月別アーカイブ: 2007年11月

西山神社の寒桜とザボンの木  長崎市西山本町

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西山神社の寒桜とザボンの木  長崎市西山本町

長崎聖堂の学頭で唐通事であった盧草拙(ろ そうせつ)が、自宅に祀っていた北辰と妙見の星像を、自分の所有地の西山郷に妙見社として建立することを長崎奉行に願い出て享保4年(1719)に創立した。以来、里人に星の神様『妙見様』として親しまれてきたが、明治の神仏混淆禁止令によって祭神を変え、西山神社となった。

境内には寒桜(元日桜 市指定天然記念物)や日本最初のザボンの木(恐らく子孫)がある。このザボンは、寛文7年(1667)にジャワから持ち込まれたもので、草拙がその種をまいて見事に育てたものと言う。
なお、草拙は延宝3年(1675)生まれであるから、ザボンを植えたのは、父の草碩であったと思われる。草拙は儒学者であるとともに天文学にも詳しく、享保3年(1718)には有名な西川如見とともに江戸城に招かれ、将軍吉宗に天文学の講義をしている(江越弘人氏「西山街道歴史散歩」資料から)。

西山神社は、長崎市西山本町にある。現地説明板は次のとおり。ザボンの木で東側高台にあるのが三代目と思われる樹の写真である。
なお境内には、長崎の名水の一つ「椎の木の水」と、昭和61年沖縄からの苗木で育てた「沖縄の緋寒桜」もあった。

市指定天然記念物  西山神社の寒桜
指定年月日 昭和49年6月18日  所有者 西山神社
寒桜(カンザクラ)は、名前のとおり真冬に咲く。普通、2月上旬頃から全開の淡紅色の5弁花が咲き始める。花期が珍しい桜の一種である。
このカンザクラは、樹高7m、胸高幹囲1mで、明治30年(1897)植樹のものである。開花期がカンザクラのなかでも特別に早く、1月上旬には開花し、2月上旬には終わる。
カンザクラには野生がない。このサクラの形質などから、カンヒザクラ(寒緋桜)とヤマザクラ(山桜)の自然交雑の里桜という説が有力である。
長崎市教育委員会  (平成元年3月設置)

ザ ボ ン の 木

この神社を建てた、長崎聖堂の学頭で唐通事であった盧草拙(ろ そうせつ)に、寛文七年(一六六七年)ジャワから持って来たザボンの種子を、唐船船長・周 九娘より渡され、神社の境内にその種子を播いたところ見事に成長し、その元木の種子が各地に播かれ長崎近郊は勿論島原半島・鹿児島地方まで産出されるようになったが、このザボンの木は元木の四代目である。なお、三代目の樹がこの家の裏に枝を張っている。
妙見宮 西 山 神 社

出島和蘭商館跡のデジマノキ  長崎市出島町

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出島和蘭商館跡のデジマノキ  長崎市出島町

国指定史跡「出島和蘭商館跡」は、1636年(寛永13年)、江戸幕府がポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために造った扇形の人口島。その後、鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止されると、空家となった出島に平戸からオランダ商館を移し、1859年(安政6年)までの約220年間、鎖国時代における西洋に開かれた我が国唯一の窓口として大きな役割を果たした。
現在復元整備計画が進む出島では、2006年(平成18年)にカピタン部屋・乙名部屋・水門など5棟が新たに完成。出島誕生のいきさつをはじめ、出島での生活や貿易品、日本と西欧の国際交流の舞台として活躍した出島の姿などが展示されている(県観光連盟ながさき修学旅行ナビから)。

デジマノキは、長崎市出島町の「出島和蘭商館跡」敷地内、東側ゲートの方にある。現地説明板は次のとおり。2001年秋の正式調査では、高さ15m、幹回り2・25mとなっている。
この近くの旧内外クラブの建物が今、無料休憩所となっている。古写真が展示され、昭和9年の外観写真を見ると、右端に写っている木が当時のデジマノキであろう。
外山三郎氏が昭和38年に「植物研究雑誌」に紹介し「デジマノキ」と名づけた。

