長崎外の古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3224 精錬所 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3224 精錬所

目録番号: 408 有馬(但馬が正)の生野銀山
目録番号:5066 神戸の海岸線

■ 確認結果

目録番号:3224「精錬所」は、明治天皇巡幸に随行した内田九一の写真と思われるが、巡幸写真に掲載がなかった。やはり有名な鉱山の精錬所だった。兵庫県朝来市(旧生野町)にあった「生野銀山」。内田九一は巡幸の途中、神戸から立ち寄ったのだろう。
「生野銀山」は、大同2年(807年)に開坑し、信長・秀吉・徳川幕府の時代を経て明治元年には政府直轄となり、その後は皇室財産にまでなった大鉱山。1200年以上も銀山として栄え、昭和48年に閉坑した。現在は史跡、鉱物館、体験観光施設となっている。

古写真のポイントは、手前にある川の橋、石門の門柱、背景の山。参考写真は
1 日本名勝旧蹟産業写真集 刊行大正7年の生野銀山古写真 (国立国会図書館所蔵写真から)
2 生野銀山の現在の川の橋と背景の山 (HP色々な画像:生野銀山01から)
3 生野銀山の石門の門柱 菊の御紋入り (HP神戸観光壁紙写真集から)
関連作品の目録番号: 408「有馬(但馬が正)の生野銀山」は、小川一真撮影。生野峠の街道風景であろうか。

(追 記 2014年3月25日)
関連作品の目録番号: 408「有馬の生野銀山」が、長崎大学データベースで最近、タイトルが「有馬の剣山」と修正されていた。
蓬莱峡出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、次のとおり。「有馬の剣山」のタイトルの方に間違いないようである。
目録番号:5066「神戸の海岸線」も、有馬街道で蓬莱峡上部あたりの景色と思われる。

蓬莱峡  
蓬莱峡(ほうらいきょう)は兵庫県西宮市の六甲山地にある峡谷。瀬戸内海国立公園の指定区域。

概要[編集] 蓬莱峡は、六甲山の裏側(北側)を有馬高槻構造線に沿って西から東へまっすぐ流れる大多田川の上流部、支流の座頭谷川との合流地点より上流(西側)にある。風化した花崗岩が鋸歯状の鋭い岩峰の稜線を見せる峡谷である。断層破砕帯にあたり、地質学では「バッドランド(悪地)」と呼ばれる地形であるが、これほど険しい地形は世界でも特異とされる。右の写真にある白い岩は著しく風化した花崗岩であり、その表面は素手で簡単に崩せるほどもろい。
殺伐とした白い無数の剣山があまりにも非現実的な風景であることから、映画やテレビドラマのロケ地としてしばしば採用された場所であったが、現在は六甲山地への代表的な登山ルートの一つとして広く知られる存在である。

写真説明
蓬莱峡:白く尖った地形は風化した花崗岩、その奥の茶色の崖は段丘が侵食されたもの
北側から見た座頭谷と蓬莱峡:左の砂防ダムが並んだ地形が座頭谷座頭谷は、その昔、ここを通りかかったひとりの座頭が道に迷い、ついには行き倒れになったという言い伝えから名づけられたものである。

歴史[編集]
・豊臣秀吉が大阪から有馬温泉へ向かうときに通行した道「有馬街道」の難所であった。
・江戸時代の儒学者貝原益軒か著した「有馬山温泉記」(1711年)では「剣岩」・「大剣」・「小剣」と記されている。
・黒澤明監督「隠し砦の三悪人」(1958年)の主な撮影地となる。