「みさき道」歩き 秋の草花 平成19年11月
「みさき道」を蚊焼から脇岬観音寺まで歩く。平成19年11月25日撮影。
「みさき道」歩き 秋の草花 平成19年11月
「みさき道」を蚊焼から脇岬観音寺まで歩く。平成19年11月25日撮影。
ダイヤランドの開発前と下方の道の地図資料・写真はないか
小ヶ倉源右衛門茶屋から土井首大山祗神社前までの区間の道の状況は、次の地図資料によって第1集から説明している。
① 文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」 長崎;歴史文化博物館蔵
② 明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
ダイヤランドは広大な団地開発が昭和56年起工し、昭和59年4月から販売を開始した。当時の道跡はたどれない。長崎バス終点下に山道が残る。この下方の道は、実際に歩いて異論を感じる方もおられるかも知れない。
今回はそのため前の2資料と別に、手元に持っている次の2地図資料を掲載してみる。説明は省略したい。よく見ていただきたい。どの地図を見ても、今歩いている道しか考えられない。この道は6年ほど前、地元の磯道中山秀雄氏が「殿様道」と中島先生へ教えてくれた道である。④による「市道磯道第7号線」となる。
③ 明治17年(1884)測図同27年製版 軍事機密 長崎近傍ノ六 陸地測量部「深堀村」
④ 昭和25年(1950)3月測図 昭和44年5月印刷 中庭測量株式会社調製
長崎市 1:10000 都市計画図「長崎市認定道路網図(茂木〜小ケ倉、土井首地区)」
なお、ダイヤランド地域全体の開発前の姿を写した航空写真は、先項において小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」(昭和53年)から載せていたが、今回また貴重な写真が見つかった。
ダイヤランド3丁目山下雄氏の協力によるもの。同団地2丁目自治会が2年前発行した会報に、昭和56年(1981)3月(着工前)の詳細な航空写真があった。また、同氏は当時、自分が写した2枚の写真を所持されていたので、ここに載せてみる。
長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ” 平成19年11月
平成19年11月25日(日)実施。参加者はスタッフとも38人。「みさき道」の後半コース。
午前9時30分三和行政センター前広場集合。蚊焼峠ー永一尾ー徳道ー野母崎ゴルフ場コース管理事務所(昼食)ー延命水ー高浜ー古里ー堂山峠ー脇岬観音寺まで約15kmを歩く。午後4時着解散。
今日も快晴。春からの学さるく行事はすべて天気に恵まれた。「みさき道」の道塚7本、郷路八幡・妙道尼信女墓・延命水など珍しい石碑を多く探訪し、美しい長崎半島の海の景色が広がった。高浜公民館の講座も23日あり、草刈りが完全に行われていて歩きやすく、予定より早く観音寺へ着いた。今回も参加者のスナップを多く紹介する。(大塚氏画像も含む)
1月2日は恒例の新春「みさき道」初歩き。岬木場より殿隠山・遠見山のコースとなるので、希望の方はまた参加ください。
深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」
当山卅四世 普山結制記念発行の資料から抜粋。寺の沿革によると、創建は建長7年(1255)。鎌倉幕府の御家人、当地領主三浦能仲によって建てられた。現在は曹洞宗の寺。歴代住職が長崎半島近郊の主な寺、観音寺(脇岬)・宝性寺(為石)・円福寺(香焼)・天福寺(樫山)・地蔵寺(蚊焼)・円通寺(伊王島)などを開山や復興した。
深堀鍋島家の菩提寺で同家の墓地や、赤穂浪士が討ち入りの参考としたとも伝えられる「長崎喧嘩騒動」の深堀義士墓碑などがある。
長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ” 平成19年11月
平成19年11月23日(祝日)実施。参加者はスタッフとも24人。「みさき道」の前半コース。
午前9時新地湊公園集合。十人町ー二本松ーダイヤランドー土井首大山祗神社(昼食)ー深堀ー女の坂ー大籠ー三和行政センターまで約17kmを歩く。午後4時30分着解散。
汗もかかない秋晴れ。柚の新種「ゆうこう」が色づいていた。深堀菩提寺では住職自らの説明があった。今回は参加者のスナップを多く紹介する。(大塚氏ら撮影)
後半コース、蚊焼ー脇岬観音寺間は25日に実施予定。
