月別アーカイブ: 2011年4月

西泊の石張りの川  長崎市西泊町

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西泊の石張りの川  長崎市西泊町

長崎市内にある三角溝や四角溝の石張りの川。布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生い立ち」長崎文献社2005年刊25頁の”石張りの川 シシトキ川”は次のとおり。
同著はそのほか、市中央部のいたる所や、浦上地区でも銭座天満宮入り口付近の街道ぞいに現存していることを記している。

…思案橋で電車を降りて「浜市商店街」のアーケードにはいり、中央橋のほうにむかって60mほど歩くと、アーケードの通りがS字型に軽く折れ曲がっている。ここがシシトキ川にかかる「橋」である。ここで右側(電車通りと反対向き)に折れてすすんでいくと、三番目の通りに出たところで、ようやく、川の姿を目にすることができる。
川幅は約2mで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅はせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などにもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

長崎港西部の港口「西泊番所」があった西泊町でも、写真のとおり規模が大きい、石張りの川を見ることができる。西泊バス停後ろ、広い永富パーキングなどの間を流れる川一帯。
西泊町は歴史がある町。「西泊番所跡」「佐藤家住宅」「海底線史料館」なども紹介する。長崎市都市景観HPによる説明は次のとおり。

№52 佐藤邸(国登録有形文化財)  西泊町8-22

佐藤邸は幕末から明治中期にかけて建てられた5棟の建物(主屋、木造家屋、石倉2)からなります。主屋は当時としては貴重なレンガを用いた建物で、倉は長崎ではめずらしい石積りでできており、質倉として利用されていました。幕末から明治にかけて西泊町発展の証しであり、象徴的な建物といえます。

№53 海底線史料館  西泊町22-1(NTTワールドエンジニアリングマリン株式会社敷地内)

西泊町には、明治以来今日まで海底通信ケーブル建設・保守の拠点となっている事業所があり、その敷地内には歴史ある赤レンガ造りの洋風建築が存在しています。この建物は、明治29年に陸軍省臨時台湾電信建設部の電源舎として建築され、110年余りの風雨に耐え抜いてきたもので、現在は「海底史資料館」として一般にも公開されています。
なお、2009年2月23日に経済産業大臣から「近代化産業遺産」の認定を受けました。世界中に張り巡らされた海底ケーブルによって高度な情報通信社会が実現するまでの様々な歴史が刻まれています。

四郎ケ島の草刈りツアーと風景  平成23年4月

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四郎ケ島の草刈りツアーと風景  平成23年4月

長崎港の港口、長崎市神ノ島町3丁目にある四郎ケ島は、江戸時代後期となり佐賀藩が長崎港警備のため、総力をあげて築いた台場跡である。台場として国第一級の史跡にかかわらず、事情があり指定されずにいる。
佐賀の人が史跡保存にかえって関心があり、このため今回も史跡見学を兼ねた草刈りツアーが実施された。

平成23年4月22日(金)、佐賀城本丸歴史館ボランティアガイドなど26人がマイクロバスで来崎、四郎ケ島の史跡見学と草刈りをした。午後は三菱長崎造船所史料館を見学している。
さがテレビも同行、取材していた。四郎ケ島は現在、発掘調査が行われており、中央広場では、遺跡のほぼ全容を見ることができる。
長崎の連絡役江越先生の手伝いで、私たちも参加したが、朝から雨だったので長崎の参加者は5人だった。

長崎の西空の夕日  11−03

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長崎の西空の夕日  11−03

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成23年 3月26日の18時32分頃
写真  4      平成23年 3月29日の17時17分頃
写真  5〜 8  平成23年 4月 6日の18時36分頃  
写真  9〜10  平成23年 4月20日の18時42分頃

「まぼろしの石橋」が姿現わす(2)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

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「まぼろしの石橋」が姿現わす(2)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

2011/04/21 10:48 の状況。石橋のアーチが浮きかけている。水位目盛板をアップ。
(1)は、 https://misakimichi.com/archives/2666

長崎の古写真考 目録番号:なし 長崎港遠景

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:なし 長崎港遠景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:なし 長崎港遠景  〔撮影者:F.ベアト〕

■ 確認結果

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1−幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊124頁に掲載されている「159.長崎港遠景」。長崎大学のデータベースには収録されていない。
写真集の解説も、長崎港の歴史だけふれ、撮影場所を説明していない。

