長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:3223 グラバー邸付近からの長崎港
〔画像解説〕
モノクロ1枚もので鶏卵紙の裏には毛筆で「長崎六十六」、鉛筆で外国人の手により424の番号が付されている。南山手から長崎港奥を望む。この建物は南山手8番(現南山手地区町並み保存センター)で、慶応3年(1867)頃アメリカ人シュミット・スパンが建てた個人住宅。寄せ構造りの母屋の左右先端に半六角形の張り出し部を付け、海側にヴェランダをもつ、複雑な平面の建物であった。左前には東屋らしい別邸の屋根も見える。右側の瀟洒な洋館は下り松42番D。湾奥は浦上方面で、右の船溜まり五島町の海岸から立山。左側には淵村の集落が写っている。左の軍艦は明治5年(1872)長崎巡行で天皇を乗船したお召し艦「竜驤」のようである。筆書きのキャプションが記された外の写真と比較して、撮影者は東京から随行した内田九一と推定される。内田はこのとき天皇の九州巡幸に写真師として随行し長崎、熊本、鹿児島で多くの写真を撮影した。
目録番号:2868 南山手からの大浦居留地と出島(1)
〔画像解説〕
グラバー園下の坂道付近から撮影したもの。左下の洋館は南山手8番の敷地内、現南山手地区町並み保存センターの位置に建っていたもので、その屋根上に下り松42番地の工場や倉庫がみえる。右手中央の建物は幕末期から存在したベルヴューホテルだが、入り口のポーチが増築されていたのが分かる。その手前は、大浦天主堂への坂道である。大浦居留地は多くの洋館が立て込み、海岸通りの中央には街路樹が植えられ、突き当たりの税関前の波止には大きな平屋建てが新築されているが、東山手の丘上には16番館や明治15年(1882)建設のラッセル館はまだ見えない。出島には、江戸期以来のカピタン部屋を利用したオランダ領事館の3段になった屋根がみえ、その建物がまだ建て替えられていないことが確認できる。出島右端には神学校や新教の教会なども見えないので、明治7年(1874)〜8年頃の風景であろう。遠くには立山と金比羅山、三つ山などが望まれる。
■ 確認結果
朝日新聞きのう2010年(平成22年)3月11日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」”グラバー邸付近 「下り松」囲む洋館群”に載った写真。「モノクロ鶏卵紙の1枚もので、裏には九一自筆(?)の「長崎六十六」という書き込みがあり」「1878年7月、長崎滞在中の内田九一がグラバー邸付近から撮影した南山手の洋館と長崎港です」と解説している。
データベースでは、目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」の作品。新聞記事はこの写真だけ取り上げている。明治天皇の西国・九州巡幸に随行した内田九一の作品にしては、単葉で見るとあまりパッとした構図でない。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2229
その際、気付いたが、この目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」は、次の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」が右側にくるパノラマ写真のようである。
グラバー邸付近の高台は、長崎港や市街のパノラマを写す絶好の撮影場所だった。古い作品として妙行寺や風頭、彦山まで写したボードインコレクションの「長崎のパノラマ」がある。内田九一もこれを意識して、同じ試みをしたのではないだろうか。
現在のところ、目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」と目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」は、別々の作品として取り扱われている。洋館建物の続きから、後の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」も、切り離された内田九一の作品と推測されるのである。
2枚の作品を合わせると、南山手などの居留地と長崎港の巡幸様子を撮影したまとまった写真となるだろう。きのうの朝日新聞解説では、この点の言及はない。
長崎大学側が、このことにもし気付いておられなかったら、特に後の目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」の作品について、研究をお願いしたい。
きのうの新聞を読んだ感想として、この目録番号の記事を再掲する。