「一ノ間路」はどこか。江川河口へは柳田回りか、網代回りか
A 「一ノ間路」はどこか。測図上の「間路」の定義
平成16年11月国土地理院測図部管理課へ電話照会。測図上の「間路」の定義である。
国土地理院 「地形図の測図実行法」 明治44年作成 図式の適用の部
第4編 道路・鐵道・境界
道 路 國 道
縣 道
里 道
達 路(たつろ) 著名な居住地を連絡するもの。著名な居住地から國道、縣道又は達
路から分岐し、数村落を貫通するもの。
聯 路(れんろ) 相隣する居住地を連絡するもの。
間 路(かんろ) 連路に存する小路網とする。
小 徑
広辞苑による、かんどう〔間道〕は ①わきみち。ぬけみち。②⇒かんとう(間道)←→本道
明治34年測図「深堀」による土井首辺りの間路は、次のとおりである。
1 唯念寺先公園前から四つ辻に至る山道入口の人家まで
2 網代先切通しから江川に至る毛井首、平瀬の浦道(文久元年古地図は道なし)
3 土井首中からマリンセンターに至る現在の車道沿い
B 江川河口へは柳田回りか、網代回りか
佐賀藩深堀領に、こういった深堀道の歴史資料があればと、本当に願いたい課題である。深堀の殿様道が街道と言えるが、佐賀藩主の下向や深堀領主の長崎との行き来は、他藩と違い全て船であったろう。殿様道と言ってもそれは番所・台場の見回りと領内巡視の時、高台に上って村を望見し説明を受けることもあったようである。(平氏「肥前国深堀の歴史」ほか)
江川へ柳田回りか、網代回りか。これは両方考えられる。関寛斎が記述した「一ノ間路」「小渚」「迂路」を関連づけてさまざま考えてみるが、史料がなくどうしても確定できないでいる。「関寛斎日記に表れた地名等の特定と解釈」では、一番楽で近道となる土井首小学校から江川へ行く今のバス道沿い(土井首支所のところは川沿いにノア動物病院から林兼車検センター裏を行ったようである。)を、皆が納得できる道ではないかと紹介した。
この道は明治18年「西彼杵郡村誌」の土井首村とも深堀村とも何の記述がないのが、かえって「間路」と思われる。網代回りは平瀬が断崖であるので、当時はどうしても遠回りとなる。
同「西彼杵郡村誌」にある土井首村の「平瀬村路」が字法城方(放生がた 磯道団地)より西に折れず、シューズ前国道まで行き反対側右手の竹林の山道に入り、鶴見台の白百合荘前を通りジョイフルサンの裏手の字小名切に出たのであったら、これとしたいとも考える。ここも小径がある。土井首でもそういった説がある。
同村誌にある街道筋の竿ノ浦村界にある「柳田」とはどこであろうか。学校前がバス停の「南柳田」というももの、実際は長崎市土井首支所やコープ長崎南部支所も柳田町である。そして現在の江川町のジョイフルサンまで川向いは字「柳田」であるので困っている。街道は竿ノ浦村の樫永迫に入る。
大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りと京太郎背後の山越えは
A 大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りとはなにか
ここは「みさき道」コースの最重要地点である。現在の鹿尾橋は川幅が広く、鹿尾川はこの地点でないと渡れない。関寛斎日記は「下リテ一湾ニ出テ岸上ノ危岩ヲ渡リ一ノ間路ヲ行ク」と記す。
大山祗神社は、前は唯念寺先の公園の所にあった。昭和15年現在地に移転し、平成13年地区の寄付を募って社殿を再建しているが、古祠は奥の方にずっと昔からあった。
この鳥居前が「渡り地点」に間違いない。右岸が岩が多く、この奇岩を捲いて鳥居前に渡ったのではないだろうか。流れの中に大きな石があると洪水が心配なほどである。しかし、ここは明治
18年「西彼杵郡村誌」に「渡瀬」とあり、明治34年国土地理院旧版地図でも「渡渉所」である。
当時においては、関寛斎日記のとおりであり、角川書店「日本地名大辞典」のいわゆる渡船「渡し場」とは考えられない。角川は古道町の項で次のとおり紛らわしい書き方をしている。
「土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという」。
これは「渡り場」の単なる誤字ではないか。「柳渡シ」の記録「磯道ノ海岸」もまだ下流であろう。
B 京太郎の背後の山越えはどう考えるか
角川書店「日本地名大辞典」の古道町の項にこの記述があり、土井首の人がそう言う「現在の杠葉病院分院へ上って草住へ下った」いわゆる殿様道のコースである。
