長崎県」タグアーカイブ

お知らせ ( 長崎県 )

本ブログ「みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”」
をご閲覧いただきましてありがとうございます。
みさき道人の長男でございます。

平成28年12月30日未明、父が脳内出血により永眠いたしました。

父は生前、本ブログの記事執筆と史跡などの調査を楽しみに生きておりました。
昨年11月の八重山諸島へ調査旅行の後も、年末年始に高知への調査旅行を予定しており、
直前まで準備を進めておりましたが、突如倒れ、帰らぬ人となりました。
家族として、父のブログと調査活動を見守っていただけに、残念でなりません。

葬儀は昨年12月31日にとり行われました。
このブログや調査レポート、「みさき道歩会」などの活動を通して、
父はとても幸せな人生を送ることができました。
本ブログを通してお世話になりました方々には、感謝申し上げます。

過去の記事に関しましては、Yahoo!ブログが続く限りは、
そのまま閲覧できるようにしておく予定です。
今後のブログの管理などは、私共家族が行いますので、
転載等を行う場合は、記事へのコメント、ゲストブックなどでご連絡ください。

また、お知らせがある場合は、こちらの記事にてご報告いたします。

本当にありがとうございました。

妙相寺・富川渓谷の紅葉 2 ( 長崎県 )

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妙相寺・富川渓谷の紅葉 2

2016年12月10日(金)快晴。妻が近所の知人と、長崎市本河内町妙相寺と諌早市富川渓谷へ紅葉見物に。2は富川渓谷の続き。

この項は、本ブログ次も参照。富川渓谷には、次の名木もあるが、場所を忘れたか訪ねていないようだ。
富川渓谷大雄寺のヤブツバキ  https://misakimichi.com/archives/1401
富川渓谷のイロハカエデ・スタジイ  https://misakimichi.com/archives/601
富川渓谷のカツラ  https://misakimichi.com/archives/382

妙相寺・富川渓谷の紅葉 1 ( 長崎県 )

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妙相寺・富川渓谷の紅葉 1

2016年12月10日(金)快晴。妻が近所の知人と、長崎市本河内町妙相寺と諌早市富川渓谷へ紅葉見物に。写真1〜5枚目が妙相寺。6枚目以降が富川渓谷。2へ続く。

この項は、本ブログ次も参照。富川渓谷には、次の名木もあるが、場所を忘れたか訪ねていないようだ。
富川渓谷大雄寺のヤブツバキ  https://misakimichi.com/archives/1401
富川渓谷のイロハカエデ・スタジイ  https://misakimichi.com/archives/601
富川渓谷のカツラ  https://misakimichi.com/archives/382

入江正利氏稿「崇福寺 関聖帝君の右頬(ほお)の疵(きずあと)の謎」 ( 長崎県 )

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(寄 稿) 入江正利氏稿「崇福寺 関聖帝君の右頬(ほお)の疵(きずあと)の謎」

長崎市鍛冶屋町にある聖寿山崇福寺(写真1)は臨済宗黄檗派の禅寺である。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築としてよく知られている。
重要文化財の護法堂(天王殿・写真2)は第一峰門を入るとすぐ右にあり、向かって左に韋駄天(写真3)、右に関聖帝(関羽・写真4)、中央に観音が(写真5)祀られている。室内は薄暗い上に、関羽の顔は黒ずんでいて、右の頬に疵がある事(写真6)に気付く人も少ないと思われる。

その関羽像の右頬に疵があるのは何故なのか。

調べてみると『長崎名勝図絵』に以下の記述がある。「堂内右半分は、関聖君と脇士平、周倉の像を置く。精巧な作で、特に関聖は霊験があるので有名である。これに菓子や食物を供えると、よく鼠に喰べられるので、寺僧は、供物を喰べられるようでは、霊験があるものかと嘲っていた。即非和尚が或る日関聖像に向かい、鼠に喰われる罪を責めて、右の頬を打ったので、頬の部分が剥落した。翌朝見ると、韋駄天の剣に一匹鼠が刺し貫ぬかれており、恰(あたか)も関聖の命令で、韋駄天が鼠を退治したようであった。寺僧もこれには驚き、早速関聖像の右頬の修理をさせたが、剥落した部分に、何回漆を塗っても、どうしてもうまく付かず、今もその痕跡が残っている。これを聞き伝えて、崇拝する者がふえた」

