月別アーカイブ: 2010年3月

長崎外の古写真考 目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)  関連作品 目録番号:1465 同(2)
〔画像解説〕
写真左下に書き込まれている「不二沼」という地名は現実には見あたらないが、当て字だろうか。

目録番号:2245 東海道沼川からの富士山(1)
〔画像解説〕
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発達していた。帆を張った川舟には男性が1人が乗る。

■ 確認結果

静岡市HPに、歌川広重が描いた「五十三次名所図会」の作品として、”吉原 不二沼浮嶋が原”が出てくる。不二沼とは「浮嶋が原」ではないだろうか。
東海道五十三次今昔物語ー吉原宿ーHPの中に、八代市ちくたく凡様の寄稿として、次の文がある。

吉原宿から三里半余り、原宿(沼津市原)に着きます。目立たない小さな宿場ですが、白隠禅師が生まれた地で、住職を勤めた松蔭寺があり、ここにも禅師の墓があります。境内のすり鉢松も見ものです。吉原から愛鷹山麓に広がる浮嶋が原湿地帯(富士市・沼津市にまたがる)と富士山を左に見ながらの旅は爽快です。鴨長明が著した『東関紀行』でもこのあたりの風景の美しさは絶賛されています。(今は住宅が立て込んで見えにくくなっています)

長崎外の古写真考 目録番号:3096 風景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3096 風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3096 風景

目録番号:1387 三井寺と長等神社
〔画像解説〕
三井寺(園城寺)南側に接する長等神社である。飛鳥時代に、天智天皇が建速素戔鳴尊(タケハヤスサノオノミコト)に勧請して長等山岩倉谷に祀ったのが始まりとされ、また貞観2年(860)、比叡山の高僧円珍が、大山昨命(オオヤマクイノミコト)を合祀して園城寺の鎮守としたとされる

■ 確認結果

目録番号:3096「風景」は、目録番号:1387「三井寺と長等神社」の右上高台の風景である。したがって大津市「三井寺観音堂」を長等神社側から撮影していると思われる。
神社のすぐ横から三井寺へ登っていく長い石段が続いている。駆け上がれるほど短くもない。上がりきったところが、三井寺観音堂。今は駐車場の関係で仁王門から三井寺を訪れる人が多いが、かつてはこちらから参拝する方が主だったらしい。
現在の写真は、大津絵blog 雪月鬼から。

長崎外の古写真考 目録番号:1285 青銅の仏像

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1285 青銅の仏像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1285 青銅の仏像
〔画像解説〕
“写真台紙に “”Bronze Emage and grave stones “”とある。雨ざらしの青銅阿弥陀仏は温和な藤原仏を思わせる。左、縁側に腰掛け仏像を見上げている髷を着けた男は、墓守であろうか。右下に “”KRODANI “”とあるが未詳。”

■ 確認結果

目録番号:1285「青銅の仏像」は、写真右下に “”KRODANI “”とあるなら、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」でないだろうか。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろたにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである。
現在の写真は、Kimono act.Com 桜巡りから。境内に同じような造りの建物があるようだ。

長崎外の古写真考 目録番号:1237 谷川(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1237 谷川(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1237 谷川(1)
〔画像解説〕
場所は特定できない。かなり大きな谷川である。山あいをゆったり流れる豊かな水の様子が捉えられている。

目録番号:5047 保津峡を下る屋形船(5)   関連作品 目録番号:5557 保津川(9)
〔画像解説〕
保津川を航行する屋形船を上流北岸から撮影する。右山腹に京都鉄道軌道とトンネル口が見える。保津川下りとは亀岡保津町から嵐山渡月橋上流までの行程約16kmの船による川下りである。近世には丹波亀岡から京都へ木材や物資を輸送した舟運が、明治後期に京都鉄道の開通により衰え、行楽化した。写真は京都鉄道嵯峨・園部間が開通した1899年8月以後の撮影。

目録番号:1239 谷川(2)
〔画像解説〕
大きな岩が点在し、それらに当たり砕けながら流れる水の様子が捉えられている。露光時間が長いので砕ける水を瞬間的に写すことは出来ないが、流れの速さは感じ取れる。遠景の橋を人が1人渡っている。

目録番号:1690 保津川(8)

■ 確認結果

目録番号:1237「谷川(1)」の谷川奥の山の形は、目録番号:5047「保津峡を下る屋形船(5)」と同じである。したがって場所は京都の「保津川」であろう。

目録番号:1239「谷川(2)」も同じように見ると、目録番号:1690「保津川(8)」の山と似ている。これも京都の「保津川」ではないだろうか。

長崎学さるく”藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり”  平成22年3月

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長崎学さるく”藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり”  平成22年3月

