長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
目録番号:5630 稲佐海岸(5) ((3)は間違い。(5)に訂正している)
目録番号: お栄の桟橋 「旧渕村の歴史を顕彰する会」所蔵
■ 確認結果
研究レポート第3集179〜182頁に掲載しているので、詳しい説明は省略する。
要点は、稲佐お栄が造った「お栄の桟橋」と言われる桟橋は、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」か、それとも、胸を病み静養を兼ねて烏岩神社のすぐ下、平戸小屋にホテルを開業した時代の「丸尾山」の入江か、ということである。
古写真の1枚目と2枚目は、長崎大学附属図書館所蔵。「稲佐崎」とは、現在の「旭町」バス停右上、マンション「カネハレジデンス旭町」が建っている高台である。
JR長崎駅裏の埋立地から以前写していた写真と比べても、ここが「稲佐崎」に間違いない。「稲佐崎」の桟橋を「お栄の桟橋」として説明している。
古写真の1枚目の「稲佐崎」の左奥には、一帯の埋め立てのため明治期に切り取られた丸尾山と入江が、くしくもそのままの姿で写っている。気づく人は少ないだろう。
この「丸尾山」の入江にも桟橋があった。ここの桟橋を「お栄の桟橋」とするのが、「旧渕村の歴史を顕彰する会」である。
桟橋があった現在の丸尾公園の西角の場所に、説明板を設置している。
その根拠は、同会が所蔵する3枚目「お栄の桟橋」とする古写真。本来は、竹内和子氏所蔵だった。問題はこの古写真の、桟橋の状景となる。
同古写真を見ると、長崎港口を隔てて遠く霞んだ山は、女神上の「大久保山」(標高233.7m)の姿にまぎれもないであろう。
現在の国土地理院地形図を掲げた。丸尾公園の当時の桟橋の位置から、大久保山は写らない。奥まった入江で、丸尾山の先端や大鳥崎が邪魔したはずである。
丸尾山の対岸となる突き出た岬の先端、「稲佐崎」であれば、大久保山はそのように見えて写るはずである。「稲佐崎」を延長し、旭町岸壁のNASA先で、大久保山の姿を写してみた。
外にも理由がある。3枚目の古写真に写る桟橋は、1枚目と2枚目の桟橋とほとんど変わらない。階段・桟橋の向きと格好、横に張り出した木、高台の松も同じように見える。
「稲佐崎」のホテル・ヴェスナーへ行くのに、なぜ遠い「丸尾山」の入江の桟橋を使用しなければならなかったか。ホテル近くに桟橋を造ったはずである。
「丸尾山」の入江とすると、平戸小屋にホテルを開業した時代の桟橋も、「お栄の桟橋」と呼ばれたことは考えられるが、同会が所蔵する問題の古写真については、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」と判定してよいのではないだろうか。
掲載を略したが、長崎大学データベースの目録番号:5630「稲佐海岸(5)」と同写真、目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」の解説は、間違いであろう。長崎市街地へ通船があった志賀の波止は、まだ北側の入江ではないか。立山や山裾に筑後町の寺院群までは写っていない。左の山は彦山である。
これは、目録番号:5519「ホテル・ヴェスナーと桟橋」の方の解説が正しく、稲佐崎のいわゆる「お栄の桟橋」ではないか。