なぜ高く登り遠回りしなければならないのか。川岸沿いにちゃんとした古道が描かれている。私たちは歩いた感じと、いろいろ地図・文献を当り当時の集落の形成からも、どうしても納得されないでいる。一昔前の古道と考えられないことはないが、地元の地名・古道の研究者、故真鳥喜三郎氏の著書からいってもそうは取れない。
土井首村だけなぜ「みさき道」のコースがわかったか。全国的な権威のある辞典だけに、他の著本にも引用されており、地元でなんとか史料によって考証してほしい。京太郎は今の町でなく三和町の字にもある。鹿尾川の「渡し場」の表現解釈やいわゆる「古道」はどこかとも課題となっている。
ここでは、国道から現在の杠葉病院分院へ上る登り口の岩に盗賊が潜んで、旅人を襲ったという伝説(言い伝え)があるらしい。それは両方のコースを通っても有り得ると思われる地点の岩である。
長崎公園のトックリノキ 長崎市上西山町
長崎公園は諏訪神社のあるところの公園。日銀長崎支店の裏から丸馬場へ登る遊歩道脇にある。現地説明板は次のとおり。
この木の根元には「寄贈者 長崎市松原町出身 松田八百吉氏 上海で造園業を営んでおられた同氏より昭和7年長崎市へ寄贈された」と小さな表示文があった。
市指定天然記念物 長崎公園のトックリノキ(別名ボトルツリー)
指定年月日 平成16年6月3日 所在地 長崎市上西山町1番地1 所有者 長崎市
トックリノキ(別名ボトルツリー)はオーストラリア、クインズランド州原産のアサギリ科の高木であり、学名は、Brachychiton rupestris Tree(ブラキシトン・ルペストリア)といい、オーストラリアでは公園などにふつうに見られる。
この木は、昭和7年に上海から長崎へ運ばれたものであり、トックリノキとしては日本に持ち込まれた中で最も古い。現在では日本においても各地の植物園に栽培され、まれなものではないが、屋外でこのように大きく育っているのは珍しい。
昭和初期の長崎ー上海間の交流を示す一つの証拠として、歴史的な価値がある。
長崎市教育委員会(平成16年11月設置)
長崎の幕末・明治期古写真考 (1)
朝日新聞長崎地域版、毎週火曜日の紙面に「長崎今昔 長大写真コレクション」と題し、長崎大学附属図書館が所蔵する長崎の幕末・明治期古写真がシリーズにより紹介されている。
なかでも私が関心を持って見るのは、長崎の風景を写した古写真である。背景の山の姿など考え、カメラをどこに据えたのか。撮影地点などを特定したいためである。このため、できるかぎり現地調査をしている。
上の記事は、平成19年11月13日付「長崎奉行所跡と官立師範学校」。説明文は「聖徳寺(銭座町)から写した」としている。立山はここから見えない。「聖福寺(玉園町)あたり」が正しい。新聞社へ電話すると、大学自身朝から誤りに気づき、訂正の連絡が入っていた。次の紙面の末尾に訂正文が載った。
次は、この翌週11月20日付「稲佐の和船」。説明文は「三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街付近を撮っている」。元治元年頃、英人F.ベアトの撮影したもの。タイトルは以前は「和船」で、撮影場所不祥とされていた。
この写真は私も今春に現地調査し、研究レポート第3集によって報告した。本ブログでも7月28日この項をすでに載せている。大学もこれら報告を参考に、具体的で正確な撮影地点の説明になったと思われる。(当時の地形絵図は、松竹秀雄著「稲佐風土記」から私が修整作成)
新聞のシリーズは8月初めにも間違いがあった。「外国人の野外パーティ」の写真は、「神の島あたり」から撮影と説明していたが、パーティは「鼠島」(皇后島)の野外高台広場に布を敷いて開かれた。鼠島は当時、外国人遊歩が許された島である。写真の背後に写る島は、高鉾島と奥は香焼島・伊王島の瀬戸と島。
向きを変えた別写真には、鼠島高台から見た八郎岳尾根が写されている。同種のパーティに分類しているもう1枚は、これは鼠島でなく南山手グラバー園入口坂道ではないだろうか。
長崎大学附属図書館が所蔵する「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」は、誰でもインターネットにより見られる。興味ある人はこれを開いてほしい。ただ残念に思うのは、上野彦馬を生んだ古写真の発祥地で数多くの収蔵写真を持ち、文部省補助を受けて作成した全国に誇るコレクションであるのに、監修がよく行き届いてないようだ。前にも見たとおり間違いが少なからずあることである。
