月別アーカイブ: 2011年4月

長崎外の古写真考 目録番号: 326 相撲(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 326 相撲(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 326 相撲(1)
〔画像解説〕
相撲は本来神事と深い関係を持ち、宮廷では、初秋の行事として相撲の節会を行った。これは、東西二手に別れ、何れが豊作であるかを占ったものである。江戸時代、武家で練武として普及した他、草相撲・辻相撲も盛んで、神社での奉納相撲も盛んに行われた。

目録番号: 529 相撲(3)
〔画像解説〕
相撲は、直径4.55mの円形で、40〜60cm盛り土された土俵で行われる。土俵は、東南西北に位置する四方柱(よもばしら)に囲まれ、方屋(かたや)といわれる屋根に覆われる。四方柱は春夏秋冬を表わし、その上部には水ひき幕が張られた。

目録番号:4288 相撲巡業

目録番号:3349 東京大角力協会の巡業

■ 確認結果

目録番号: 326「相撲(1)」、目録番号: 529「相撲(3)」、目録番号:4288 相撲巡業は、小屋掛けの相撲興行である。東京の本所「回向院相撲場」の本場所風景と思われる。資料及び古写真は、HP「森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1) 古写真で読み解く広重の江戸名所」から。

回向院の相撲は江戸時代に限ったことではない。明治42年(1909)両国国技館が完成するまでは、回向院で晴天10日の小屋掛けの本場所が行われていた。2階の桟敷席があり。「角力場は桟敷の梯子持ち回り」と詠まれた梯子が写っているのも興味深い。観客席には屋根がないので、帽子をかぶっている人が多い。

最後の目録番号:3349「東京大角力協会の巡業」は、写真が新しい。観客席には屋根があり、段差がある立派な桝席と変っている。これが明治42年(1909)完成した両国国技館ではないだろうか。「角力」は「相撲」か。

「まぼろしの石橋」が姿現わす(3)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

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「まぼろしの石橋」が姿現わす(3)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

2011/04/30 10:05 の状況。石橋のアーチがだいぶん見えてきた。きょうは近くで写す。石橋を渡ってきた。
(1)2011/04/17 は、 https://misakimichi.com/archives/2666
(2)2011/04/21 は、 https://misakimichi.com/archives/2671

長崎外の古写真考 目録番号:1110 葬式(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1110 葬式(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1110 葬式(3)
〔画像解説〕
町中を行く葬列。非常にたくさんの人々がカメラの方を見ている。左には僧侶たち、右には人々に担がれた棺が見える。僧侶の近くにあるのぼりには「故石橋老母喜久」と書かれている。 

■ 確認結果

目録番号:1110「葬式(3)」の作品は、HP「OLD PHOTOS of JAPAN」に掲載されている。同説明は次のとおり。〔撮影者:日下部金兵衛〕が正しいのではないだろうか。

撮影者: 日下部金兵衛
発行元: J B Millet Company
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 70614-0007
1890年代 • 明治時代の葬儀</a>
霊柩車とその周りに大勢の参列者が写っている。場所は東京か大阪のような都会と思われる。幟には「故石橋老母喜久」の名が読める。明治時代、葬儀には通常大勢の人々が参列し、費用もかかった。短い間に一家に続けて二つの葬儀があると、その家は破産すると言われた。社会評論家からの批判、特に車が増えて人々が道路から押し出されるといった社会の変化などで、これらの派手な行事は結局終わりを迎えることになった。

長崎外の古写真考 目録番号:2845 道頓堀通り(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2845 道頓堀通り(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2845 道頓堀通り(3)

目録番号:5457 道頓堀通り(7)   (掲載略)

目録番号:2269 道頓堀

■ 確認結果

目録番号:2845「道頓堀通り(3)」、及び目録番号:5457「道頓堀通り(7)」(掲載略)は、次の目録番号:2269「道頓堀」と同じ写真である。〔撮影者:玉村康三郎〕となろう。タイトルの調整も必要。関連作品で出てこない。
HP「OLD PHOTOS of JAPAN」の玉村康三郎作品にある。同説明は次のとおり。

撮影者: 玉村康三郎
発行元: 玉村康三郎
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 70621-0005
1890年代の大阪 • 道頓堀の劇場街</a>
道頓堀通りの西から東を望んだもの。この通りは芝居茶屋や、料理屋、芝居小屋が多く賑やかな場所だった。明治時代には道頓堀五座と呼ばれた五つの大きな芝居小屋があったが、その一つが背景に写っている朝日座で、木造の櫓と呼ばれる舞台がある。朝日座は明治23年(1890)に新築開場しており、この写真はその直後の頃のものと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:4442 向島堀田庭園(13) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4442 向島堀田庭園(13) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4442 向島堀田庭園(13)
〔画像解説〕
旧佐倉藩主堀田家の向島別邸「七松園」で、明治初年から20年(1887)ころまで堀田家が所有していた。隅田川の水を引き入れた回遊式庭園で、潮の干満によってその景観を変えた。当時、東京の名園のひとつとされていた。各所に配された人物は、堀田家の人々であろう。

