月別アーカイブ: 2009年2月

高 島 (4) 飛島磯釣り公園  長崎市高島町

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高 島 (4) 飛島磯釣り公園  長崎市高島町

長崎港口、伊王島のすぐ先となる高島へ行く。古くから炭坑の島として栄え、日本の近代化を支えてきた。昭和61年(1986)閉山。現在は、島の特性と美しい海を活用する町おこしを始め、新たなリゾートの島として生まれかわっている。
長崎港から南西へ約14.5km。高速船で34分である。海釣り・健康(入浴)パック2,000円が得。全周6.4km。島内は周囲の景観を楽しみながら、2時間もあれば歩いて一周できる。

(4)は、「飛島磯釣り公園」を詳しく。
平成9年(1997)7月オープン。県内外の釣りファンが訪れる人気の釣りスポット。イサキ・マダイ・クロ・アジなど、豊富な漁種が一年中回遊する。とても恵まれた漁場で安全な場所だ。
釣りはもちろん、美しく澄んだ海を見ながら散策できる。公園の手前には、日本の水浴場88選「高島海水浴場」がある。
高島港から徒歩17分。島内バスもある。入園料は500円、見学のみは100円。
元旦と12月〜3月火曜日は休園(火曜日が祝日の場合は翌日)。
高島へ渡るには、香焼中学校裏手の海岸から海上タクシー「美津丸」(所要時間13分、片道800円)も就航している。

高 島 (3)  長崎市高島町

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高 島 (3)  長崎市高島町

長崎港口、伊王島のすぐ先となる高島へ行く。古くから炭坑の島として栄え、日本の近代化を支えてきた。昭和61年(1986)閉山。現在は、島の特性と美しい海を活用する町おこしを始め、新たなリゾートの島として生まれかわっている。
長崎港から南西へ約14.5km。高速船で34分である。海釣り・健康(入浴)パック2,000円が得。全周6.4km。島内は周囲の景観を楽しみながら、2時間もあれば歩いて一周できる。
飛島磯釣り公園は(4)、石炭資料館は(5)、(6)で別項とする。

(3)は、本町へ戻って北渓井坑跡、陣屋用水と高島陣屋跡、遠見番所石火矢台場跡、炭坑廃墟施設、沖の中ノ島・端島(軍艦島)、二子島の浜節の碑、風力発電装置、時の記録古写真と現在のふれあい多目的運動広場、高島トマト栽培所、最後は高島海水温浴施設「いやしの湯」へ。
高島の風力発電装置は、一般家庭約450世帯分の発電量をまかなう。
(4)は、飛島磯釣り公園を詳しく。

高 島 (2)  長崎市高島町

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高 島 (2)  長崎市高島町

長崎港口、伊王島のすぐ先となる高島へ行く。古くから炭坑の島として栄え、日本の近代化を支えてきた。昭和61年(1986)閉山。現在は、島の特性と美しい海を活用する町おこしを始め、新たなリゾートの島として生まれかわっている。
長崎港から南西へ約14.5km。高速船で34分である。海釣り・健康(入浴)パック2,000円が得。全周6.4km。島内は周囲の景観を楽しみながら、2時間もあれば歩いて一周できる。
飛島磯釣り公園は(4)、石炭資料館は(5)、(6)で別項とする。

(2)は、西海岸の断崖、三角溝と石橋、あこうなど大木、高島カトリック教会、高島小・中学校とグランド、おろち伝説蛇谷の岩間、権現山(標高115m)公園の展望台、鷹巣権現跡、追懐古写真と現況。蛇谷は、山頂展望台のすぐ北側の遊歩道沿いにある。
(3)以下へ、続く。

高 島 (1)  長崎市高島町

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高 島 (1)  長崎市高島町

長崎港口、伊王島のすぐ先となる高島へ行く。古くから炭坑の島として栄え、日本の近代化を支えてきた。昭和61年(1986)閉山。現在は、島の特性と美しい海を活用する町おこしを始め、新たなリゾートの島として生まれかわっている。
長崎港から南西へ約14.5km。高速船で34分である。海釣り・健康(入浴)パック2,000円が得。全周6.4km。島内は周囲の景観を楽しみながら、2時間もあれば歩いて一周できる。
飛島磯釣り公園は(4)、石炭資料館は(5)、(6)で別項とする。