県指定天然記念物  デジマノキ 

デジマノキ(和名コパールノキ)は、東南アジアに分布するナンヨウスギ科の常緑高木で、学名はアガチス・ダマラ(Agathis dammara L.C.Rich)といいます。この木は、オランダ人が東洋貿易の根拠地としたジャカルタ(旧名バタヴィア)から幕末の頃にこの地に移植したもので、日蘭交流の貴重な記念樹といえます。
指定年月日 昭和41年4月18日  所有者 長崎市

富川渓谷のカツラ  諌早市富川町

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富川渓谷のカツラ  諌早市富川町

諫早市の中心街から北におよそ12km。多良山系の奥深く入った本明川の一支流に富川渓谷がある。富川の森林は、豊富な植物群が自生し自然環境も美しく、「諌早の奥座敷」として親しまれている。
富川渓谷には、元禄時代の大洪水、大旱害を契機に、天下泰平と死者の供養を祈願して岩肌に刻まれた県指定史跡の五百羅漢がある。磨崖仏としては、県下随一のものといわれている。不幸にしてまた昭和32年7月25日、1日900ミリ以上という集中豪雨により539人のいたましい犠牲者を出した諌早大水害もここが源であった(市HPから)。

県指定天然記念物「富川のカツラ」のある所は、渓谷からさらに700mほど森の吊橋や右岸・左岸の遊歩道を伝いながら登る。上部の林道と出合い、万年の森入口となる富川橋のたもとに説明板が建ち、カツラの木が橋上から見える。現地説明板は次のとおり。

県指定天然記念物  富川のカツラ  昭和40年5月31日指定

カツラは北日本系の代表的な落葉高木で、白樺などと共に繁茂していますが、県内では多良山中に自生しているのみです。
このカツラは根回り8〜9m、高さ約10mを測り、諌早のような比較的暖かいところに自生し、しかも、このように大きくなっているのは大変珍しいことです。
根元から多数の若木が萌え出ているところから、地元では「千本木」の名で親しまれています。
このカツラの若木をとったり、傷をつけたり、また火災を出したりしないように大切にしましょう。
長崎県教育委員会 諌早市教育委員会 平成5年3月建

なお、長崎県生物学会編「多良岳の生物」2001年刊57〜59頁に宮崎正隆氏稿「多良山系の巨樹・巨木」がある。この中の説明は次のとおり。

Ⅲ.諌早市富川のカツラ

県指定天然記念物(昭和40.5.31指定)    幹周り7.55m、樹高11m
根元から多くの幹が生えているため、土地の人はこの木を千本木といい、この千本木がこの土地の地名にもなっている。カツラは北日本の代表的な落葉高木で、県内では多良山中に稀に自生しており雲仙には自生しない。暖かい九州の西限に分布し、しかもこれほど大きくなっているのは大変珍しい。  

諌早公園の大クスと高城回廊の巨樹  諌早市高城町ほか

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諌早公園の大クスと高城回廊の巨樹  諌早市高城町ほか

諌早公園一帯は、諫早市城山暖地性樹叢として国指定天然記念物に指定されている数十種の暖地性植物に覆われた緑豊かな丘陵地である。
公園内には、樹齢600年を越すクスの大木や本明川から移築された国指定重要文化財の眼鏡橋、郷土の詩人伊東静雄の詩碑などがあり、静寂した雰囲気の中に歴史が感じられる。春に公園を埋めて咲き乱れるつつじは壮観である。
御書院は諫早家初代龍造寺家晴公が構築した。桃山様式の池泉回遊式庭園として、心字池を中心に、太鼓橋や月見灯籠は昔を偲ばせる。長崎県にこのような本格的大名庭園は一つしかない。高城回廊は諫早小学校跡地から市役所、高城公園、諫早公園周辺を一周する約1.8kmの情緒豊かな散策路である。(県・市HPから)