そして、もうひとつ。尾張の商人である菱屋平七が、享和2年(1802年)に九州を旅した時のことを著した『筑紫紀行 六』 に関羽像の記述がある。五月六日「寺内に関帝とて関羽の像あり。唐土工人の作にて即非和尚持渡られたり。或時盗賊寺に入て仏具を取。即非此像に向ひ責て曰く、「汝をこゝに安置せし事、ヶ様の災難を護らせんが為なり。然るに我前に在を取られながら、知らぬ顔するは不届也」とて、槌を以て左の頬を打れしかば、疵付たり。其後数度全体の彩色をつけるに、一月を待ずして槌の諸疵やがて顕る。されば膏薬を張置けるとぞ。今も見れば膏薬を張置たり」

この二つの記述から、供物あるいは仏具が盗まれたことへの責任から、即非和尚の手によって傷つけられたのは間違い無いようである。韋駄天の話は信じがたいが、360年ほど後の現在も、右頬に刻まれた疵が残されているのは興味深い。ただ、関羽の立派な髭は、ほとんど抜け落ちていて、顔も漆を塗った為か、赤ら顔が黒く変色してしまっているのは残念である。

ここに出てくる「即非和尚」とは、ウィキペディアフリー百科事典によると、「1657年隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺に住して伽藍を整備し、その中興開山となった。1665年福聚寺を創建してその開山となった」とあるので、この関羽像事件は1660年頃の話である。

長崎の歴史を壊している文化財行政  長崎市政への提案と回答 ( 長崎県 )

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長崎の歴史を壊している文化財行政  長崎市政への提案と回答 

長崎市の文化財行政について、10月10日長崎市政への提案をした。10月24日付の回答は、次のとおり。
長崎市が1月20日開催した都市経営会議「小島養生所跡遺構等の取扱いについて」の方針は、次を参照。
(PDF形式:145KB) http://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/730000/732000/p006969_d/fil/110_280120.pdf#search=’%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E9%A4%8A%E7%94%9F%E6%89%80%E8%B7%A1′ https://misakimichi.com/archives/3966
2 長崎原爆遺構として、「浦上天主堂の廃墟の一部を平和公園内に移設しているもの」や、「長崎刑務所浦上刑務支所跡」がある。これらがなぜ国史跡に同時に指定されなかったのか。今回、長崎市はどのような働きかけをしたのか。長崎市長の大失態ではないか。
https://misakimichi.com/archives/5147
3 長崎深堀カトリック教会の建 設のため、深堀氏の居城「深堀陣屋跡」が無残に壊された。石組や石垣などの保存について、長崎市長はなぜ強力な指導をしなかったのか。
https://misakimichi.com/archives/3966
4 「出島表門橋」は、もともとアーチ式石橋であった。復元計画は、似ても似つかぬ観光橋である。文化庁がよく許可したものである。河川防災上の制約はもちろんあるが、眼鏡橋のように水流を変えるなど、復元に最大限の知恵と努力をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/4318
5 四郎が島台場跡は、国指定史跡となったが、「伊王島や香焼島の台場跡」は指定となっていない。遺跡を無残に壊すような展望台などを旧町から造っている。史跡保存に対する見識が疑われる。
https://misakimichi.com/archives/3945
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/folder/1541774.html?p=1
6 長崎市役所の新庁舎は、歴史ある「西役所跡」である県庁跡地が最適である。公会堂も現在地に外観を残した耐震設備の新公会堂を建設すると、市民の総意にかなうものと考える。マイス計画は再考をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/5153

以上、長崎市政への再提案となるが、真摯な対応と簡潔な回答を再びぜひお願いしたい。歴代最低レベルの長崎市長と市議会だろう。民意を理解しないさるくガイド並みしか、見識と能力がない市長である。長崎の深い貴重な歴史を次々と壊している。マイス計画は、私たちのせっかくの税金の無駄づかいである。これらに使ってもらう方が、全体の市民に役立つのではないか。
最近の長崎史談会やマスコミ関係の無気力 ぶりも、目にあまる。長崎学の再興をぜひお願いしたい。市側の言い分だけ言って、再回答しないのは進展がなく、おかしい。