平成22年3月14日(日)晴。長崎市南部八郎岳山系寺岳の裏側、橘湾に面する藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり。途中にある石鍋製作所跡、領界目印石、金鉱跡、大ツバキ、石橋架橋碑を見学する。参加30人。
為石バス停9時30分発ー白川稲荷神社ー石鍋製作所跡ー藤田尾古道ー飛瀬領界目印石ー金山金鉱跡ー藤田尾ー大ツバキー千々古道ー千々14時5分着。

三和中学校横の坂を上がり寺岳登山道の途中にある白川稲荷神社へ登る。石鍋製作所跡はこの裏手にある。為石海岸の浜川橋近くまで行って藤田尾古道に入る。昔の道が2kmほど残っている。寺岳を左上に見ながら藤田尾近くで県道34号線と合い、県道を少し戻って飛瀬海岸に降りる。寺岳から下ったこの尾根が御領(茂木村藤田尾)と佐賀藩領(為石村)の境。天保8年(1837)領界争いを解決した目印石(無刻)が2本残っている。

飛瀬よりそのまま海岸の岩場伝いに20分ほど歩いて、字金山の金鉱跡まで行く。海岸の黄色がかった層の岩場の中段に、ポッカリと穴が空いている。坑口は2か所。中で通じ、広場となって5mほど奥へ入れる。金脈に賭けたはかない夢。採鉱は思わしくなかった。
藤田尾へ上がり、長崎市指定天然記念物の大ツバキを見学。樹齢約300年、根回り約2.8m。市内一の大木である。海岸が見える所にもう1本の大木がある。花はまだ付いていた。下の海岸近くの川口にあるのは、かつての石橋架橋記念碑。ゲートボール場で昼食

午後はゲートボール場前から千々古道へ入る。登って行くと、旧県道の道へ出る。桃ハウスがあり、天草灘を望む枇杷畑が多い中の道から、眼下にニッ岳崎が見える。竹林内のカーブが連続する道を下ると、千々先のきれいな浜と岩場に着く。大潮でワカメ採りが多かった。集落まで歩いて、千々14時45分発のバスに十分間に合った。
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23968331.html
次回の学さるくは、4月11日(日)に”三重樫山などの藩境石とゆうこうの古木めぐり”。10時三重バス停集合。

長崎外の古写真考 目録番号: 146 久形橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 146 久形橋 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 146 久形橋
〔画像解説〕
詳細位置不明。神戸市街北側に広がる丘陵山地付近の風景と思われる。

目録番号:1269 丘陵地より神戸港の遠景
〔画像解説〕
布引(ぬのびき)付近(現在のJR新幹線・新神戸駅の北側)から南方の神戸港を望む。中央を蛇行して海に注ぐのが生田川(いくたがわ)。この川の右(西)側に居留地がある。右奥には湊川(みなとがわ)河口の出洲、その向こうに和田岬がうっすらと見える。居留地の右手前の森は三宮神社。神社と居留地の間を旧西国街道が通り、3年あまり前の慶応4年1月11日(1868年2月4日)新政権の命を受けて西宮警備に向かう備前岡山藩兵と、外国人が衝突した「神戸事件」の舞台となった。生田川は写真のようにふだんは水量が少ないが、長雨が続くと氾濫して大きな被害をもたらしたため、明治4年(1871)に流路が付け替えられた。左手前の隅に付け替え工事中の新生田川が見えるので、明治4年(1871)頃の撮影であろう。この後、旧川筋は加納宗七(かのうそうしち)らによって埋め立てられて「加納町」が生まれる。”The Far East”1871年11月1日号によく似た写真がある。

■ 確認結果

神戸市文書館所蔵「又新日報」によると、検索画面で「明治24年 … 久形橋竣工式(昨日挙行につき) 葺合村生田川久形橋」と記録が出てくるが、正確な年月や橋の場所は不明。明治4年(1871)の生田川流路の付け替えの様子は、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」にある。
目録番号: 146「久形橋」の画像解説は、「詳細位置不明」とあるが、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」が、場所的に関連性のある作品だから、解説の参考となろう。

目録番号: 146「久形橋」の撮影者は、「日下部金兵衛」ではない。金子隆一氏研究紀要 ”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置””(Adobe PDF)に、「図52 神戸より布引へ至ルノ途上」として、同じ写真(東京都写真美術館などの所蔵)がある。
明治5年(1872)、明治天皇の巡幸に随行した「内田九一」の作品である。帰路7月、神戸に寄って撮影している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「生田川」と「葺合区」の解説は次のとおり。