県下3番目という大クスは、諌早公園の一番高台の広場にある。現地説明板は次のとおり。高城回廊は市役所前まで歩き、目についた巨樹も写した。

国指定天然記念物  諌早市城山暖地性樹叢

諌早公園は本明川南岸に位置する周囲1kmの丘陵で、西郷氏(中世の諌早領主)が「高城」を築いたことから「城山」とも呼ばれます。のちの領主竜造寺氏(2代目から諌早姓を名乗る)が引き継ぎ、大正10年に公園化されました。
低海抜地域の原始的自然が良く残っている点で価値が高く、丘陵全体が昭和26年に国の天然記念物に指定されました。スダジイ・ヤブツバキ・アラカシ・ハマセンダンなどの常緑樹が数多く自生し、山頂部の広場付近には、ヒゼンマユミ(市の木)・ミサオノキなど希少種の群生や県下最大級のクスノキがあります。クスノキは目通幹廻り11.6m・樹高29.5mを測り、樹齢は600〜800年とも言われています。諌早のシンボルとして、市民に親しまれています。
豊かな自然だけでなく、国の重要文化財の眼鏡橋、くじら橋、高城・藤原明神、亀の塔(がめんとさん)、土塁や空堀、犬走りなど城に伴う遺構も残っています。平成元年(1989)には「日本の都市公園100選」に選ばれました。
平成13年11月 諌早市教育委員会

森山西小学校のアベマキ  諌早市森山町下井牟田

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森山西小学校のアベマキ  諌早市森山町下井牟田

島原鉄道沿いの国道57号線を行く。森山駅前を過ぎ、市立森山図書館やスポーツ交流館のある所へは川沿いに新道ができている。この図書館の裏手に森山西小学校と中学校がある。この辺りは昔は「鳥嶋」という。鳥類が多く、巨木が茂る島があったところ。周りは海を埋め立ててできた。小学校の正門側に「鳥嶋記念之碑」がある。学校の前身は、明治6年設立。
アベマキの独立大木は校庭隅に立つ。明治30年学校関係者が台湾から持ち帰り植えられた。近くに残るクスノキに勝って枝を広げている。現地説明板が次のとおりそれをよく記していた。

森山西小学校の「アベマキ」  長崎県指定天然記念物

この「アベマキ」は、明治30年本校職員であった内田格氏が、台湾から持ち帰り植えられました。樹齢110年。「ブナ科」の落葉高木。この種の独立大木は、九州では珍しく文化財としての価値が極めて高いとされ、昭和56年3月、県文化財審議会において、長崎県指定文化財「天然記念物」として登録されました。
西小学校の「アベマキ」は、地域の人々、児童の心のよりどころ、ふるさとの思い出として残っています。
平成17年3月  諌早市教育委員会

ア   ベ   マ   キ
「アベマキ」は、ブナ科の落葉高木で、クヌギに近く、まれにみる巨樹。地上55cmの幹まわりは3.65m、樹高約17m。大陸系植物で、日本では中国山地に、また県下では対馬に多く見られます。この樹皮からコルクが取れるので、コルクの木とも呼ばれています。

土師野尾の大カエデ  諫早市土師野尾町

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土師野尾の大カエデ  諫早市土師野尾町

飯盛町の中心から諌早市栗面町へ抜ける県道41号線を行く。中間ほどに「土師野尾」バス停があり、左手に「八天狗」の大鳥居が立つ。背後の山が八天岳(標高296.7m)。この道に入り、しばらくするとまた左に鳥居あり、鳥居をくぐり山手へ車道を進むと「(申)天狗と大蔵の里」の標識がある。参道を登ると広場に土俵があり、この上の木立の中に大カエデとイチョウの木がすぐあった。
登り口の手前に塚らしい土盛りと地蔵を刻んだ石を脇に見る。広い畑の柿の木はたわわに実っていた。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。

諫早市土師野尾町の大カエデ

土師野尾町の「天狗と大蔵の里」公園にある。寂れた山門を過ぎ登っていくと土俵だけがある。とても公園とは言えない。誰もいない。イチョウとイロハカエデがあった。カエデが目を引いた。
山の斜面に生え、四方に大きく枝葉を広げている。幹は根元から5本に分れていて、幹周りは、およそ2.5mはある大木だ。隣りのイチョウは黄葉していたが、カエデの紅葉は4分ほどであった。
「天狗と大蔵の里」は十二支公園の一つで「申」と記されてある。案内板には、「その昔、江戸相撲の名力士であった稲妻大蔵が、幼少の頃に、ここで天狗と相撲をとったという民話が残っています」と書かれてある。

