月別アーカイブ: 2009年2月

徳道の「みさき道」沿いに「ゆうこう」の木があった  長崎市以下宿町

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徳道の「みさき道」沿いに「ゆうこう」の木があった  長崎市以下宿町

「みさき道」の徳道車道三叉路に、「長嵜ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」の大きな里程道塚がある。
柚の新種「ゆうこう」の木が、新たに見つかった場所は、道塚から300mほど車道を野母崎ゴルフ場裏門口の方へ向かって行った所。
広い水仙畑を過ぎると、右手に高い杉木立があり、脇に畑小屋の白い建物が見える。ここは枇杷や八朔の畑となっており、杉の後ろ枇杷の木との間に挟まれ、「ゆうこう」の木があった。

2009年1月15日付長崎新聞「あの人この人」に、”謎のかんきつ類を追う”とし「ゆうこう調査に情熱を傾ける」川上氏が載った。「ゆうこう」は、彼が新種発見のきっかけをつくった。
昨年10月、伝統的な食文化を守ろうとスローフード協会国際本部(イタリア)が進める「味の方舟」計画の認定品目となり、トリノ大会へ行った。
長崎県内を主に、自生樹の分布を丹念に調査しており、現在では120本余りを確認している。新聞を見た人から新たな情報が五島などからも寄せられ、今回、「ゆうこう」が徳道の「みさき道」沿いにもあることがわかった。

彼も私も「みさき道」歩きなどで、この道は良く通る。これまで気づかなかったのは、進行方向の逆で、あまり振り返らない。高い杉の後ろとなり、枇杷に隠れていたためであろう。畑の周りは八朔が植えられ、その観念しかなかった。
畑の所有者から今回、川上氏へ連絡が入り、彼が教えてくれた。先々代が種で植えたそうだ。
今の時季は「ゆうこう」が確認しやすい。徳道の現地の畑へ行くと、黄色い小ぶりな実が太陽の光に映えていた。幹囲70cm、樹高8mほど。
昨年1月、この木と思われるブログ記事が、実は次の山歩き記事にあった。その時に場所をよく聞いておいたら良かったのに、そのままとしていた。
参 照  http://blogs.yahoo.co.jp/sumiretyannn/1460410.html
今となっては、同じ場所の木なら、その方と山歩きの会に対し、たいへん申し訳ない。

徳道から帰りは、黒浜トンネル口へ出た。急なカーブの車道を下って行くと、軍艦島と海が見えてくる。ここの斜面の畑にも「ゆうこう」の木があった。幹囲90cmと60cmの2本。樹高7m位。
川上氏へ知らせたら、ここの木はすでに彼のリストに登載済みであった。2007年12月に見つけている。もう少し下るとダンプカー駐車場の横にもう1本あり、雑木の中で高いためわかりにくいらしい。

長崎の西の空の夕日  09− 3

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長崎の西の空の夕日  09− 3

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日など。電柱と電線は邪魔。以下、続く。

写真 1〜 2  平成21年 2月 3日の17時53分頃
写真 3〜 4  平成21年 2月 6日の17時50分頃
写真 5〜 6  平成21年 2月 8日の17時52分頃
写真 7      平成21年 2月10日の 6時47分頃 朝明けの満月
写真 8〜 9  平成21年 2月12日の17時50分頃 東山手海星学園近くから

津屋岳から多良見町の尾根縦走  平成21年2月

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津屋岳から多良見町の尾根縦走  平成21年2月

平成21年2月11日(水 建国記念の日)晴れ。津屋岳から多良見町の尾根縦走。参加19人。
JR長崎駅9時39分発ー肥前古賀駅ー正念ー津屋岳ー市道出合い(昼食)ー三方境ピークー四角山林道終点峠ー群集落ーJR大草駅16時着。

津屋岳(標高302.7m)は、長崎バイパス上の山。山城跡。1月12日下山路を間違えたリベンジ登山。市布へ尾根を直接下る道はなく、正念の石橋から尾根を直登したら五穀社の広場へ出た。正式な下山路は五穀社の北斜面にジグザグな道があり、正念のまだ上手の集落へ下るようだ。津屋岳を越し、市道に出た所で昼食。

昼からは市道をしばらく歩き三方境のピーク(三角点424.2m地点)を目指す。三方境は、「大村郷村記」の記す大草村・伊木力村・古賀村の藩境。大きな立石の境塚がある。これから四角山林道に向けて下る尾根は、藩境塚のオンパレード。当時の姿をよくとどめている。
長崎の藩境石と塚の項参照。  https://misakimichi.com/archives/294