目録番号:4158 向島堀田庭園(11)
〔画像解説〕
目録番号4442よりも水位が高くなり、池端の川原石積みがほとんど水没し、異なる景観を見せている。奥左手の藤棚上に堀田家の家紋を染めた幔幕が見える。中央奥の庭木の向こうに目録番号4442にはない隣家の瓦屋根が見え、やや新しい時期の撮影とわかる。

目録番号:4667 向島堀田庭園(16)
〔画像解説〕
旧佐倉藩主堀田家の向島別邸「七松園」で、明治初年から20年(1887)ころまで堀田家が所有していた。隅田川の水を引き入れた回遊式庭園で、潮の干満によってその景観を変えた。当時、東京の名園のひとつとされていた。各所に配された人物は、堀田家の人々であろう。

目録番号:6730 向島堀田庭園(16)

■ 確認結果

長崎大学古写真データベースの東京「向島堀田庭園」の関係作品は多くある。
構図は2通り。いずれも種別では同じ写真なのに、撮影者が異なったり、未詳となっている。
1枚目の構図の写真は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「日下部金兵衛撮影の着色写真」として掲載されている。

1枚目の目録番号:4442「向島堀田庭園(13)」と同じ写真は、次のとおり。
目録番号: 1130  向島堀田庭園( 1)   撮影者: 小川一真
目録番号: 1761  向島堀田庭園( 3)  撮影者: 鈴木真一
目録番号: 2213  向島堀田庭園( 5)  撮影者: 玉村康三郎
目録番号: 2653  向島堀田庭園( 7)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 2907  向島堀田庭園( 8)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 2911  向島堀田庭園( 9)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4159  向島堀田庭園(12)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4442  向島堀田庭園(13)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4667  向島堀田庭園(16)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4830  向島堀田庭園(14)  撮影者: 撮影者未詳

2枚目の目録番号:4158「向島堀田庭園(11)と同じ写真は、次のとおり。
目録番号: 1170  向島堀田庭園( 2)  撮影者: 小川一真
目録番号: 2207  向島堀田庭園( 4)  撮影者: 玉村康三郎
目録番号: 2282  向島堀田庭園( 6)  撮影者: 玉村康三郎
目録番号: 2653  向島堀田庭園( 7)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 2993  向島堀田庭園(10)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4158  向島堀田庭園(11)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 5474  向島堀田庭園(15)  撮影者: 玉村騎兵衛?
目録番号: 6730  向島堀田庭園(16)  撮影者: 撮影者未詳

次に4枚目の目録番号:6730「向島堀田庭園(16)」は、3枚目の目録番号:4667「向島堀田庭園(16)」の続きだから、タイトルは「向島堀田庭園(17)」とするのが正しいだろう。
途中の目録番号で、関連作品の全部が出てこないこともある。

長崎外の古写真考 目録番号:2635 伏見稲荷大社の千本鳥居(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2635 伏見稲荷大社の千本鳥居(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2635 伏見稲荷大社の千本鳥居(2)
〔画像解説〕
伏見稲荷大社境内南東側の稲荷山参道に2列に林立する朱塗の千本鳥居を、参道下から南東に望む。参道は同社境内東側の上御殿から南東方向に延び、稲荷山入口の命婦社に続く。写真は鳥居に記された年号から明治22年(1889)2月以降に撮影されたことが分かる。

目録番号:1108 伏見稲荷の鳥居

■ 確認結果

目録番号:2635「伏見稲荷大社の千本鳥居(2)」は、次の目録番号:1108「伏見稲荷の鳥居」と同じ写真である。〔撮影者:小川一馬〕となろう。タイトルの調整も必要。

長崎外の古写真考 目録番号:2368 アイヌの女性たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2368 アイヌの女性たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2368 アイヌの女性たち(1)
〔画像解説〕
3人ともに、かつて成人女性が行った口唇の文身をしている(彩色されず?)。耳には玉つきのイヤリング。両端の2人は、アップリケの上に刺繍を施した木綿衣を着用し、房つきの首飾りをつけている。前方中央には儀礼に不可欠なセット(和製漆器椀と捧酒箆)、右後方には木幣(inaw)がある。

目録番号:2369 アイヌの老人
〔画像解説〕
男性が儀礼の際に用いる幣冠(先端には何かの偶像つき)をかぶっている。アップリケに文様が刺繍された衣服を着用。さらに陣羽織を着て、右手に木幣を持つ(いずれも目録番号2368の右方にあるものか)。儀礼用の太刀(emus)を佩いている。儀礼の際の服装をイメージした写真。

目録番号:3014 アイヌの男性たち(1)
〔画像解説〕
左の2人は、木綿衣の上に毛皮のコートを着て、わらじを履いている。右端の男性は毛皮の背中当てをしている。いずれもすねには脚絆をしている。中央の男性(目録番号3910と同じ男性)は、帯のあたりにナイフの鞘(?)と煙草入れを提げている。

目録番号:3910 アイヌの男性たち(2)
〔画像解説〕
目録番号3014の中央の男性と同一人物だろう。同じ毛皮のコートを着ている。右手に持っている太くて長い棒、さらに左手に持っている短くて細い棒が何の目的に使われるものかは不明。