生田川
生田川(いくたがわ)は、兵庫県神戸市を流れる二級水系の本流。六甲山系の摩耶山北側の兵庫県神戸市灘区六甲山町付近に源を発し南流。大阪湾の神戸港に注ぐ。
…天井川かつ流域が平地であるがゆえに、水害が発生するとその被害は広範囲にわたる大きなものとなっていた。幕末の開国で、京都に近い港として神戸(当時の「神戸」は、現在の神戸市中央区のフラワーロード以西、生田裔神八社の点在するエリアを指した。同じく明治時代に付け替え工事のなされる前の旧湊川が「神戸」の西の境で、その西が「兵庫」であった。)の開港が決まったが、開港にあわせて整備することとされたが外国人居留地(神戸外国人居留地)が、その位置から、生田川の災害が発生した場合に大きな被害となることが予想された。早急なる神戸の開港・神戸外国人居留地の整備が求められたことが追い風となり、加納宗七が現在の位置に生田川を付け替える工事をし、1871年に完了した。そのため現在の生田川を新生田川と呼ぶこともある。

旧生田川の河川敷は加納宗七に払い下げられ、これが同地域の地名「加納町」の由来になっている。なお、加納町歩道橋の一角には、ここにもとの生田川があったことを示す石碑が建てられている。さらに、この付け替え工事が終わり、天井川たる旧生田川が消えたことで、以後、神戸の市街地は、明治時代のうちに、それまでは田畑や林が広範囲を占めていた東側の旧菟原郡部へ急速に拡大していった。特に、旧菟原郡のなかで、もともとの「神戸」のあった旧八部郡にもっとも近い葺合村は、1889年に神戸市が誕生した当初から神戸市となっている。
…上流には布引の滝や、神戸ウォーターの採取地があり、山陽新幹線の新神戸駅がまたいでいる。河川敷にある生田川公園は桜の名所になっている。

葺合区
葺合区(ふきあいく)は、かつて兵庫県神戸市に存在した区。現在の中央区東部に当たる。旧生田川、すなわちフラワーロードを境に東側が旧葺合区の区域である。ただし、ポートアイランドは全域が生田区に属していた。
地名としての「葺合区」は1896年(明治29年)、神戸市に6区が設置された時に始まるが、当時は行政区ではなく、地域を表す呼称の扱いだった。1931年(昭和6年)、区域はそのままに行政区となる。1980年(昭和55年)に区域再編がなされ、葺合区は生田区と統合され中央区となり、消滅した。ちなみに神戸市中央区生田町は生田区ではなく葺合区にあった。

長崎の古写真考 目録番号:6268 金比羅山

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6268 金比羅山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6268 金比羅山

■ 確認結果

目録番号:6268「金比羅山」は、タイトルを長崎市中央部の山、標高366.3mの「金比羅山」としている。この古写真のポイントは、見事な三角な山で右斜面は伐採されている。山頂から中央に降り、右方へ伸びる尾根と岩がある。左端には薄く別な尾根が覗く。ある程度、山頂を近くから撮影している。

山の形からすぐ「金比羅山」と思われるが、ハタ揚げ広場へ行って山頂を見ても、「金比羅山」は、尾根の続きがやや合わないように感じた。鍋冠山、彦山など探したが、どうも違うようである。
3枚目の古写真は「金比羅山の賑わい」。長崎文献社「続・アルバム長崎百年」昭和58年刊50頁に小林勝氏撮影のハタあげ風景としてあった。年代不明。

私の疑問は、古写真の中央尾根右側に写る岩。この岩の形が、現在は違うのである。「ドンク岩」または眺めた形から最近は「ヒヨコ岩」と呼ぶ人もいる。
考えてみると、ボードインコレクション撮影当時から、岩の左側が崩落し、現在の形になったのではないだろうか。そうすると、岩が位置的に合い、やはり古写真は「金比羅山」となるだろう。
現在の岩を近くから撮影した写真を、最後に追加した。

長崎の古写真考 目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港
〔画像解説〕
モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている。南山手から長崎港奥を望む。この建物は南山手8番(現南山手地区町並み保存センター)で、慶応3年(1867)頃アメリカ人シュミット・スパンが建てた個人住宅。寄せ構造りの母屋の左右先端に半六角形の張り出し部を付け、海側にヴェランダをもつ、複雑な平面の建物であった。左前には東屋らしい別邸の屋根も見える。右側の瀟洒な洋館は下り松42番D。湾奥は浦上方面で、右の船溜まり五島町の海岸から立山。左側には淵村の集落が写っている。左の軍艦は明治5年(1872)長崎巡行で天皇を乗船したお召し艦「竜驤」のようである。筆書きのキャプションが記された外の写真と比較して、撮影者は東京から随行した内田九一と推定される。内田はこのとき天皇の九州巡幸に写真師として随行し長崎、熊本、鹿児島で多くの写真を撮影した。