午前中に時間がかかりすぎ、鎌倉山・普賢岳・水洗山は次の機会に繰り越した。群(むれ)集落で諌早市指定天然記念物「クロガネモチ」の大木を見て、JR大草駅まで山腹の車道を一気に下った。黄砂で大村湾の視界はかすんでいた。
お宮さんブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/10078529.html

新田神社の石祠などの不思議な図象  長崎市大籠町

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新田神社の石祠などの不思議な図象  長崎市大籠町

大籠町の新田神社には、カニ、タコ、エビなど特異な図象を配した石祠が拝殿奥に祀られている。以下は、三和町文化協会誌平成10年に掲載されたある先生の「新田神社考」である。
主に関係する部分のみ抜粋してみる。(註は当方で外字を作成できないため、文で注釈した)
総論では、年配のご婦人の話として「私は大籠(おおごもり)の者ですけど、子どもの頃、親から蟹は食べちゃあいかんとよく言われていたけど、その頃何故食べちゃあいかんのかわからんやった。今日お話を聞いて初めてわかりました」と紹介している。

実はこれと似た話を最近、ブログのコメントにもらったので取り上げた。大籠町赤土に伝わる話と思われる。
「深堀赤土の海岸丘にある石塔」を参照。 https://misakimichi.com/archives/195
「この沖で海難に遭ったとき、蟹に助けられた」というような話である。双方ともまだ史実関係がはっきりしない。
新田神社石祠に配されてある「カニ」などの、今後の研究の糧としていただきたい。
合戦絵図は、神社の拝殿の中に掲げられていた。

佐賀藩深堀領にキリシタン教会が存在したかでも、地元識者の意見は分かれる。神社明細書によると、新田神社は郷社深堀神社の雑社二十社の内の一つである。善長でなく大籠は明治となって大籠村の村役場があった中心の集落だった。
キリシタンの宗教色は、どうだっただろうか。更なる検証をお願いしたい。

ニ、「郷土史 深堀」よりの資料
(37)新田神社 (大籠町)(P.207 原文のまま)
新田義興を祀る神社で、其の奉祀の原因及時期はさだかでないが義興が矢口渡に誘殺されたのが正平十三年(1358年)で、それより百年位前に此の地に新田正久が居住していたと言われている。

三、建造物等の図象より
(1)鳥居の奉献の「□」 (註:「奉」の字で漢字の上の部分が「十」の3字)
隠し十字とみられる。
(2)掲げられている神社家紋「○」 (註:「○」の中に「一」の字)
家紋大事典記載の新田家の家紋 「引両(ひきりょう)」の項「○」 通称 大中黒 (註:「●」の中に白抜けの長方形)
(3)石祠の屋根前面に置かれている「蟹」彫塑
「蟹はフランシスコ・ザビエルの象徴」として刻まれたものと、島原のキリシタン研究家の吉田安弘氏が言われている。
また平湯晃氏の著書「聖フランシスコ・ザビエルの日傘」に、くわしく述べられている。いわゆる蟹は、神の使徒である。
(4)石祠の屋根側面にある大三角形「△」
「△」は、三世紀ごろから、キリスト教で三位一体の象徴として使われていたマークである。
「三位一体」とは、「父と子と聖霊」のことをいい、キリスト教の基本原理である。
(5)石祠の屋根側面上部にある「○」 (註:「○」の中に「大」その下に「一」の字)
前述の吉田安弘氏は、「○」(註:「○」の中に「大」の字)と「○」(註:「○」の中に「一」の字)とが合体されて「○」(註:「○」の中に「大」その下に「一」の字)となり、大神デウスを表しているとみる。すなわち、大と一を分離したと考える。
(6)石祠の屋根前面中央部にある小さな紋様は、「花十字」とみられる。
(7)その他、扉の表面下部の「×」は、アンドレア十字とみられる。また、石祠側面の縦三本の柱は、聖なる数「Ⅲ」とみられる。
(8)「郷土史 深堀」による新田神社の祭神は、新田義興とあるが、冒頭資料「神社明細調帳」には、新田義貞と明記されている。義興は義貞の第ニ子である。
また、「神社明細調帳」での「神体石像」の表現が、彫塑のような石像物の意味にも取れるし、現在のような「謹製 新田大明神」と石板に彫られた文字だけのものとも取れ、判然としない。

