長崎の3つの「オランダ坂」  長崎市東山手町・丸山町

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長崎の3つの「オランダ坂」  長崎市東山手町・丸山町

長崎には現在、「オランダ坂」と呼ばれる坂が3つある。山口広助氏HP「丸山歴史散歩」によると、以下のとおり。
なお、HP「長崎県の坂」では、南山手町の「(前)東急ホテルから大浦天主堂・グラーバー園に行く坂」も、東山手のオランダ坂と区別するため「下り松(さがりまつ)オランダ坂」と言われたようだが、今は一般的には「グラバー通り」と呼ばれている、と記しているため、この坂は除外したい。

東山手町に2つ。まず、「ホテルニュータンダ横から活水学院へ向かう坂道」。第二次世界大戦後、しばらくは「ロチ坂」と呼ばれていた。江戸末期の居留地造成の際に切り開かれた道。当初は切通しとも呼ばれ、道幅は現在の3分の1ほどしかなかった
明治18年(1885)来崎したフランスの小説家、ピエール・ロチが、居留地からこの道を通り、十人町の仮寓の家へ往来しているところからこの名が付いた。現在は、観光目的のため「オランダ坂」へと変化しているようだとある。

次は、「活水学院や海星学園がある高台から石橋電停に向かうなだらかな坂道」。もともと、御崎道で使われた街道。今のように広く開けたのは江戸末期、居留地造成の際に整備された。
文久3年(1863)日本初のイギリス聖公会会堂(礼拝堂)が東山手に完成すると、東山手や南山手に住む多くの外国人信者が日曜毎にこの坂道を通るようになった。当時、長崎人はオランダ人でもイギリス人でも欧米人のことを“オランダさん”と呼んでいたため、オランダさんが通る道ということで「オランダ坂」と呼ばれるようになった。
誠孝院前の坂を俗に「誠孝院の坂(ジョウコインーサカ)」というのは、昭和8年(1933)誠孝院が移転してから呼ばれたものである。

以上2つの坂には、通りに大きく「オランダ坂」と刻んだ石碑が建って、良く知られている。
しかし、丸山町にある「阿蘭陀坂/オランダ坂(おらんだざか)」が、長崎の中で「オランダ」とつく最初の場所、「ほんとうのオランダ坂」であるらしい。
思案橋先の電車通りから、標柱がある右の坂段へと入る。料亭「青柳」の角門からさらに折れ曲がりながら坂道を行くと、写真のとおり手書きの説明板があった。白紅の梅が満開の梅園身代わり天満宮へ着いた。、
山口広助氏HP「丸山歴史散歩」による説明(C−45 2005/07/01記事)は次のとおり。

C−45:阿蘭陀坂/オランダ坂(おらんだざか)
丸山町8−1横(旧本石灰町/矢柄町)
祟福寺前から電車通りに突き当たったところに丸山に抜ける28段の階段があります。古賀十二郎先生著「丸山遊女と唐紅毛人(前編)」の中にも記述があるようにこの階段を阿蘭陀坂といいます。江戸時代(鎖国時代)、丸山遊女は出島阿蘭陀商館に出入を許されていた唯一の女性で、「阿蘭陀行き」と呼ばれていました。言伝えでは、その阿蘭陀商館行きの遊女が出島に向かうとき、丸山の表門を通らずこの階段を下だり、当時、川(玉帯川)だった電車通りのところから小舟に乗って出島に向かっていたといわれています。この阿蘭陀商館に向かう「阿蘭陀行き」の遊女が通った坂(階段)というところから阿蘭陀坂と呼ばれるようになります。

一方、幕末の開国後、丸山の上手の小島(中小島公園付近)に西洋料理店の福屋が出来、居留地に住む多くのオランダ人(当時、外国人はすべてオランダ人と呼んでいた)が頻繁に福屋に通ったといわれています。このオランダ人が丸山の花街の中を通らず、この坂を通り福屋に向かったところからオランダ坂となったともいわれています。