川下のヘツカニガキ  諌早市飯盛町川下

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川下のヘツカニガキ  諌早市飯盛町川下

諌早市飯盛町川下にある。田結郵便局角から海岸通りに出、最奥の瀬渡し店から上に上がる。ここに案内標識がある。すぐ上から右手の道に入り、突き当りの広場の石垣上にある。現地説明板は次のとおり。

長崎県指定文化財 川下(かわしも)のヘツカニガキ
昭和五十五年八月二十二日指定
中国大陸南部、台湾や琉球から北上したアカネ科の南方系の落葉高木樹で、国内では九州・四国にのみ分布しています。九州でも佐賀県や福岡県には分布しておらず、九州西岸では、この付近が分布の北限です。
明治の初め、鹿児島県大隈半島の辺塚(へつか)で発見され、枝葉に苦味があることから「辺塚苦木」の名が付けられました。樹高十㍍、幹廻り二㍍余りで、北限にこのような貴重植物の巨樹が見られるのは極めて珍しいことから県の指定を受けました。
平成十八年三月  諌早市教育委員会

「地理局測点」に関わるHPとトピック

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「地理局測点」に関わるHPとトピック

「長崎の珍しい標石」の項で、魚見岳と天門峰山頂岩にある明治九年「地理局測点」を上の写真のとおり紹介した。長崎にも明治初期の貴重な測量標石があったのである。
標石の存在は、京都市上西勝也氏(近代測量史研究)も関心を寄せられ、平成18年2月長崎を来訪、現地へ案内した。同氏のHPで紹介されるとともに、現在も追跡の研究が行われている。(小画像は上西氏HPから)

次はこの標石の関連。いろいろHPを調べていると、珍しいことが書いてある。つくば市の国土地理院「地図と測量の科学館」構内に同じような「地理局測点」の標石が展示されている。地上標には必ず地中標石の正式な測点があるらしい。まだ掘って探していない。
また、AGC(日本山岳会の同好会「山岳地理クラブ」)のHPトピックによると、明治15年地理局設置の三角点標石が、2001年群馬の山中で見つかり話題となった。
歴史を語る明治の遺産として、長崎の標石も大切にしたい。