蚊焼漁港と赤土海岸  長崎市蚊焼町・大籠町

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蚊焼漁港と赤土海岸  長崎市蚊焼町・大籠町

立春を過ぎたおだやかな日和の午後。長崎半島中部の西側海岸、岳路から赤土まで行く。長崎を遠く離れている方から、「くじら浜」や「赤土海岸」の現況を尋ねられていた。
石祠は桜御前の銘、赤い建物はOKエンタープライズ研修施設跡、赤煉瓦煙突は製塩所跡。
前の項に、岳路海岸とくじら浜。

岳路海岸とくじら浜  長崎市蚊焼町

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岳路海岸とくじら浜  長崎市蚊焼町

立春を過ぎたおだやかな日和の午後。長崎半島中部の西側海岸、岳路から赤土まで行く。長崎を遠く離れている方から、「くじら浜」や「赤土海岸」の現況を尋ねられていた。
海岸洞穴は海水浴場の北側の浜にある。くじら浜はホテルPARCO先から下る。マリン施設が1軒、時季だけ開業。
次の項に、蚊焼漁港と赤土海岸。

大 音 寺  長崎市鍛冶屋町

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大 音 寺  長崎市鍛冶屋町

長崎市鍛冶屋町にある浄土宗の正覚山大音寺。境内墓地に赤煉瓦や石造の見事な石門があるので写しに行った。市指定天然記念物のクロガネモチとイチョウは、すでに巨樹・名木の項で紹介済み。最後は皓台寺との間の幣振坂。
長崎さるく現地説明板は次のとおり。
大  音  寺

慶長19年(1614)、伝誉が開創。寛永年間に現在地へ移転し、朱印地となりました。延宝2年(1674)、歴代将軍の位牌を祀る御霊屋が建立されるなど長崎三大寺院の一つとして高い格式でした。昭和34年(1959)の火災で本堂(写真中央)や御霊屋などが焼失しました。境内には市指定史跡の長崎奉行・松平図書頭墓地、市指定天然記念物のクロガネモチやイチョウなどがあります。

長崎の古写真考 目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島

■ 確認結果

目録番号:4878「ドンの山(「から」の字抜け)見た大浦居留地・出島」と、まったく同じ古写真が、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成7年刊の42頁に掲載されている。
同137頁による「図版説明」は次のとおり。

25 星取山から長崎港を見下ろす          長崎大学附属図書館所蔵
星取山の山上付近から長崎港を見下ろしたもので、手前に大浦、東山手の居留地、右手に出島と旧市街地、港の向こうには大きく広がった浦上川の河口部と対岸・淵村の集落が望まれる。出島にはその左端に慶応3年(1867)に造成された馬廻しの突出がみえるが、明治2年2月に築町間に架設された出島新橋がないので、明治元年頃の撮影と推定される。東山手の丘上には旗竿を立てたイギリス領事館の2階建て洋館の背面がみえている。

「ドンの山」からの景色は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1512
この古写真は、「長崎古写真集 居留地」の図版説明どおり、「ドンの山」からではなく、「星取山」山頂から撮影されたものであろう。「星取山」山頂は、現在、NTT統制中継所の敷地となり周りの木立も高く、山頂から展望を確認できない。近くで展望がきくのは山頂の北側手前、「長崎霊園」と最近建設工事中の「港ヶ丘パーク墓苑」へ下る道のところ。
大浦川河口が左上に上がり、左奥の稲佐山尾根と岩屋山の稜線の重なりを確認すると、この古写真は「星取山」山頂から撮影されたものに間違いないだろう。

同じ古写真が、長崎市東山手町「古写真・埋蔵資料館」に展示され、タイトルが「鍋冠山から見た大浦居留地・出島」となっていたようだ。
「ドンの山」か、「鍋冠山」か、「星取山」か、似たような風景が広がり、混同が出てくる。
誤った指摘があって撮影場所を変更されたかも知れないが、変更するにしても長崎大学側が現地へ実際に出向き、正しく確認してから変更すべきではないだろうか。変更の際も、展示資料館へ連絡を確実にしてほしい。

後ろの写真は参考のため、両方の墓地上部から現在の写真を写した。星取山山頂からに対してまだ高度感が足りないし、山の稜線の重なりは高度が低いため合わない。

旧街道宿場「波佐見宿」の水路と石造橋  東彼杵郡波佐見町

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旧街道宿場「波佐見宿」の水路と石造橋  東彼杵郡波佐見町

