旧街道宿場「波佐見宿」の水路と石造橋 東彼杵郡波佐見町
波佐見町折敷瀬郷の”飛瀬の水路橋”については、前項において昨年の河川改修工事によって煉瓦造アーチの1橋が壊され、新たに下流に石造アーチの1橋が見つかったことを載せた。
ところで、この水路である。川棚川(以下「波佐見川」とする)の川岸平野を縦横に這い、2つの橋の水路が続いているのか、取り入れ口がどこなのか、すぐには確認できなかった。
2つの水路橋の下の小川は、延宝6年(1678)築造とされる飛瀬上・中・下の各堤からの流れであろう。水路はこの上を橋により渡っている。
高度を考えると、近くに今ある本流の井堰から引いたものでないようだ。上流の「横枕橋」よりまだ上のようであり、横の谷間の支流からとも考えられる。
新しく見つかった水路橋の下流側は簡単である。水路は波佐見川沿いに護岸の上を約600m流れ、県道1号線の鹿山橋へ出た。清酒「六十餘洲」の今里酒造前である。酒造用水かと思ったが、そうでもない。
県道及び同工場下をくぐり、波佐見中生徒会の手づくり説明板のとおり、往昔から街道宿場「波佐見宿」の町並みを網羅した大事な水路となっていた。
波佐見地方は、県下でも溜池の多い地域として知られている。治水工事や新田開発は、藩政時代になって頂点に達した。大村郷村記によると「内海の宿の辺、古戦場にて往昔は萱池ヶ原とて曠々たる野原」であった。
領主の積極的な奨励と、農民の経営規模を拡げようとする努力によって、井出の普請、波佐見川の本流、支流からの用水路、溜池の築堤、補修ができていった。それにつれて新田が開発され、村の石高は増加したのである。
いま見られる波佐見平野の美田は、溜池、井出の築造年から文化−文政期(1804−1829)に完成したことが知られるそうである。
水路や水路橋の手がかりに調べた波佐見町「波佐見町史(上巻)」昭和55年第二版360〜374頁の記述は、上記のとおり。「大村史談」にも掲載は見当たらないようである。
旧街道宿場の重要な水となった水路と水路橋について、地元の関係者が解明を進めてもらえないだろうか。
波佐見の中心街や鹿山神社周辺で見た主な石造橋なども写した。旧「わたや」久保田邸の庭園池の橋は見事であった。