史跡「戸町御番所境内」の境界標石のあと1本はどこに

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史跡「戸町御番所境内」の境界標石のあと1本はどこに

戸町番所跡を訪れたのは、平成18年5月。戸町トンネルを港内の海側に回り込むトンネルのできる前の車道を行く。戦後建てられた市営住宅は払い下げられ、国分町住宅に行く車道の登り口が、県指定史跡「戸町御番所跡」の正門となっており、立派な石垣が残っている。

入口に来てすぐ目につくのは、昭和39年史跡指定当時、市が建てた大きな史跡説明板の石碑である。戸町番所の敷地は、港口に向かって斜面に沿って3段からなっていたようだ。しかし、この碑にあるとおり、宅地等の開発でもって遺構の確認はほとんどできない。番所の当時の姿は、一部残る石垣や石段の道などから偲ぶしかない。

石碑の碑文を見て気づくのは、”わずかに境界要所に建ててあった「従是御番所境内」と刻まれた石標九本の内四本を現存するばかり”との部分である。標石を探した。この標石が史跡に指定されている。
1本は、この正門に据えられており、「七番標石」。1本は、この正門からまっすぐに石段道を奥まで登ると、最奥の畑の端に立てかけられており、「六番標石」であった。

あと2本がわからなかった。山頂近くに大型マンション「アプローズ長崎南六番館」が建設されており、平成19年2月完成し、山頂に駐車場から行かれた。ここは「水本城址」でもある。
「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間 弐拾九間半 亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」の四面に刻みのある「五番標石」を確認した。寸法は21cm角、高さは90cm。
マンション建設中のまだ工事現場で、どうしてもわからないのは、「四番標石」である。

(追記 碑文全文)             史跡 戸町御番所跡
寛永十九年(西暦一六四二年)肥前藩主鍋島勝茂侯幕命によりこの地(当時西彼杵郡戸町村字下郷)に御番所を設け対岸西泊御番所とともに各々士卆五百余人を駐屯させ両番所とも鍋島黒田両藩にて隔年交代に長崎警備に当り明治維新に及んだ世に両番所を沖の番所又は千人番所という
戸町御番所の跡地一万坪余は維新後その所有者が転々ののち明治二十五年国分氏に至ったが一方市街の発展に伴い様相が変化し昔日の面影をとどめがたくわづかに境界要所に建ててあった「従是御番所境内」と刻まれた石標九本の内四本を残存するばかりでかくては由緒ある史跡も世に忘れ去られるの憾がある
偶々この戸町番所跡が県文化財として指定されたのを機に同憂の士相はかり国防的重大な役割を果した史跡を末代に記念しかたがた地域保護開発の功労者国分顕藏翁の遺徳を顕彰するため碑を建てるものである         昭和三十九年三月   長崎市長 田川 務