回  答 【文化財課】【みどりの課】【施設課】  【2016年10月24日回答】

番号に沿って回答いたします。
1 小島養生所は、わが国の西洋医学発祥の地であり、歴史的な意義が大きいため、市の貴重な財産として慎重に調査研究を行い、その成果を市民の皆さまや観光客の方々へ分かりやすくお伝えしたいと考えております。
平成27年度に旧佐古小学校体育館の西側敷地を発掘調査した結果、当時の遺構と見られる石垣や陶磁器などが出土しました。また、今年度も残りの敷地について発掘調査を行っています。
一方、仁田佐古小学校の新校舎建設は、保護者や地域の皆さまとの6年間という長い時間の協議の結果であり、一日も早い建設が求められています。
今後も学校建設に向けた準備は進めてまいりますが、遺構については、発掘調査をもとに、専門家の評価を踏まえ、どのような保存・公開の方法が最適か判断し、顕在化のあり方を検討します。
子どもたちが近代医学発祥の地で夢をもって学べるよう、ご指摘の校舎と小島養生所跡の遺構の併存について取り組んでまいりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。
2 平成28年6月24日に長崎市の見解を示しておりますので、ご確認ください。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/n_city/iken/detail.php?id=1816
3 平成26年5月2日にご回答したとおり、地下遺構の保存に配慮するよう、教会の新築工事内容の見直しを要請し、カトリック深堀教会のご理解のもと、遺構の破壊は大幅に免れることになりました。教会の敷地に、深堀陣屋跡の遺構が現在も多く地中に保存されています。また、開発行為の前に、カトリック深堀教会の費用負担による発掘調査を実施し、破壊される遺構についても記録による保存を行いました。
これらの結果は平成26年度に発掘調査報告書にまとめ、県内外の公立図書館や大学等の研究機関に配布いたしました。また、カトリック深堀教会にお願いし、地下に遺構があったことについて、教会敷地現地に説明板等の設置をしていただいております。
そのほか、地元の深堀の皆さまをはじめ、多くの市民の皆さまにも調査結果を知っていただくために、平成27年度から、深堀貝塚遺跡資料館の展示コーナーで調査結果と出土品を紹介しています。
以上により、開発行為に伴う埋蔵文化財(遺跡)の取り扱いとして問題はなく、行政の指導として適切と判断しております。
4 現在の出島は、明治21年(1888年)に中島川の変流工事のために、北側が約18メートル削られております。
石橋の出島橋があったところは、現在の川の中ほどにあたるため、現地復元ができない状況にあります。
文化庁との協議では、今回の架橋事業は復元ではないため、誤解を与えないようあえて近代的な手法で架橋するよう指導を受けています。
将来的には、出島の完全復元を目指しており、出島橋につきましても、現地復元を視野に取り組むよう考えております。
5 伊王島や香焼島の台場跡につきましては、現在「周知の埋蔵文化財包蔵地」として、開発行為に対して届出を義務づけるなどの保護を行っております。
また、平成27年度に策定しました「史跡 長崎台場跡四郎ヶ島台場跡保存活用計画」の「調査と追加指定の方針」に基づき、今後の遺跡の詳細調査の結果により、残存状況の良いもので土地所有者の同意が得られるものにつきましては、史跡指定等の取り組みを行いたいと考えております。
また、伊王島灯台公園内にある展望台につきましては、風光明媚な景色を堪能していただく目的で昭和58年に設置しており、建設による台場跡への影響はないものと認識しております。
6 平成28年7月4日に長崎市の見解を示しておりますので、ご確認ください。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/n_city/iken/detail.php?id=1818

関係所属
文化財課【直通番号】:095-829-1193】 みどりの課 【直通番号】:095-829-1171】
施設課 【直通番号:095-829-1192】

伊能忠敬長崎測量止宿「大同庵」跡に記念碑建立  立正佼成会サイトの記事 ( 長崎県 )

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伊能忠敬長崎測量止宿「大同庵」跡に記念碑建立  立正佼成会サイトの記事

伊能忠敬長崎測量止宿「大同庵」跡に記念碑建立が、立正佼成会サイト2016年10月13日記事に次のとおり活動紹介としてあったので、参考に載せる。  http://www.kosei-kai.or.jp/katsudo/2016-post_227.html

伊能忠敬ゆかりの「大同庵」跡地 長崎教会の敷地内に記念碑建立

江戸時代の測量家・伊能忠敬(1745〜1818年)が、現在の長崎市内を測量した際に宿とした晧台寺(こうたいじ)末庵「大同庵」があった場所として、このほど、長崎教会の敷地内に記念碑が建立された。9月18日には、同教会で除幕式が行われ、記念碑の建設を企画した「伊能忠敬 長崎測量の顕彰碑をつくる会」の入江正利会長はじめ伊能忠敬の研究者、同市職員、同教会会員ら約50人が出席した。