この作品について先日、古写真考のある記事に、次のコメントによる質問を受けている。
ベアト写真集「159.長崎港遠景」で、手間側の陸地はどの辺りでしょうか? 2011/4/14(木) 午前 8:11 [ 恵夢 ]

遠くの山は、高いのが烽火山、低いのが武功山である。右端は風頭山の一部だろう。
それら山の稜線と、手前の三菱重工長崎造船所側の当時の岬を合せると、現在の岩瀬道町八軒家バス停の上部あたりから撮影した写真と思われる。
この岬に三菱重工本社ビルと迎賓館占勝閣場ができ、下の入り江に第二ドックができている。
最後の写真は、西立神町の「NTTドコモ西立神基地局」近くへ行って写したが、ここでは少し違うようである。

長崎外の古写真考 目録番号:2110 山間の民家

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2110 山間の民家

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2110 山間の民家

目録番号:5044 箱根街道(3)
〔画像解説〕
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信柱が見え、明治6年(1873)の東京・長崎間の電信敷設後のものと分る。

■ 確認結果

目録番号:2110「山間の民家」は、次の目録番号:5044「箱根街道(3)」のとおり、松並木の街道で、背景の山の重なりと特徴的な大萱葺の家から、神奈川県足柄下郡箱根町湯本山崎の風景と思われる。

長崎大学のデータベースには見当たらないが、ベアト撮影の「view on the tokaido」もあるので、次の記事も参照。資料は前のを再掲。 https://misakimichi.com/archives/2623

実はこの古写真は、HP「OLD PHOTOS of JAPAN」に掲載されていた。〔撮影者:江南信國〕となる。同解説は次のとおり。

1890年代の箱根 • 田舎道
タグ: 江南信國 • 明治 • 箱根 • 田舎 • 眺望
箱根の湯本にある三枚橋の辺りの田舎道の美しい眺め。道路に立っている子供達、女達、農夫たちや旅人達の関心が、この写真を撮った榎波信国に集まっている。皆明らかに興味深々である。箱根は神奈川県にあって横浜から遠くなく、当時も今も温泉保養地として人気がある。三枚橋は早川にかかる木の橋で、小田原と箱根の間の東海道上の重要な宿場だった。

この写真は、江南信國が箱根一帯で撮影した約40枚の写真の内の一枚。テリー・ベネットの
「Old Japanese Photographs: Collectors’ Data Guide」によると、榎波が撮った三枚橋という題名の写真はもう一枚あり、その番号は21番である。
この細部を見ると、この田舎道に色々な人々がいるのがわかる。
グーグルの地図では、現在の三枚橋の場所はわかるが、この写真を撮った正確な場所を確かめることは未だできていないので、確かな情報をいただければ大歓迎である。

長崎外の古写真考 目録番号:1893 川遊びをする娘たち

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1893 川遊びをする娘たち

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1893 川遊びをする娘たち
〔画像解説〕
振り袖姿の3人の女性が平船にのって舟遊びをしようとしている。岸と船との間は一枚の板が渡されている。恐る恐る板の上を渡る女性。

目録番号:2610 鴨川の床の夕涼み(3)
〔画像解説〕
鴨川四条大橋西詰南側の床の上で夕涼みに興じる舞妓・芸妓を撮影する。舞妓・芸妓のうち、左側の2人は盃で酒を酌み交わし、右の2人は拳遊に興じている。床の上には行灯や煙草盆が置かれる。背後には鴨川東岸の町並みが続き、五条大橋が見える。写真は京都の観光絵葉書のために撮影されたものであろうか。玉村康三郎撮影。

■ 確認結果

目録番号:1893「川遊びをする娘たち」は、どう見ても京都鴨川の光景だろう。次の目録番号:
2610「鴨川の床の夕涼み(3)」のとおり、奥に見えるのは「五条大橋」ではないだろうか。大橋中央後方の立木?や背景の山並みが似ている。
なお、目録番号:2610「鴨川の床の夕涼み(3)」は、〔撮影者:玉村康三郎〕となろう。

轟の滝上流のヒメシャラ見学と多良岳へ 平成23年4月

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轟の滝上流のヒメシャラ見学と多良岳へ 平成23年4月

平成23年4月17日(日)曇り。轟の滝上流のヒメシャラ見学と多良岳(標高996m)へ。参加
10人。みさき道歩会の例会。
轟の滝上流大渡橋9時発ー奥地原生林ー小松尾公園ー金泉寺11時着ー多良岳12時着(昼食)−前岳13時着ー六体地蔵ー金泉寺14時20分着ー大渡橋15時着(徒歩距離 約12km)
諫早市高来町、轟の滝奥地原生林のヒメシャラ・イロハモミジなどは、本年1月の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2486

