長崎の古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集:  83 戸町の入江
古写真集:  84 小菅と長崎港
目録番号:4238 高鉾島(24)     関連作品 「高鉾島(1)」ほか25点
目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎市古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の94頁に掲載がある古写真の2点。同146頁による「図版解説」は次のとおり。

83 戸町の入江〔彩色〕               日本カメラ博物館所蔵
長崎港入り口の目印となっていた高鉾島(左下の表題にあるように鎖国期からパッペンベルグと呼ばれていた)は、外国人には殉教地としても知られ、多くの写真が残されている。これは戸町の丘上から遠望したもので、右手の岬が神崎鼻。左手の入江には和船が停泊している。美しい彩色の写真である。明治中期ころの撮影であろうか。横浜開港資料館所蔵の同一作品はファサリ商会の撮影と推定されている。

84 小菅と長崎港〔彩色〕              日本カメラ博物館所蔵
戸町の丘上の墓地から長崎港を遠望したもの。眼下にみえるのが明治元年に完成した小菅修船場(通称ソロバンドック)で、艦船がドック入りしている。茶色に塗られた捲上げ小屋は、現存するわが国最古の煉瓦造建築である。対岸の中央が三菱造船所の立神ドックで、背後の山が稲佐山。電柱が立っていることからして、明治30年代の撮影とみられる。停泊している艦船も5000t以上の大型船がふえていたのがうかがえる。

HPに同じ写真が収録されている。古写真集: 83「戸町の入江」は、目録番号:4238「高鉾島(24)」に、同: 84「小菅と長崎港」は、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となっている。
「高鉾島(24)」外に、「高鉾島」の同じ構図の関連作品は、(1)から(42)のうち、実に25点がある。いずれも戸町の丘上から撮影されている。

目録番号:4238「高鉾島(24)」は、前記のファサリ商会の撮影と推定されている同一写真。右下に墓石が写り、戸町墓地から見た景色である。
小ヶ倉バイパスから戸町墓地の上部駐車場へ行く。長崎港入口の同写真は、駐車場から右手でなく、左手へ上がった墓地の高台から撮影されている。この辺りが撮影の名所だったのだろう。
次に、長崎港内と市街地へ視界を移した写真が、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となる。日本カメラ博物館所蔵で「長崎古写真集 居留地編」94頁に掲載された2枚の写真は、いずれも戸町墓地の左手高台のほぼ同じ場所から撮影されたと考えられる。

戸町墓地の右手高台を正面へ見る場所。墓地の後ろは、平成19年2月完成した大型マンション「アプローズ長崎南六番館」が建つ。ここは古城「水本城址」であり、「戸町御番所」の境界でもあった。マンション駐車場奥から、わずかに残った山頂へ行かれる。
「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間 弐拾九間半 亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」と4面に刻んだ「五番標石」が残る。寸法は21cm角、高さ90cm。標石が、長崎県史跡に指定されている。
「戸町御番所」の標石は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437