新田神社の石祠などの不思議な図象  長崎市大籠町

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新田神社の石祠などの不思議な図象  長崎市大籠町

大籠町の新田神社には、カニ、タコ、エビなど特異な図象を配した石祠が拝殿奥に祀られている。以下は、三和町文化協会誌平成10年に掲載されたある先生の「新田神社考」である。
主に関係する部分のみ抜粋してみる。(註は当方で外字を作成できないため、文で注釈した)
総論では、年配のご婦人の話として「私は大籠(おおごもり)の者ですけど、子どもの頃、親から蟹は食べちゃあいかんとよく言われていたけど、その頃何故食べちゃあいかんのかわからんやった。今日お話を聞いて初めてわかりました」と紹介している。

実はこれと似た話を最近、ブログのコメントにもらったので取り上げた。大籠町赤土に伝わる話と思われる。
「深堀赤土の海岸丘にある石塔」を参照。 https://misakimichi.com/archives/195
「この沖で海難に遭ったとき、蟹に助けられた」というような話である。双方ともまだ史実関係がはっきりしない。
新田神社石祠に配されてある「カニ」などの、今後の研究の糧としていただきたい。
合戦絵図は、神社の拝殿の中に掲げられていた。

佐賀藩深堀領にキリシタン教会が存在したかでも、地元識者の意見は分かれる。神社明細書によると、新田神社は郷社深堀神社の雑社二十社の内の一つである。善長でなく大籠は明治となって大籠村の村役場があった中心の集落だった。
キリシタンの宗教色は、どうだっただろうか。更なる検証をお願いしたい。

ニ、「郷土史 深堀」よりの資料
(37)新田神社 (大籠町)(P.207 原文のまま)
新田義興を祀る神社で、其の奉祀の原因及時期はさだかでないが義興が矢口渡に誘殺されたのが正平十三年(1358年)で、それより百年位前に此の地に新田正久が居住していたと言われている。

三、建造物等の図象より
(1)鳥居の奉献の「□」 (註:「奉」の字で漢字の上の部分が「十」の3字)
隠し十字とみられる。
(2)掲げられている神社家紋「○」 (註:「○」の中に「一」の字)
家紋大事典記載の新田家の家紋 「引両(ひきりょう)」の項「○」 通称 大中黒 (註:「●」の中に白抜けの長方形)
(3)石祠の屋根前面に置かれている「蟹」彫塑
「蟹はフランシスコ・ザビエルの象徴」として刻まれたものと、島原のキリシタン研究家の吉田安弘氏が言われている。
また平湯晃氏の著書「聖フランシスコ・ザビエルの日傘」に、くわしく述べられている。いわゆる蟹は、神の使徒である。
(4)石祠の屋根側面にある大三角形「△」
「△」は、三世紀ごろから、キリスト教で三位一体の象徴として使われていたマークである。
「三位一体」とは、「父と子と聖霊」のことをいい、キリスト教の基本原理である。
(5)石祠の屋根側面上部にある「○」 (註:「○」の中に「大」その下に「一」の字)
前述の吉田安弘氏は、「○」(註:「○」の中に「大」の字)と「○」(註:「○」の中に「一」の字)とが合体されて「○」(註:「○」の中に「大」その下に「一」の字)となり、大神デウスを表しているとみる。すなわち、大と一を分離したと考える。
(6)石祠の屋根前面中央部にある小さな紋様は、「花十字」とみられる。
(7)その他、扉の表面下部の「×」は、アンドレア十字とみられる。また、石祠側面の縦三本の柱は、聖なる数「Ⅲ」とみられる。
(8)「郷土史 深堀」による新田神社の祭神は、新田義興とあるが、冒頭資料「神社明細調帳」には、新田義貞と明記されている。義興は義貞の第ニ子である。
また、「神社明細調帳」での「神体石像」の表現が、彫塑のような石像物の意味にも取れるし、現在のような「謹製 新田大明神」と石板に彫られた文字だけのものとも取れ、判然としない。