■ 確認結果

長崎大学古写真データベースの「アイヌ」関係作品。修正を要すると思われるもの。
1枚目の目録番号:2368「アイヌの女性たち(1)」、及び2枚目の目録番号:2369「アイヌの老人」は、同じ写真スタジオのような所で撮影されているが、ほかの「アイヌ」関係作品と同様、〔撮影地域:北海道〕として整理して良いのではないか。

目録番号:2369「アイヌの老人」は、古写真販売弘文堂HP「古写真 > 日本 | 幕末・明治・彩色古写真 アイヌの長老」に次のとおり説明している。
盛装して刀を差し伝統の宝物を手にしたアイヌの長老です。かなり古い写真のようです。敷物が幕末期の写真スタジオによく見られるものですが詳細は不明です。全体に経年の日やけがありますが写真は鮮明で台紙に貼ってあります。

3枚目の目録番号:3014「アイヌの男性たち(1)」は、古写真販売jp:HP「幕末明治時代 日本古写真 アイヌ」には、〔撮影者:スチルフリード〕として販売されている。
中央の男性が、4枚目の目録番号:3910「アイヌの男性たち(2)」と同一人と見られる。4枚目が〔撮影者:スチルフリード〕なら、3枚目も同じ可能性が考えられる。

長崎外の古写真考 目録番号:2360 火消し衆(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2360 火消し衆(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2360 火消し衆(2)

目録番号:4841 火の見櫓前に勢揃いした火消組
〔画像解説〕
鍛冶橋警視庁火の見櫓前である。火事の消化は警視庁消防本部の仕事だった。明治になり消防局が設けられた時、いろは48組の町火消を管轄下に置いた。明治7年警視庁が創設されると、彼らは警視庁の組織に組み入れられた。さすがトビ職、櫓に乗り、屋根に乗り、これだけの人数でもみな顔が写っている。初めて公式に出初式を行った明治8年(1875)1月4日と思われる。

■ 確認結果

目録番号:2360「火消し衆(2)」は、次の目録番号:4841「火の見櫓前に勢揃いした火消組」のとおり、東京「鍛冶橋警視庁火の見櫓」前ではないだろうか。
「さすがトビ職、櫓に乗り、屋根に乗り、これだけの人数でもみな顔が写っている」とあり、黄囲線の工作物?も同じである。
解説中の「火事の消化」は、「消火」の間違い。撮影年代は、同じ明治8年(1875)だろう。

目録番号:2360「火消し衆(2)」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/民具編 モースの見た日本」小学館2005年刊179頁にも、同じ写真が掲載されている。タイトルは次のとおり。解説はない。撮影年代は、「1890年頃」となっている。
414 火消し ca.1890

長崎外の古写真考 目録番号:2136 杉並木を行く駕籠 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2136 杉並木を行く駕籠 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2136 杉並木を行く駕籠

目録番号: 834 駕籠道中
〔画像解説〕
ここに見える駕籠は、山駕籠という粗末なもの。背景の杉並木は、日光か箱根のものであろう。駕籠の行列が、街道の道筋とは異なっているのが不自然である。恐らく撮影のための演出であろう。

目録番号: 211 箱根街道の駕籠道中
〔画像解説〕
箱根元箱根の杉並木に並ぶ山駕籠と雲助の行列で、何度も複製されて、箱根の雲助の写真として有名だが、最初の写真はネガ番号から日下部金幣の撮影と思われる。いかにも、土産用に作られた不自然な配列である。

■ 確認結果

目録番号:2136「杉並木を行く駕籠」と、次の目録番号: 834「駕籠道中」は同じ写真である。
2作品は、3枚目の目録番号: 211「箱根街道の駕籠道中」と同じような構図で撮影されている。箱根街道の風景ではないだろうか。杉並木は似ている。
撮影者は要調査。「日下部金幣」は「日下部金兵衛」か。横浜の弁天通に開設した写真スタジオが「金幣写真」。

長崎外の古写真考 目録番号:2121 日光東照宮(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2121 日光東照宮(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2121 日光東照宮(1)
〔画像解説〕
日光東照宮の奥社の拝殿右側から本社の拝殿や陽明門などを見下ろしている。奥社の宝塔には徳川家康の眠る神柩(しんきゅう)が納められている。画面手前に見えるのは本社拝殿の屋根。画面中央の杉の右側にある白い柱の建物が陽明門。右端は神輿舎(しんよしゃ)である。

目録番号: 88 日光東照宮外観
〔画像解説〕
奥社の杉並木の合い間より陽明門裏面を見る。 左に神楽殿、 右に神輿舎があり、 手前に拝殿の屋根がある。 陽明門の屋根は入母屋造りで四方に唐破風をつけている。 陽明門から始まる本丸の回廊は本社を囲み、 本社の裏手は石垣である。 その上に奥社がある。

■ 確認結果

目録番号:2121「日光東照宮(1)」は、次の目録番号: 88「日光東照宮外観」と同じ写真である。〔撮影者:日下部金兵衛〕となろう。タイトルの調整も必要。