(1)は、高島全景、三菱創業者岩崎弥太郎之像、尾浜坑坑口跡、南洋井坑口跡、長崎市高島行政センター、百間崎地名由来の防波堤跡、「コンニャク煉瓦」の擁壁、高島海水浴場、飛島磯釣り公園正門、陸上養殖施設(種苗生産センター)、南風泊ふれあい橋、グラバー別邸跡
(2)以下へ、続く。

樺 島 (2)  長崎市野母崎樺島町

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樺 島 (2)  長崎市野母崎樺島町

長崎半島の最南端の樺島へ行く。樺島大橋は昭和61年(1986)1月開通。すでに各項にもあるが、島めぐりの見所をまとめる。

(1)は、樺島全景、渡海船桟橋跡、樺島大橋、赤灯台、樺島漁港、樺島バス終点、無量寺、大うなぎ井戸、熊野神社のあこう、弘法寺、金比羅神社、樺島小学校
(2)は、樺島灯台への道、樺島灯台公園と資料館、行者山神社、地下ダム、樺島灯台点灯

樺 島 (1)  長崎市野母崎樺島町

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樺 島 (1)  長崎市野母崎樺島町

長崎半島の最南端の樺島へ行く。樺島大橋は昭和61年(1986)1月開通。すでに各項にもあるが、島めぐりの見所をまとめる。

(1)は、樺島全景、渡海船桟橋跡、樺島大橋、赤灯台、樺島漁港、樺島バス終点、無量寺、大うなぎ井戸、熊野神社のあこう、弘法寺、金比羅神社、樺島小学校
(2)は、樺島灯台への道、樺島灯台公園と資料館、行者山神社、地下ダム、樺島灯台点灯

長崎の古写真考 朝日新聞:長崎今昔 稲佐山から見た長崎

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長崎の幕末・明治期古写真考 朝日新聞:長崎今昔 稲佐山から見た長崎

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞:長崎今昔 稲佐山から見た長崎

■ 確認結果

朝日新聞:長崎今昔「稲佐山から見た長崎」は、きよう2009年2月14日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された古写真。
解説文には、「フェリックス・ベアトが1864年(明治19年)、稲佐山の山腹から撮影した長崎のパノラマです。長崎大学附属図書館が入手したボードイン・コレクションの中の一枚です。海から眺めた幕末長崎の風景がよくわかります…」とある。

最近、入手したコレクションの写真か、長崎大学データベースにはまだ出てこない。解説文は問題ないが、撮影場所の「稲佐山の山腹」とは、具体的にどのあたりだろうか。
心当たりの場所がある。長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊の第3版33頁にある16「対岸から居留地を望む」の写真(長崎市立博物館所蔵)。
この写真は、次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1586

撮影場所は、水の浦や飽の浦から稲佐山登山道がある現在の大谷町、社会福祉法人長崎厚生福祉団の介護老人保健施設「シンフォニー稲佐の森Ⅱ」が建ったケアハウス背後あたりと思われたが、ここからは景色が違う。
ベアト作品の方は、もう少し北へ寄った現在の水の浦トンネル上の「天狗岩」か、その先の長崎ホテル清風あたりの高台からではないだろうか。ここも別ルートの昔の稲佐山登山道があった。

市街地左上に黒く写る「愛宕山」の高さと位置が問題となろう。写真手前に大きく写る大鳥町尾根の形が少々気になる。撮影場所は再調査をしたい。
後ろの写真は、参考のため稲佐山山頂展望台からの景色。

長崎の古写真考 目録番号:5306 小島養生所と長崎市街地(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5306 小島養生所と長崎市街地(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5306 小島養生所と長崎市街地(1)
〔画像解説〕
小島山手山腹から小島養生所越しに、長崎市中心市街地東側から片渕方面を見た鳥瞰写真である。撮影時期を特定できる対象が写っていないが、明治3年(1873)に元唐人屋敷が全焼しているが、それ以後の写真であるので、明治10年(1877)から明治20年(1887)前半の写真と思われる。写真右下の窪地の人家は、唐人屋敷の内部である。一際大きな屋根は福建会館の屋根である。(104−20)の写真と比べると、火災の跡が見られるので、明治3年(1870)ここが全焼した後のものある。

その右の小高い丘の上の建物は小島養生所の建物である。目録番号5383(整理番号104−24)の写真と比べると多く、その後多くの建物が造られ、施設が拡大したことが分かる。万延元年(1860)創建当初の施設の名前が小島養生所、地続きに所に医学所を新設、精得館と改称、さらに長崎府医学校と改称、長崎医学校、第六大学区医学校と変更、明治24年(1891)浦上に移転した。どの時代の写真かは明確ではない。立山の山裾に筑後町の寺院群から諏訪神社にいたる遠景がみえる。

