古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

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古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

長崎市浪の平町の「長崎市南公民館」先に、右へ入る昔の狭い幅の道がある。金刀比羅(琴平)神社鳥居がある参道口へ出る。
この道が明治期から、石橋より二本松を越えず、浪の平・小菅を経由した一時期の戸町・深堀道となり、「みさき道」となったと思われる道である。
路地に入ってすぐ古河町となり、町境の小川に長い板石を5本渡した桁橋がある。手前左に古い親柱が残り、「寄附者 永井傳之?」と刻んでいる。
橋は「古写真考」の次も参照。 https://misakimichi.com/archives/1546

ところが目録の古写真は、橋をはっきり確認できない。まだ良く写った写真だったはずにと、「長崎古写真集 居留地編」長崎市教育委員会平成7年刊を借りてきて、89・90頁の写真を見た。
ここに掲げた2枚目の古写真「75 浪の平一帯B(彩色) 長崎市立博物館所蔵」には、橋がはっきり写っている。
目録と同じ古写真なのに、橋の下部が少しカットされていたのである。拡大写真を参照。
1枚目の「74 浪の平一帯A(彩色)」は、現在の南公民館敷地にあった「尋常鎮鼎小学校」(長崎市立浪平小学校の前身)校舎が建つ前の古写真。このときは石橋は架かってなかったのか、確認できない。
いずれも、撮影場所は南側高台の金刀比羅(琴平)神社境内からと思われる。

「橋名」がわかった。再び訪ねると、汲み取りホース下の川岸に石柱が2本並べて横たえていた。1本に刻字があるようなので苔をはがすと、「了?福橋」と読めた。
大切に保存してほしい親柱である。架橋年代はない。刻まれていれば、古写真の撮影時期を推定できるのだが…
アーチ式石橋でないが、古写真にはっきり写り、しかもそのまま現存している珍しい桁石橋。すぐ上の支流流れ口にも、小さな桁石橋を確認した。
「長崎古写真集 居留地編」の145頁、林一馬先生稿「図版解説」は次のとおり。

74 浪の平一帯A(彩色)  横浜開港資料館所蔵
75 浪の平一帯B(彩色)  長崎市立博物館所蔵
ほぼ同一地点(浪の平の南側の丘にある琴平神社の参道付近)から類似した構図で居留地の南端と浪の平及び長崎港を望んだもの。遠くに出島や旧市街地、立山や金比羅山などの山々がみえている。

Aは、梅香崎の税関前の埋め立て地の様子や手前の南山手の建物の建ち方(17、18番の2棟はあるが、35番はまだ建っていないなど)からすれば、明治5〜10年頃のものであろう。ポールの立っているところがアメリカ領事館(明治8年4月以降ならばロシア領事館)で、ポール右上の屋根がリンガー邸であろう。南山手の周遊道路はすでにあり、石積みの手すりや石畳も24番地の前あたりまで整備されていたが、大浦地区からの遠さゆえにかこの居留地南端付近はまだ空き地が多かったことが確かめられる。一番手前にみえる洋館が図−4にも記載される24番のものだが、この当初建物ではヴェランダが下屋形式となっておらず、煙突もついていなかったことがわかる。

Bには、明治20年7月に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎があり、その屋根上に明治22年8月上棟の二十五番館の棟頂ものぞくが、一帯の洋館群の様子は図−9よりもかなり前の状態なので、明治20年代中頃の撮影であろう。校舎の背後にみえる洋館2棟は24番の現・荒木茂康・君恵宅と荒木豊治氏宅だが、前者はAにみえた当初建物を明治10年前後に改築または建て直したものだったことがわかる。この頃になると南山手の区画もほぼ満杯状態になり、次には2階建て住宅がこの地区にも登場してくるようになる。