長崎の500枚を越える主な写真を私が今春インターネットで確認したところ、撮影場所のタイトルや説明に明らかな間違いがあると思われるものが25点以上あった。地元の人間がこういったことはしっかり調査しなければと、私が現地の確認写真を添え研究レポートにまとめ、大学へ4月から知らせていたが、対応は遅かった。8月頃やっと修正されている。
長崎市立古写真資料館(東山手町)のものも同じであった。有料であるのに、例えば「野母崎樺島湊」の写真を「大浦海岸」と説明し展示してあったのには、私でさえ困惑を覚えた。
長崎浜屋イベントホールで11月、長崎大学附属図書館新収古写真展「写真術の渡来と初期写真家たち」が開かれた。最終日の18日午後に会場へ行った。日曜日で参観者はひっきりなし多かった。新しく収蔵された古写真が61点展示されていたが、私の見たかぎり6点あまりは、またタイトルや説明に首をひねらざるをえないものがあり、会場の大学担当者へ知らせておいた。
この記事は具体的な写真の指摘や掲載を控えた。このような苦言はあまり望むことではない。今後は関係者の方で十分な注意をはらい、現地で可能なかぎり検証し、再監修をお願いできればと思う。
水準点が乳神様になった? 山岡光治氏著「地図に訊け!」ちくま新書から
山岡光治氏著「地図に訊け!」ちくま新書56〜58頁から、水準点の面白い話を以下のとおり。全国の場所はわからないが、水準点が「乳神様」として拝まれている。もちろん古い標石の話だ。
頭部のあの丸みをおびた突起が乳房を連想させた。なんの石かわからず、子授け・安産・乳の出がよくなるような神様としても崇められることとなったのだろう。
この型の古い標石は、長崎にも2地点で見てる。深堀有海の森節男氏宅中庭と南山手グラバーヒル入口近く自動販売機の裏に、写真のとおり忘れ去られてある。現行地形図で今も位置が表示され、現役として使用されている。深堀のは明治34年測図の国土地理院旧版地図から水準点がある。
● 水準点が乳神様になった?
本題にもどって、高さについても三角点と同様に日本水準原点だけからその都度地図整備地域の測量を進めるのでは非効率だから、あらかじめ日本水準原点を基点とした標高が明らかな基準点(三角点や水準点)を各地に設置して測量に使用する。
水準点の高さは、日本水準原点を基にして直接水準測量によって高さが求められ、その水準点標石は国道筋に約二キロメートル間隔で設置されていて、日本全国に約一万八千点ある(水準点は、正確な位置の情報はもっていない)。では、三角点の高さはどのようになっているかというと、地形条件によって水準点から直接水準測量(図—18)、あるいは間接水準測量(図—19)によって求められる。
日本水準原点から始まる各地の水準点は、三角点と同様に陸地測量部が測量し、標石を設置してきた。水準点が設置されている敷地は一坪にも満たない狭いものであるが、そのほとんどは土地の買い上げも行わず、しかも土地借り上げ料といった補償もなしに、お上が強権で公・私有地に設置してきた。そして地元では「けっして、動かしてはならない」、あるいは「大切に保存しなければならない」と固くいい伝えられた。
その結果、設置当初は国道脇にあった標石が、時間の経過によって畑の中や一般住宅の敷地内、あるいは玄関先や畜舎の中になる例も珍しくなかった。どんな状況になっても、頑として元の位置に存在する。手が加えられなかった結果、同一地点での長期継続した地殻変動が捉えられるから、「動かしてはならない」といういい伝えは、まんざら無意味ではない。また、設置場所によっては開発の手が及ばない旧道脇の畑の中、使われなくなった山中の旧道近くに存在することになって、設置以来まったく測量に使われなかったと思われる水準点標石もある。最新の地形図には記載されていないが、北海道石狩市の旧雄冬峠、標高約千メートルや栃木県日光市・福島県檜枝岐村境の旧引馬峠、標高約千八百メートルなどにも設置された。
さて、地図でも測量でも、間違いほど面白いものはない。残念ながら収集したスクラップを散逸してしまって、所在情報も含めて確かな様子は分からないので私の記憶であるが、次のようなほのぼのとした話がある。
とある小道の傍らの石に賽銭が積まれ「乳神様」といい伝えられていた。だが、実は水準点標石だった。標石が、妊婦に拝まれるありがたい石になったのだ。標石頭部の特徴的なふくらみが乳房を連想させたのだろうか。若い女性が願いをこめて触れた乳房のような頭部は、身代わり地蔵のようになでなでされているのだろう。その水準点標石の頂は、時間とともに丸みが穏やかになり、今は標高が低くなっているかもしれない。