「初期の測量標石など」   上西勝也氏HP”三角点の探訪”から

いままで、三角点といえば1888年(明治21)に参謀本部陸地測量部ができ本格的な近代測量を開始してからのものを調べていました。ときたま、それ以前の参謀本部測量局や内務省時代の地図や点の記を見かけることはありましたが、実際の標石については見たこともなく、また手持ちの文献も少ない状態でした。
ところが、つくばの国土地理院の構内に明治初期と思われる標石が展示してあるのを見つけました。展示といっても置いてあるだけで説明はありません。この機会に初期の標石について暇をみて調べてみようと思い、つぎに実際に設置してある測點の現地を探訪しました。
つくば国土地理院構内の展示品 (略)
内務省地理寮測点
日本の近代測量は工部省測量司が1871年(明治4)に外国人の指導で東京府下に13点の三角点を設置しました。その後、開拓使が北海道の約50点の観測を実施しました。ついで内務省地理寮が1874年に開設され測量司の仕事を引き継ぎ1875年関八州(かんはっしゅう関東八州のこと)大三角測量をしその後全国の国境の測量を始めました。1882年には三角点の100点の選定が終わり1884年からは陸軍参謀本部測量局がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。
内務省地理寮測点の標石は大きく上面は一辺30センチメートルの正方形、高さは60センチメートル程度あります。盤石と思われるものが、その横にありました。
後日、国土地理院にお聞きしますと、まず盤石と思われるものは盤石でなく測点上面を保護するための「ふた」(蓋石 がいせき)であろうということがわかりました。さて、いつ頃どこで何の目的に使われたかなのですが現在の国土地理院には、これに関する記録、文献などは、まったくないそうです。なにしろ明治以降、何度も職制が変わったり、庁舎が分散、移転したり移転時の空襲などあり、しかたがありません。ただ言い伝えとしては、つぎのようです。
安政年間に締結された開国条約に「外国人遊歩規定」というのがあり横浜の居留地にいる外国人は行動を規制されました。規定を明確にするため精密な測量がおこなわれましたが現在の国土地理院に展示してあるのは、この測量標石らしいということです。なお、これと同様な標石は小田原市、藤沢市、平塚市で見つかっています。国土地理院の展示品は全部地上に露出していますが実際の標石は上面だけ残し地中に埋まっています。
内務省地理局測点
内務省地理局は1877年(明治10)地理寮から引き継いだ組織です。この標石は細長く高さは80センチメートル位です。2個ありましたが、どちらも同じ刻字がされています。地理局の標石には地上標と地中標石があり右の写真は地上標と思われます。〔国土地理院:測図・地図百年史 1970〕どのように使用したかは定かではありませんが正式な測点は地中標石でそれと対になつている地上標は測点の位置を表しているだけと思われます。内務省地理局の標石頭部の十字には銀の象嵌を施したものもあったそうです。
几号 水準点(きごうすいじゅんてん) (略)
二等水準点 (略)
移設された展示品
うえで説明した展示品は2002年(平成14)に再訪したときには「地図と測量の科学館」裏に移設され簡単な説明もありました。展示品は初期の測量標石以外に現行のものも一緒に埋設されていました。南から北へ(写真では左から右へ)四等三角点金属標、同標石、一等三角点標石、二等水準点標石(現行)、同(初期)、キロポスト併設水準点、一等水準点、几号水準点、内務省地理局測點(埋設)、同(横倒し)、内務省地理寮測点第壱号、同蓋石が並んでいます。元位置にあった一部は撤去標石置き場に移されています。

「三角点標石 あった! 群馬の山中で愛好家が発見」 AGCトピックから

地形図を作る際に用いられる三角測量を日本に本格的に導入するにあたって、明治15年(1882)、当時の内務省地理局が設置した三角点標石がこのほど群馬県の山中で確認された。設置当初の状態で見つかったのは全国でも初めてで、地図愛好者の間で話題を呼んでいる。
測量の歴史を語る明治の遺産
見つかった場所は、同県藤岡市と下仁田町の境界付近を走る御荷鉾スーパー林道から、1時間余り登った尾根稜線上。この標石を5年以上も探し続けてきた埼玉県深谷市の公務員、飯島仁さん(39)が先月確認した。
標石は御影石でできていて、四角すいの上部を切った踏み台のような形。高さ約40cm、上面は一辺が15cmの正方形で、一辺62cmの台座の石の上に設置されていた。側面に「原三角測點」「明治十五年十月」「内務省地理局」の文字が刻まれていた。
三角点は、地形図作成などに用いられる三角測量の基準点。国土地理院の地形図では三角形の記号で表示されている。日本で本格的な三角測量が始まった明治10年代に内務省が、関東、中部地方に約百点を選び出し、標石を埋めた。その後、測量事業を引き継いだ陸軍が、現在も使われている「一等三角点」を設けることになり、古い内務省の三角点標石はほとんど抜き取られ処分された。
この内務省三角点標石はこれまでも、米山(新潟県)と雲取山(東京都)の2ヶ所で見つかっている。しかし、いずれも設置当初の位置とは異なると推定されている。
これに対し、今回の標石は「白髪岩(シラガイワ)の上に設けられた」という当時の記録どおりの場所で見つかり、設置当初の位置で確認された初めてのケースとなった。
陸軍の測量では、白髪岩は別の場所に一等三角点が設置された経緯がある。このため、以前から地図愛好者たちが「内務省の標石はどこかに埋まっているのでは」と注目、飯島さんは記録を頼りに「標石探し」を続けていた。
元国土地理院測量管理官で「訪ねてみたい地図測量史跡」などの著書のある山岡光治さんは「日本の測量技術を伝える貴重な遺産として末永く保存してほしい」と話している。
(2001/7/29読売新聞より)