波佐見町折敷瀬郷の”飛瀬の水路橋”については、前項において昨年の河川改修工事によって煉瓦造アーチの1橋が壊され、新たに下流に石造アーチの1橋が見つかったことを載せた。
ところで、この水路である。川棚川(以下「波佐見川」とする)の川岸平野を縦横に這い、2つの橋の水路が続いているのか、取り入れ口がどこなのか、すぐには確認できなかった。
2つの水路橋の下の小川は、延宝6年(1678)築造とされる飛瀬上・中・下の各堤からの流れであろう。水路はこの上を橋により渡っている。
高度を考えると、近くに今ある本流の井堰から引いたものでないようだ。上流の「横枕橋」よりまだ上のようであり、横の谷間の支流からとも考えられる。

新しく見つかった水路橋の下流側は簡単である。水路は波佐見川沿いに護岸の上を約600m流れ、県道1号線の鹿山橋へ出た。清酒「六十餘洲」の今里酒造前である。酒造用水かと思ったが、そうでもない。
県道及び同工場下をくぐり、波佐見中生徒会の手づくり説明板のとおり、往昔から街道宿場「波佐見宿」の町並みを網羅した大事な水路となっていた。

波佐見地方は、県下でも溜池の多い地域として知られている。治水工事や新田開発は、藩政時代になって頂点に達した。大村郷村記によると「内海の宿の辺、古戦場にて往昔は萱池ヶ原とて曠々たる野原」であった。
領主の積極的な奨励と、農民の経営規模を拡げようとする努力によって、井出の普請、波佐見川の本流、支流からの用水路、溜池の築堤、補修ができていった。それにつれて新田が開発され、村の石高は増加したのである。
いま見られる波佐見平野の美田は、溜池、井出の築造年から文化−文政期(1804−1829)に完成したことが知られるそうである。

水路や水路橋の手がかりに調べた波佐見町「波佐見町史(上巻)」昭和55年第二版360〜374頁の記述は、上記のとおり。「大村史談」にも掲載は見当たらないようである。
旧街道宿場の重要な水となった水路と水路橋について、地元の関係者が解明を進めてもらえないだろうか。
波佐見の中心街や鹿山神社周辺で見た主な石造橋なども写した。旧「わたや」久保田邸の庭園池の橋は見事であった。

飛瀬下にもう1つの水路橋が見つかる  東彼杵郡波佐見町

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飛瀬下にもう1つの水路橋が見つかる  東彼杵郡波佐見町

全国の石橋を研究する「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」のHP氏から、12月初めに波佐見町折敷瀬郷で水路橋が新しく見つかった連絡をもらっていたが、やっと出かけて写してきた。
場所は、波佐見町役場前の道路を約500mほど北へ行く。西海陶器が見える「FIRST FITNESS」の名がある店の前から下の谷間へ下る。小川が排水工事中。小川を渡った新しいコンクリート橋が、”飛瀬の水路橋”という小さな煉瓦造アーチ橋だった。
波佐見町の石橋の次項を参照。  https://misakimichi.com/archives/682

これが壊された代わりに、実はこの下流にも別の見事な石造アーチ橋があったのだ。薮つきでこれまでわからなかった。小川が川棚川(波佐見川)へ流れ込む所。対岸は波佐見中学校である。中学校の対岸通りから気をつけて見ると石橋の姿がわかるのだが、一度この通りを通りながら気づかなかった。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」による説明は次のとおり。水路を辿ると、また珍しいことがあったので、次項とする。

№3,902     飛瀬下の水路橋(仮称)     2008.12.06
東彼杵郡波佐見町折敷瀬郷   橋幅:2.45m  径間:2.64m  拱矢:1.1m  環厚:34cm
波佐見町にお住まいの出口さんからメールを頂きました。「水路がキャノンの排水路になって工事が行われました。“飛瀬の水路橋”と紹介されていた物は跡形ないです。−中略−が、川に流れ込む所にもうひとつ水路橋が壊される事無くそのまま利用されています!」というものです。
早速現地へ向いました。コンクリート三方張りの水路をコンクリートの水路が横断しているところが“飛瀬の水路橋”があった場所です。その下流端に石造アーチ水路橋が架かっています。よくぞ取り壊されずに残ったものです。
下流はすぐ川棚川です。輪石は12列の偶数、要石は少し右側にずれているようです。念のため水路を下流へ約600m、鹿山橋のところまで辿りました。