長崎を車2台で7時30分発。諫早の長田バイパスを通って轟の滝へ。上流の林道終点「大渡橋」に車を置いて、多良岳一周コースにかかる。すぐ左の沢のヒメシャラ橋を渡った一帯が奥地原生林。5分ほどで本日の目的、幹囲1.75mのヒメシャラ(推定樹齢150年)と対面する。
奥の登山道を40分登ると、小松尾公園の多良岳グリーンロードへ出る。金泉寺までさらに1時間、浄財で新装なった金泉寺と県営山小屋に11時に着いた。「多良岳」(標高996m)山頂にちょうど12時着昼食。登山者は多かったが、春霞みで景観がきかない。

午後は、前方のピーク「前岳」(標高983m)へ向かう。途中、座禅石と鬼の岩屋がある。前岳からも有明海は望めなかった。鞍部へ戻り、山腹道へ急下り。右へ行くと太良町重要文化財「石造 地蔵菩薩立像六体」が大崖の下にある。
山腹道は多良岳登り口鳥居の分岐に出る。金泉寺の水を汲み、轟の滝沢沿いの別な道を下山する。下りはグリーンロードまで10分、大渡橋までは30分かかって、車へ戻った。
いこいの村経由で小長井へ出、諫早湾干拓直線道路7kmを通り、愛野から長崎へ帰った。

宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/27635384.html

「まぼろしの石橋」が姿現わす(1)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

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「まぼろしの石橋」が姿現わす(1)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

長崎市本河内町にある。ダムの底から渇水期にだけ姿を現していた「まぼろしの石橋」。長崎市指定有形文化財に指定された。この石橋も平成18年春の新ダム完成により、ほとんど見ることはできなくなった。

その名のとおり「まぼろし」となった石橋。しかし、今までもこれからも、貯水池の中にたしかに存在する。石橋のHPによると、長さ8.0m、幅員2.8mの橋。
季刊「Web旅ムック」2007晩秋号 Ⅴol.7の16〜17頁の特集「石橋の旅 第4回」の記事は、 https://misakimichi.com/archives/405

何とこの「まぼろしの石橋」が、本河内高部貯水池できょう、上部だけではあるが写真のとおり見えていた。低部貯水池の改修工事が完成したため水を抜きはじめたのではない。ただ渇水のためとのことである。本河内高部貯水池の水位が今、非常に低くなっている。

石橋に関心がある方は、めったにない撮影のチャンスだろう。国道34号線「妙相寺入口」から入る。新日見トンネル高架橋の下あたりに石橋はある。
「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。

本河内高部貯水池内石橋   市指定有形文化財
指定年月日:昭和53年12月20日  所在地:長崎市本河内3丁目 本河内高部貯水池内
一の瀬川の上流、妙相寺川には、自然石で築いたアーチ石橋が数多く見られた。これはその一つで、明治22年(1890)に造成された水源地にそのまま水没し、現在まで遺ったものである。石の隙間には小石を充填(じゅうてん)し、橋面には土かぶりを施したと思われるが、水没中に洗い流され、現在は骨格的石組だけとなっている。平時は水中に没し、渇水時にだけ姿を現わす。架橋の年代は不詳であるが、明治2〜3年(1869〜70)頃現川の住民が、本河内の野石造りアーチ石橋を真似て、現川にも架けたという記録があるから、恐らく幕末期のものであろう。

長崎外の古写真考 目録番号: 793 長崎の庭園

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 793 長崎の庭園

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 793 長崎の庭園
〔画像解説〕
ベアト撮影。「長崎近くの森の飛び石と橋、66年1月」と書かれているが、これは

■ 確認結果

目録番号: 793「長崎の庭園」は、画像解説が「これは」で書きかけ終わっている。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2−外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊の40頁には、タイトル「55.江戸の庭園」としてある。
上記の画像解説は、これを書きかけて終ったのだろう。横浜開港資料館編のタイトル「江戸の庭園」が正しいと思われる。ベアトのメモが記憶違いか、写真が入れ替わっていたのではないか。