伊木力・大草の旧村境尾根に「郷村記」が記す境塚があった 

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伊木力・大草の旧村境尾根に「郷村記」が記す境塚があった

藤野保編「大村郷村記 第四巻」図書刊行会昭和57年刊の「壱岐力村」(伊木力村)の項、2〜3頁に「村境并他領境之事」が記されている。
この辺りは、当時、所領の違う村が山間で境をなし、伊木力村・長与村と畦別当は浦上木場村で大村領、大草村は佐賀領諌早、古賀村は天領だったが戸町村と交換されて大村領となる。
「郷村記」を読んで関心を持ったのは、大村領の伊木力村と佐賀領諌早の大草村の村境に多数の境塚と最合塚(両藩で築く)が築かれていることである。
「郷村記」は、安政三年、大村藩が藩政改革の一環として、一定の調査項目にしたがって藩内の実態調査をおこない、各村ごとに稿をまとめ、これを藩庁において集大成し、文久二年(1861)に完成したものである(同著凡例)。

「郷村記」の記述は次のとおり。
「一 佐賀領諌早境海濱田川尻より壱岐力村・浦上村・諌早領三方境折木境塚まで壱里拾弐町五拾六間半、此間諌早領との境なり。」
以下、この詳細として10区間の記述がある。ここに合計161+数拾基の境塚が表われ、その内の7基は最合塚である。境界に紛争があった場合に境塚が築かれるが、その詮索は今回行わず、文久2年から146年経過した現在、この境塚がどれほど残っているか、現地に行って調べてみることとした。

今は諌早市に合併された多良見町。旧伊木力村と旧大草村の村境は前の字名でわかると役場で聞いた。すなわち郷がついていたのは大村領、名は諌早領である。これから判断した当時の村境は、図のとおり赤線となった。
全部を歩いて探してみたいが、とりあえず境塚の現存する可能性が大きい大山の「峰尾境」へ行ってみた。「大山」とは一つの峰の名というより一帯の山地をさしていう名称。喜々津では”ウマヤマ”と訛ると、「多良見町郷土誌」新版平成7年刊「山岳」の説明にあった。
ここは「山川内郷」と「西川内名」の境で、車道が上がり一番わかりやすい。バイクで行き易かった。四角山林道の終点出合に車を置き、植林地内の道を上って尾根に出た。写真を写しながら、大山の三角点まで行った。往復で約3時間を要した。

今回調査したのは地図の赤線点線区間。この手前の尾根積み石は最近の地籍調査のもののようで測量杭が多い。「郷村記」の関係部分の記述は次のとおり。
「同岩首最合塚より三方境折木最合塚まで八町四拾間(944.8m)、此間峰尾境にて境塚 塚数四拾三、内二ッ最合塚 あり
塚上立石 高廿四尺廻り五尺 あり、左右山なり、諌早領との境此處にて終る」

ここに境塚が現存することは、「多良見町郷土誌」旧版昭和46年刊111頁、「一〇、玄蕃さん(山川内)」の項の末尾に次のとおりの文があった。
「山川内部落を取り囲む山は諌早領地、長崎天領境をなすのでその領境には石を盛った塚があって、三年ぐらいに双方立ち合って境の確認がなされて来ていて、石は所々に今も残っているという。」
著者は話に聞いているだけらしい。地元でこういった史跡の調査がされず、新版の郷土誌で記述が省略されているのは惜しく感じる。過去の「諌早史談」にも掲載はないようである。

この区間は、畦別当から大山に登り鎌倉山・普賢岳・水洗山へ行く縦走路の一部。大山のピークには朝霧山の会の指導標があり、四等三角点もあった。「郷村記」に記していると思われる「立石」は「山」と刻まれたものが三角点のすぐ傍らに立っていた。高さは1.2mの平石。基盤は一辺2m位の方形囲いの石組み。
「郷村記」の立石の記述は、「高廿四尺」とあるが、これは字の誤りで「高サ四尺」なら合う寸法だ。木場村235頁の記述は「三方境建石 高サ四尺、廻り五尺余の野石なり」とある。この立石は石仏ではないようだ。

最合塚を含めた境塚が当時の姿のまま、整然とこの峰尾境に数多く残る。苔むした石は緑の光に輝くものがあり、歴史の奥深さが感じらる。塚数は多く数え損ねた。
西川内虚空蔵山公園の道先なので、車で簡単に行ける。山道もあまり荒れていない。地元で詳しい調査をなされるよう期待したい。

なお、最後の2枚の写真は、9月22日調査した「郷村記」に記す「岩首最合塚」の下斜面で見かけた境塚。ここは大山林道の上下の植林地内にあった。群集落の小林氏からは集落の先の方の尾根に境塚が残っているとも聞いている。