長崎の古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 50 館内から出島を望む
〔画像解説〕 超高精細画像
日下部金兵衛アルバムに収められた一葉。旧唐人屋敷があった館内町の福建会館のあたりから長崎港を遠望したもの。画面左手の刹竿が立つところが土神堂で、中央にみえる橋が明治2年(1869)創架の梅香崎橋である。橋の左手に梅香崎の居留地の洋館がみえ、右手には旧新地蔵が並ぶ。橋の手前の入江は、現在の湊公園に当たる。新地の向こうには出島が望まれ、その右手の樹叢は小島の丘の先端で、対岸中央の山が稲佐山である。やや不鮮明ながら、出島の南東隅11番地(現神学校の場所)に建物がなく、梅香崎の海岸側には3番と4番の2棟の洋館しかないようだから、明治5〜6年頃の撮影であろうか。とすれば、F.ベアトの助手時代のものとなる。土神堂は明治維新以後、頽廃していたというので、画面と矛盾しない。手前の館内町一帯は、中国人たちが次第に前面の広馬場や大浦居留地に進出したため、空き地化した様子がうかがえる。

■ 確認結果

目録番号: 50「館内から出島を望む」は、「福建会館」の上から撮影されているのではないだろうか。画面左手の刹竿が立つ所は、「土神堂」ではなく、この建物こそ現在「福建会館」となっている所であろう。さるく説明板が設置されているのは、唐人屋敷境界の東側中央裏手の高台。ちょうど福建会館の屋根が真正面に見える。脇に「唐人屋敷ご案内」の位置図があり、「土神堂」は、「福建会館」の右奥である。

見通しが良いので、この位置に説明板を設置したと思われるが、「土神堂」を解説や説明文の位置とすると、稲佐山は写らない。設置場所から1段下の路地をまだ左に寄らないと古写真と同じ構図にならない。「土神堂」の位置を現在の写真により確認する。反対に右手へ行くと、白い2つのビルの給水タンクの間に「土神堂」甍がかろうじて見える。この位置をよく覚えていてほしい。

問題は、解説やさるく説明板にある古写真の「左手の刹竿が立つところが土神堂」であろうか。白壁の角の間の通りは、曲がりながら下へ下っている。「土神堂」は、この通りのまだ下にあり、古写真の左枠外となりまったく写っていない。
長崎歴史文化博物館に展示されている当時の唐人屋敷模型から考えてみる。解説にあるとおり、古写真は「福建会館」のあたりから撮影されているから、白壁の囲いが現在の「福建会館」そのものとその右横の公園となるだろう。左隅の土石門が煉瓦造に変わり、便所側の出口に現存している。

白壁の正面右手通り、対面の屋敷塀の曲がり具合に注視すると、この地形の通りも現存し、これが古写真撮影の妥当な位置関係と思われる。刹竿から即「土神堂」とならないのではないか。
「福建会館」は、説明板のとおり江戸後期からあった建物を、明治30年(1897)全面的に改築し、「福建会館」と改称している。