長崎の古写真考 目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)
〔画像解説〕    超高精細画像
ジョーダンから河村に贈呈されたアルバムの中の1枚で、A206 KONPIRA HILL AT NAGASAKIと印字が読める。長崎の南山手の琴平神社から居留地の南端と浪ノ平を展望する。右手前の大きな建物は明治20年(1887)に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(後の浪ノ平小学校)、その屋根越しに明治22年(1889)上棟の南山手25番、横の洋館は24番が見える。小学校の玄関には先生らしき人が立ち、校庭では男女の生徒が見える。右の丘上の「ヨンゴ松」(曲がった一本松で明治34年台風で倒木)の直下はグラバー邸。その下はリンガー邸で、さらにその下の旗竿はロシア(領事館は明治18年から別の場所で南山手17番)のものである。その下にはロシア海軍病院(石垣下)が見える。浪ノ平の手前の海岸には造船中の和船が見える。写真中央の大きな建物群は造船所で、その背後は出島。その右の出張りは梅香崎にあたる。撮影は明治20年代の中頃と思われる。

目録番号:5461 長崎港と浪の平南山手(2)
〔画像解説〕
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並みは手前から古河町、浪の平町。写真中央の工場付近が小曾根町の三菱炭鉱社と麦粉会社。居留地末期の明治30年(1897)頃。

■ 確認結果

まったく同じ構図の古写真。2枚目の説明は正しい。ただ、撮影場所を「南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む」としている。
居留地の「南端」は、説明文が続けるとおり、写真に写っている「尋常鎮鼎小学校」校舎の「裏手から山麓一帯」となる。
実際には、まだかなり手前となる高台、東琴平1丁目の「金刀比羅神社」の境内内。小曽根乾堂像が立つ一角あたりから、古写真は写されている。

あと注視したいのは、古写真の1枚目の方で、中央右寄り下に小さく写っている桁石橋が、そのまま現存する。親柱に「寄附者永井傳之?」と刻み、橋名はない。
「尋常鎮鼎小学校」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1442
明治11年1月11日に地元の実業家(貿易商・書家)小曽根乾堂が建てた小曽根小学校を後に改称した学校。「長崎市立浪平小学校」の前身となるが、浪平小学校も学校統廃合により2007年3月に閉校した。

「尋常鎮鼎小学校」の跡地は、現在の「長崎市南公民館」と併設の老人福祉施設「つばき荘」である。「長崎市立浪平小学校」は、大正14年頃に上部の別の場所に新校舎を建てたと思われる。
長崎市教育委員会が以前発行した「長崎古写真集 居留地編」には、尋常鎮鼎小学校が建つ前の同じような状景の古写真があり、「このあたりが浪平小学校」と説明している。詳しく説明しないと、現在では少し誤解を与える説明となっているようだ。

古写真HPについて言えば、撮影場所を具体的に「金刀比羅神社の境内から」とし、2枚目の説明を、1枚目にも記した方がわかりやすいと思われる。
「古写真に残る石橋風景」の追記参照。 https://misakimichi.com/archives/1570