日本全国を歩き回り、初の実測地図を作ったことで知られる伊能忠敬。氏が率いる江戸幕府の測量隊が「九州第二次測量」において同市内の測量を行ったのは1813年のことだった。その際、同教会敷地内にあったとされる宿「大同庵」に16日間滞在したことが記録に残っている。
同教会正門横の花壇に建てられた記念碑は高さ約1.2メートル。伊能直筆の署名や「大同庵」などの文字が刻まれ、その隣には同市による説明板が設置された。除幕式では、入江会長があいさつを述べた後、福田昌弘同教会長(西九州支教区長)ら代表者によって記念碑の除幕が行われた。

「教会の敷地が伊能忠敬のゆかりの地であることを初めて知り、とても驚いています。皆さんに楽しみながら訪れて頂けたらうれしい」と同教会総務部長。長崎街道ネットワークの会の江越弘人会長は、「ここは伊能忠敬の足跡を語る上でも重要な場所。今回、立正佼成会さまにもご理解、ご協力を頂き、感謝申し上げます。今後、全国の伊能ファンがここを訪れると思います」と期待を寄せた。

(2016年10月13日記載)

こしき岩公園の薬草講座 ( 長崎県 )

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こしき岩公園の薬草講座

2016年10月11日(火)快晴。三和公民館の薬草講座で、妻らが長崎市田手原町のこしき岩(甑岩)公園へ。さわやかな秋晴れだった。
こしき岩公園入口、グべ、シュウメイギク、コスモス、ヨメナ、パンパス、アメリカセンダンソウ、冬ワラビ、タカトウグサ(秋カラマツ)、シラヤマギク、ヒヨドリバナ、ダイコンソウ、ハクサンボク、キンミズヒキ、ママコノシリヌグイ、ウド、アカネ、ゴンヅイ、コメグミ(秋グミ)、カワラケツメイ、オナモミ、ヒキオコシ(延命草)、公園広場

江越弘人氏稿「伊能隊の宿舎となった大同庵」と「長崎の警備について」 ( 長崎県 )

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江越弘人氏稿「伊能隊の宿舎となった大同庵」と「長崎の警備について」

2016年10月8日(土)曇り一時雨。伊能忠敬測量日記に基づき、第2回は主に市対岸部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。参加24人。この際の配布資料。
講師の長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会 江越弘人先生の稿「伊能隊の宿舎となった大同庵」と「長崎の警備について」である。

◎福岡藩水ノ浦御用屋敷については、本ブログ次を参照。
大谷町にある「筑州建山」の標石は筑前屋敷の境界柱
https://misakimichi.com/archives/5436
大谷町の高台にある「筑州建山」標石の現況  長崎市大谷町
https://misakimichi.com/archives/4784
◎鵬ケ崎窯跡・佐賀藩長崎別邸跡は、現稲佐町。写真7,8枚目のとおり。何かの門柱が残る。

伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(2) ( 長崎県 )

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伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(2)

2016年10月8日(土)曇り一時雨。伊能忠敬測量日記に基づき、第2回は主に市対岸部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に飽の浦公園(荒木宗太郎宅跡)に集合。恵美須神社、水の浦公園、大鳥崎、稲佐崎、坊ケ崎(鵬ケ崎)、淵神社を歩き、梁川橋を渡って正午過ぎ、茂里町長崎新聞社前で解散した。

講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者24人。伊能忠敬測量隊は、海岸線を測量しているが、幕末以降は埋め立てが進み、三菱造船所や三菱電機の工場などが建ち、当時の海岸線はたどれないので、なるべく近くの公道を歩いた。明治34年国土地理院旧版地図も参照。

伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(1) ( 長崎県 )

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伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(1)

2016年10月8日(土)曇り一時雨。伊能忠敬測量日記に基づき、第2回は主に市対岸部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に飽の浦公園(荒木宗太郎宅跡)に集合。恵美須神社、水の浦公園、大鳥崎、稲佐崎、坊ケ崎(鵬ケ崎)、淵神社を歩き、梁川橋を渡って正午過ぎ、茂里町長崎新聞社前で解散した。

講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者24人。伊能忠敬測量隊は、海岸線を測量しているが、幕末以降は埋め立てが進み、三菱造船所や三菱電機の工場などが建ち、当時の海岸線はたどれないので、なるべく近くの公道を歩いた。明治34年国土地理院旧版地図も参照。