高浜の町中と古里までの道

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高浜の町中と古里までの道

A 高浜の町中はどこを行ったか
延命水から毛首公民館前を通り車道のカーブは近道して、野母崎高校の横にある地蔵堂に出る。いよいよ高浜の町に入るが、町中も街道がどこを通ったかおろそかにできない。高校の正門に出て学校を回るように行って橋を渡ると高浜郵便局に出る。
この先、道は二手に分かれるが細道をまっすぐ進む。左の車道を行くと少し先の高台に長野観音堂があったが、最近壊され公民館に建て替えられている。入口に念仏塔・宝篋印塔の相輪・手洗石がある。脇岬観音寺と関係はない。川端の商店前で二手の道はまた合い国道を横切りまっすぐ陰平へ進む。この途中に地蔵がある。海水浴場前に出るが川は渡らない。「肥前全図」に表れる「三反(友は誤)田川」はこの川らしい。

B 高浜から古里まで海岸を行ったか
関寛斎日記は「水際の奇岩上を通る凡そ二十丁」と記して、高浜から堂山峠の登り口である大古里まで海岸を行ったように感じるが、そうではない。岩を巻きながらきちんとした山道の街道がある。
高浜海水浴場から正面の墓地の脇を越し、埋立て前の海岸線を行き内野自動車手前から家の間の道に入る。先で畑道となり上に続くが、そこには行かず右へ竹薮をかき分け横に入ると、高浜温泉の上で料亭「松実」の裏に出る。後はきちんとした道で部落の中を通って龍田神社前を行き古里公民館前に出る。この先の小店の前などは距離が短く波がひどい日も、大古里まで海岸を行かれたようである。
なお、料亭「松実」の山手側建物の駐車場奥に、ガラスサッシの地蔵堂がある。「忍の地蔵」というのはこれである(別項)。

高浜延命水の水場とはどこか 野中の一本松はどんな松だったか

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高浜延命水の水場とはどこか 野中の一本松はどんな松だったか

尻喰坂を越し以下宿の南谷を上ってきた「岳路みさき道」との合流点でもある現在の町道の付け替え地点(小さなアンテナ塔がある)から300mほど行くと、植林の谷筋から水が流れ、かたわらに地蔵尊が祀ってある。
自然石の大きな碑があり、「奉供延命水」「安政四丁巳年仲秋吉祥日 長崎今下町施主中尾民助 高浜村」とある。道中の格好の水場であったろう。しかし、今は上がゴルフ場となっているため沸かして飲むよう注意書きがある。

この側に「野中の一本松」と言われる松があった。高さ20mもあり、根元に大きな空洞があったとして、次のとおり「のもざき漫歩」でおもしろい民話が創られているが、松の木はあまり考えられない。戦後、松ヤ二採取で枯れたという。

野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」平成5年から
6 野中の一本松
現在、毛首の集落から東北の方向に三百メートル程へだてたところに『野中』という字があります。そこは徳道を経て三和町川原の方へ通じる道がひらけています。その途中に大きな松の木が一本あったことから『野中の一本松』と、いつのころからか村人は呼んでいたそうです。
それはそれは大きいばかりでなく、枝振りの美しさも他に類を見ない松でした。てっぺんまでの高さは二十メートル、周りが十五、六メートルもあったろうといわれています。まして、この木の近くに混々(滾々が正)と清水が湧き出て、通行人は言うまでもなく、当時黒浜、以下宿から本村の学校へ通う子供たちの憩いの場所でもありました。…
この松の木の近くに、白いコケでおおわれた石碑が建っていますが、さらにそばにはお地蔵さまが祭られてあります。この松と碑とお地蔵さまの三体には何か因果関係があるのではないかと思われます。しかし、現在では巨木はなく地蔵さまと碑が、むかしの物語を秘めて、語ることもなく残っているだけであります。