目録番号:2868 南山手からの大浦居留地と出島(1)
〔画像解説〕
グラバー園下の坂道付近から撮影したもの。左下の洋館は南山手8番の敷地内、現南山手地区町並み保存センターの位置に建っていたもので、その屋根上に下り松42番地の工場や倉庫がみえる。右手中央の建物は幕末期から存在したベルヴューホテルだが、入り口のポーチが増築されていたのが分かる。その手前は、大浦天主堂への坂道である。大浦居留地は多くの洋館が立て込み、海岸通りの中央には街路樹が植えられ、突き当たりの税関前の波止には大きな平屋建てが新築されているが、東山手の丘上には16番館や明治15年(1882)建設のラッセル館はまだ見えない。出島には、江戸期以来のカピタン部屋を利用したオランダ領事館の3段になった屋根がみえ、その建物がまだ建て替えられていないことが確認できる。出島右端には神学校や新教の教会なども見えないので、明治7年(1874)〜8年頃の風景であろう。遠くには立山と金比羅山、三つ山などが望まれる。

■ 確認結果

朝日新聞きのう2010年(平成22年)3月11日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」”グラバー邸付近 「下り松」囲む洋館群”に載った写真。「モノクロ鶏卵紙の1枚もので、裏には九一自筆(?)の「長崎六十六」という書き込みがあり」「1878年7月、長崎滞在中の内田九一がグラバー邸付近から撮影した南山手の洋館と長崎港です」と解説している。

データベースでは、目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品。新聞記事はこの写真だけ取り上げている。明治天皇の西国・九州巡幸に随行した内田九一の作品にしては、単葉で見るとあまりパッとした構図でない。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2229
その際、気付いたが、この目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」は、次の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」が右側にくるパノラマ写真のようである。

グラバー邸付近の高台は、長崎港や市街のパノラマを写す絶好の撮影場所だった。古い作品として妙行寺や風頭、彦山まで写したボードインコレクションの「長崎のパノラマ」がある。内田九一もこれを意識して、同じ試みをしたのではないだろうか。
現在のところ、目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」と目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、別々の作品として取り扱われている。洋館建物の続きから、後の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」も、切り離された内田九一の作品と推測されるのである。

2枚の作品を合わせると、南山手などの居留地と長崎港の巡幸様子を撮影したまとまった写真となるだろう。きのうの朝日新聞解説では、この点の言及はない。
長崎大学側が、このことにもし気付いておられなかったら、特に後の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」の作品について、研究をお願いしたい。
きのうの新聞を読んだ感想として、この目録番号の記事を再掲する。

長崎の古写真考 目録番号:6121 興福寺と麹屋町

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6121 興福寺と麹屋町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6121 興福寺と麹屋町

目録番号:1293 興福寺開山堂と麹屋町(1)  関連作品 目録番号:3864(2)、5637(3)
〔画像解説〕
1864年頃、ベアトが撮った興福寺開山堂と麹屋町の通りである。道路は人力車用に舗装されているが、後方には、後年スロープに改善された石段が見える。幕末の長崎市内の街路の写真として最古のものの一枚である。

■ 確認結果

目録番号:6121「興福寺と麹屋町」は、目録番号:1293「興福寺開山堂と麹屋町(1)」と同じような写真である。興福寺でも開山堂(観音堂)と麹屋町を撮影したもので、タイトルは合わせるべきだろう。
正面の重層の楼閣が、文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂である。これは戦災で失われ、現在はそこに民家が建て込んでいる。付近の通りや庭で礎石の一部が今も確認できる。

長崎外の古写真考 目録番号:6079 本妙寺浄池廟中門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6079 本妙寺浄池廟中門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6079 本妙寺浄池廟中門

目録番号: 254 本妙寺
〔画像解説〕
本妙寺は熊本市にある日蓮宗の寺。加藤清正の菩薩寺である。清正を祀る浄池廊がある。清正信仰の広がりで本妙寺に参詣するものが増え、本写真のように石段の両側に茶店が並ぶようになった。本妙寺で行われる頓写会と呼ばれる写経は有名である。

■ 確認結果

目録番号:6079「本妙寺浄池廟中門」は、目録番号: 254「本妙寺」の画像解説にあるとおり、熊本市にある寺である。「撮影地域:長崎」は間違い。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「本妙寺」の説明は次のとおり。現在の写真は、日蓮宗六条門流 肥後本妙寺HPから。

本妙寺(ほんみょうじ)
熊本県熊本市の熊本城の北西にある日蓮宗六条門流の寺で大本山本圀寺から「六条門流九州総導師」の特別寺格を与えられている。山号は発星山。本尊は十界曼荼羅。日蓮宗の熱心な信者であり肥後熊本藩の初代藩主だった加藤清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。奥に長い石段があり、上ると加藤清正の銅像がある。