深堀陣屋跡の現況 (8)  長崎市深堀町5丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

深堀陣屋跡の現況 (8)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943
現況(7)は、https://misakimichi.com/archives/3957

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

深堀陣屋跡は、文化財保護法に基づく「埋蔵文化財包蔵地」として周知されている。史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。市民や地元住民に対する説明がない。
長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構と出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えない。長崎県にも尽力するよう意見したが、回答は思わしくない。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

次は、大分県杵築市の例。きのう2014年6月26日付朝日新聞社会面に載った。長崎の場合とは、もちろんカトリック教会それも納骨堂部分(私有地)と市立中学校校舎(市有地)の違いがあるが、考古学関係者の指摘や市長の史跡保存に対する英断は大いに見習うべきだろう。

杵築藩主の御殿遺跡、一転保存へ  校舎の建設計画 市長が変更表明

大分県杵築市の市立杵築中学校の校舎建設予定地から、杵築藩主御殿長屋跡など近世の遺跡が見つかった問題で、永松悟市長は25日、遺跡を全て保存し、校舎は隣接地に建てるよう計画を改める、と発表した。
市は2012年3月、校舎の現在地建て替えを決定。その後の調査で藩主御殿の一角をなす長屋跡や豊臣期の石垣などが確認された。昨年末から九州考古学会や日本考古学協会が「御殿や庭園を城下町と一体となすものとして保存・整備する必要がある」と求めていた。
永松市長は「重要な遺跡が校舎に囲まれるのは適当でない。学術的な意見を尊重して保存を決めた。観光にも生かせると思う」と話している。校舎は当初計画の2016年2月完成が、2年半前後ずれ込む予定。校舎はすでに取り壊され、生徒はプレハブ校舎で学んでいる。

「深堀陣屋跡」の現地説明板、及び中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は、次のとおり。
遺構の存在は、地元では以前からわかっており、本ブログでも現況(1)で最初から指摘していた。

深堀陣屋跡
この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長7年(1255)のこと。深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ケ浦と呼ばれていたこの地へ下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。深堀陣屋とは、深堀藩主の居城のことであり、通称は御屋敷と呼ばれていた。現在地(註 説明板設置の幼稚園の場所)は囲馬場(かこいばば)のあったところである。

(24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

深堀陣屋御屋敷の当時の詳細図面は、長崎や佐賀の県立博物館史料でほとんど見当たらない。現在の国土地理院地形図に、鍋島藩作成の古地図(長崎歴史文化博物館所蔵 文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」深堀本村部分)を重ねたものを入江氏が作成してくれているので、参考としていただきたい。

(2014年7月4日 追 記)
後ろの2枚の資料は、長崎市文化財課が簡単に作成した発掘調査結果報告書。7月3日入手した。納骨堂基礎工事の状況は、現況(5)写真と教会広報紙を参照。