長崎外の古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほ

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3225 大川辺りの風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3225 大川辺りの風景

目録番号:3229 大阪の河口の風景
〔画像解説〕
川口波止場である。大阪は慶応4年(1868)7月15日に開港した。安治川河口から約4キロ上流のところに設けられ、税関・電信も設置された。写真に写っている船は外輪船である。遠くに見える洋館は、外国人居留地の建物である。明治20年(1888)ころと思われる。

目録番号:6578 大阪 安治川橋

■ 確認結果

1枚目の目録番号:3225「大川辺りの風景」は、「撮影者:内田九一」なのに「撮影地:未詳」となっている。「大川」とは、大阪では「旧淀川」の流域のようである。大川は、中之島で堂島川、土佐堀川の2川に分かれ、都心の川、堀を流れて、流末は安治川、尻無川、木津川の3川となり大阪湾に注いでいる。上流に「大橋」が遠く写る。橋が特定できれば良いが不明。「街路灯」が立つ。

2枚目の目録番号:3229「大阪の河口の風景」も、「内田九一」の作品。1枚目と風景が似ていることがわかるだろう。撮影場所は、大阪外国人居留地の「川口波止場」である。波止場に停泊中の「外輪船」。「街路灯」は右端に小さく写っている。
「外輪船」の奥に橋が写る別の角度の古写真もある(岩崎家近代建築古写真から)。

3枚目は目録番号:6578「大阪 安治川橋」。ボードインコレクションで撮影者未詳。中央に大きく写る「街路灯」。橋の中央部が「可動橋」となっている。
3枚とも「街路灯」は、大阪外国人川口居留地の「街路灯」のようである。したがって、1枚目の写真も、大阪「安治川畔」の風景と考えて良いと思われる。内田九一は最初、大阪で開業した。
大阪市HP「橋梁顕彰碑」安治川橋の説明は次のとおり。

橋梁名:安治川橋(あじがわばし)   所在区名:西区  河川名:安治川

江戸時代初期までの淀川河口部には九条島が流れを遮る位置にあり洪水がたびたび起こり、また土砂堆積により舟運にも不便をきたすことが多かった。このため貞享元年(1684)幕府の命により、河村瑞賢が水路を開削し、安治川と名付けられた。その後、周辺に富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。安治川橋はこの新地の開発に伴い初めて架設された。
江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として、準備を進め、明治新政府によって明治元年(1868)大阪開港とともに外国人に競売された。居留地には、洋館や舗装道路が造られ大阪の文明開化の拠点となった。
明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。
明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗しよく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。

そのほか参考資料は、HP上で調べると次のようなものがあった。
・明治大正図誌 大阪 「浪花安治川口新橋之景(長谷川小信)」
・明治18年測図 安治川橋付近の地形図
・大阪旧川口居留地模型(「なにわの海の時空間」施設に展示) 
・明治12年(1879年)版大阪府区分新細図ヨリ転写 「本田地誌」1933年版の巻頭地図

(2011年12月16日 追 記)
目録番号:3229「大阪の河口の風景」は、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊37頁に、「3 明治10年(1877)明治天皇畿内行幸写真」として掲載されているが判明した。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2801

同解説は次のとおり。行幸に随行した写真師は、記していない(27頁)。掲載写真を末尾に追加した。
13 大坂川口ノ景
大坂市港区の安治川河口にある船着場の光景。着色写真。