に耐えられるように、底辺は特に大きな角石を敷き詰め、底堀りによる流失を防ぐように設計された優美な眼鏡橋だった。熊本県出身の名工岩永三五郎がこの橋の設計を行ったが、岩永はこのほかに甲突川の五石橋をはじめ三十五の石橋を架橋し、川内市出身の阿蘇鉄矢とともに石橋造りに尽くした人物として有名だ。また二十歳の西郷隆盛が工事の監督を行ったとされている。三代目、四代目の妹背橋は鉄筋コンクリート橋に変わっていると説明されている。

橋を渡るとすぐに道標があり、左折して進む。右手に京セラの大きな工場があり、その裏を通って進む。高城郷の野町跡の案内板が立っている。それによるとこの通りは薩摩藩公認の野町〈商業町)のあったところで、紺屋〈染物屋)、人形屋、焼酎屋、旅籠などが軒を連ね、賑わっていたと書かれている。町並みもなんとなく昔を感じさせるものがある。…

鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋  鹿児島市稲荷町

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鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋  鹿児島市稲荷町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。前記事も参照。

№1,524  大乗院橋

鹿児島市稲荷町
稲荷川
橋長:15.0m  橋幅:下幅9.9m  径間:11.0m  拱矢:4.9m
架設:平成2年3月
稲荷町、清水中学校前の稲荷川に架かっています。
RC橋ですが平成に生まれ変わった石橋としてカウントしました。

大乗院橋  (池之上町若宮公園に縮小復元されている大乗院橋の現地説明板)
「大乗院橋は、薩摩藩の祈願所であった宝成就寺大乗院(現在の清水中学校のところにあった寺)の参道に架けられた橋で、もともと板橋でしたが、天保13年(1842)岩永三五郎により石橋につくりかえられました。
大乗院橋は長さ14.5m、幅4.2mで、橋の中央が道路の両側より大きくせりあがり、アーチの丸みが強く美しい石橋でした。
しかし、昭和63年(1988)夏の大雨により、大乗院橋のアーチを形作る輪石などの一部が破損・流失しました。
平成10年(1998)3月、旧大乗院橋の残された石材を主に使用し、若宮公園に2分の1に小型化した石橋が完成しました。その姿は往時の面影を残しています。」