目録番号:5383 小島養生所と長崎市街地(2)

■ 確認結果

目録番号:5306「小島養生所と長崎市街地(1)」の超高精細画像による解説は上記のとおり。次の目録番号:5383「小島養生所と長崎市街地(2)」の解説もほぼ同じ。撮影場所は「唐人屋敷山手中腹から」と解説している。
古写真のさるく説明板が、佐古小学校周辺の「唐人屋敷景」の説明板のすぐ上の坂道に設置されている。

2枚の古写真とも、拡大の違いがあるが、撮影場所は同じであろう。小島養生所の手前前面に十善寺郷墓地が写る。「小島山手中腹」とか「唐人屋敷山手中腹」と説明するのではなく、現在の東山手の海星学園前からドンの山へ登る坂道の途中、中新町の南部15街区あたりから撮影されたと思われる。隣は元町で「上大浦小学校跡」の碑があった。

現在の写真は、角の柿田ビル左先から墓地内を数段下がった高木家墓地から写した。
ここなら唐人屋敷内の「福建会館」の屋根が、現在でも確認できる。この辺りは十善寺郷墓地の一部に変貌していた。
ドンの山からは、右端の風頭山からの尾根の重なりを考えると、登りすぎとなる。

長崎の古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 50 館内から出島を望む
〔画像解説〕 超高精細画像
日下部金兵衛アルバムに収められた一葉。旧唐人屋敷があった館内町の福建会館のあたりから長崎港を遠望したもの。画面左手の刹竿が立つところが土神堂で、中央にみえる橋が明治2年(1869)創架の梅香崎橋である。橋の左手に梅香崎の居留地の洋館がみえ、右手には旧新地蔵が並ぶ。橋の手前の入江は、現在の湊公園に当たる。新地の向こうには出島が望まれ、その右手の樹叢は小島の丘の先端で、対岸中央の山が稲佐山である。やや不鮮明ながら、出島の南東隅11番地(現神学校の場所)に建物がなく、梅香崎の海岸側には3番と4番の2棟の洋館しかないようだから、明治5〜6年頃の撮影であろうか。とすれば、F.ベアトの助手時代のものとなる。土神堂は明治維新以後、頽廃していたというので、画面と矛盾しない。手前の館内町一帯は、中国人たちが次第に前面の広馬場や大浦居留地に進出したため、空き地化した様子がうかがえる。

■ 確認結果

目録番号: 50「館内から出島を望む」は、「福建会館」の上から撮影されているのではないだろうか。画面左手の刹竿が立つ所は、「土神堂」ではなく、この建物こそ現在「福建会館」となっている所であろう。さるく説明板が設置されているのは、唐人屋敷境界の東側中央裏手の高台。ちょうど福建会館の屋根が真正面に見える。脇に「唐人屋敷ご案内」の位置図があり、「土神堂」は、「福建会館」の右奥である。

見通しが良いので、この位置に説明板を設置したと思われるが、「土神堂」を解説や説明文の位置とすると、稲佐山は写らない。設置場所から1段下の路地をまだ左に寄らないと古写真と同じ構図にならない。「土神堂」の位置を現在の写真により確認する。反対に右手へ行くと、白い2つのビルの給水タンクの間に「土神堂」甍がかろうじて見える。この位置をよく覚えていてほしい。

問題は、解説やさるく説明板にある古写真の「左手の刹竿が立つところが土神堂」であろうか。白壁の角の間の通りは、曲がりながら下へ下っている。「土神堂」は、この通りのまだ下にあり、古写真の左枠外となりまったく写っていない。
長崎歴史文化博物館に展示されている当時の唐人屋敷模型から考えてみる。解説にあるとおり、古写真は「福建会館」のあたりから撮影されているから、白壁の囲いが現在の「福建会館」そのものとその右横の公園となるだろう。左隅の土石門が煉瓦造に変わり、便所側の出口に現存している。

白壁の正面右手通り、対面の屋敷塀の曲がり具合に注視すると、この地形の通りも現存し、これが古写真撮影の妥当な位置関係と思われる。刹竿から即「土神堂」とならないのではないか。
「福建会館」は、説明板のとおり江戸後期からあった建物を、明治30年(1897)全面的に改築し、「福建会館」と改称している。