「一ノ間路」はどこか。江川河口へは柳田回りか、網代回りか

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「一ノ間路」はどこか。江川河口へは柳田回りか、網代回りか

A 「一ノ間路」はどこか。測図上の「間路」の定義

平成16年11月国土地理院測図部管理課へ電話照会。測図上の「間路」の定義である。
国土地理院 「地形図の測図実行法」 明治44年作成 図式の適用の部
第4編 道路・鐵道・境界
道 路 國 道
縣 道
里 道
達 路(たつろ) 著名な居住地を連絡するもの。著名な居住地から國道、縣道又は達
路から分岐し、数村落を貫通するもの。
聯 路(れんろ) 相隣する居住地を連絡するもの。
間 路(かんろ) 連路に存する小路網とする。
小 徑

広辞苑による、かんどう〔間道〕は ①わきみち。ぬけみち。②⇒かんとう(間道)←→本道
明治34年測図「深堀」による土井首辺りの間路は、次のとおりである。
1 唯念寺先公園前から四つ辻に至る山道入口の人家まで
2 網代先切通しから江川に至る毛井首、平瀬の浦道(文久元年古地図は道なし)
3 土井首中からマリンセンターに至る現在の車道沿い

B 江川河口へは柳田回りか、網代回りか

佐賀藩深堀領に、こういった深堀道の歴史資料があればと、本当に願いたい課題である。深堀の殿様道が街道と言えるが、佐賀藩主の下向や深堀領主の長崎との行き来は、他藩と違い全て船であったろう。殿様道と言ってもそれは番所・台場の見回りと領内巡視の時、高台に上って村を望見し説明を受けることもあったようである。(平氏「肥前国深堀の歴史」ほか)
江川へ柳田回りか、網代回りか。これは両方考えられる。関寛斎が記述した「一ノ間路」「小渚」「迂路」を関連づけてさまざま考えてみるが、史料がなくどうしても確定できないでいる。「関寛斎日記に表れた地名等の特定と解釈」では、一番楽で近道となる土井首小学校から江川へ行く今のバス道沿い(土井首支所のところは川沿いにノア動物病院から林兼車検センター裏を行ったようである。)を、皆が納得できる道ではないかと紹介した。
この道は明治18年「西彼杵郡村誌」の土井首村とも深堀村とも何の記述がないのが、かえって「間路」と思われる。網代回りは平瀬が断崖であるので、当時はどうしても遠回りとなる。
同「西彼杵郡村誌」にある土井首村の「平瀬村路」が字法城方(放生がた 磯道団地)より西に折れず、シューズ前国道まで行き反対側右手の竹林の山道に入り、鶴見台の白百合荘前を通りジョイフルサンの裏手の字小名切に出たのであったら、これとしたいとも考える。ここも小径がある。土井首でもそういった説がある。
同村誌にある街道筋の竿ノ浦村界にある「柳田」とはどこであろうか。学校前がバス停の「南柳田」というももの、実際は長崎市土井首支所やコープ長崎南部支所も柳田町である。そして現在の江川町のジョイフルサンまで川向いは字「柳田」であるので困っている。街道は竿ノ浦村の樫永迫に入る。