月別アーカイブ: 2010年3月

長崎外の古写真考 目録番号:3101 寺(10)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3101 寺(10)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3101 寺(10)

目録番号:6565 京都妙心寺

■ 確認結果

目録番号:3101「寺(10)」は、目録番号:6565「京都妙心寺」のとおり、京都市右京区花園にある「妙心寺」の仏殿と法堂である。境内に同じ大松?や藤棚?が写っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「妙心寺」の説明は次のとおり。現在の写真は、京都名所探訪HPから。

妙心寺(みょうしんじ)
京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん、無相大師)。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭寺院(たっちゅうじいん、子院)が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。

「京都妙心寺」の作品は、「写真の中の明治・大正 −国立国会図書館所蔵写真帳からー」にも、次のデータにより掲載されている。
掲載資料 近畿名勝写真帖  刊行年 明34  請求記号 YDM25404
住所表記(明治期) 葛野郡花園村  住所表記(現在) 京都市右京区花園妙心寺町

長崎外の古写真考 目録番号:1352 寺の境内(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1352 寺の境内(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1352 寺の境内(2)
〔画像解説〕
相当大きな寺院の中門前である。場所は未詳だが、一斉に中門に向かっている人々の姿が生き生きと捉えられており、祝祭的雰囲気を感じる。

目録番号:3339 寺の山門

■ 確認結果

目録番号:1352「寺の境内(2)」は、見慣れた光景だろう。奈良の「東大寺中門」である。奥にみえるのが「大仏殿」。
現在の写真は、Lavender House 奈良の旅から。

目録番号:3339「寺の山門」も、山門の大きさと造りから、「東大寺中門」と思われる。僧侶と親子連れが通りかかっている。先の作品の少し手前からか、中門をくぐって大仏殿の方から中門を撮影すると、「大仏殿」の屋根は写らないだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:5902 皇室別荘全景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5902 皇室別荘全景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5902 皇室別荘全景

目録番号:5903 中庭から見た皇室別荘

■ 確認結果

目録番号:5902「皇室別荘全景」と目録番号:5903「中庭から見た皇室別荘」とも、「撮影地域:箱根」なら、元箱根御用邸(箱根離宮)となる。神奈川県足柄下郡箱根町元箱根にあり、現在は「神奈川県立恩賜箱根公園」となっている。

同公園HPによる沿革は次のとおり。公園のほぼ中央に、旧離宮本館の礎石が残されている。その正面に建つのが、かつての離宮を思わせる「湖畔展望館」。展示されている箱根離宮の資料が、華やかな時代を物語る。目録番号:5903「中庭から見た皇室別荘」と同じような古写真が展示されているが確認できるだろう。
神奈川県立横須賀高校八期生HPにも、同じ古写真を「元箱根御用邸」とし記事がある。

■ 「神奈川県立恩賜箱根公園」の沿革
ここは「塔ヶ島」と呼ばれ、芦ノ湖に突出した半島のかたちをなしています。 宮内庁はここに皇族の避暑と外国からの賓客のために離宮の造営を計画しました。明治17年、当時笹の密集していた塔ヶ島を中心に163000平方メートルを買収し、離宮の造営が始まりました。

明治19年7月に完成した箱根離宮は、二階建ての西洋館と日本館を中心に官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を芦ノ湖に映していましたが、大正12年の関東大震災・昭和5年の北伊豆地震と続いた災害によって倒壊してしまいました。その後、箱根離宮を再建する計画もありましたが、時代が戦争へと大きく傾いてゆく中にあって再建計画は打ち切られてしまいました。

そして、終戦後の昭和21年3月18日、離宮跡地は神奈川県に御下賜され、神奈川県はここを整備しその年の5月5日「恩賜箱根公園」として一般に開放いたしました。その後、昭和34年4月県立都市公園に指定され、園内が整備されました。さらに、平成元年より大規模な再整備工事を行いました。

恩賜箱根公園は、その恵まれた環境と富士山を正面に芦ノ湖を見下ろすすばらしい景観とによって箱根を訪れる人々の憩いの場として多くの人々に親しまれております。
【公園の概要】  名称 : 県立恩賜箱根公園
公園種別 : 風致公園 所在地 : 足柄下郡箱根町元箱根171 面積 :15.9ha

長崎外の古写真考 目録番号:5377 将軍の夏の別荘 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5377 将軍の夏の別荘 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5377 将軍の夏の別荘

目録番号:1284 浜離宮  関連作品   目録番号:1449 浜御殿(1)、4013(2)、5705(3)
〔画像解説〕
江戸時代の将軍の別荘。海辺に設けられた夏用の別荘で、船遊び用の船着き場もある。巧みに風景を取り入れた造園術が見事である。

目録番号:4514 御苑
〔画像解説〕
英文タイトルの「PALACE」は宮殿・御殿・大邸宅というような意味を持つ。かなり広い池と岩組みをふんだんに採り入れた典型的な池泉回遊式の大名庭園であるが場所は特定できない。左手の木はかなりの古木であり、この庭の作庭当初に植えられたもののようだ。

■ 確認結果

目録番号:5377「軍の夏の別荘」は、目録番号:1284「浜離宮」にあるとおり、「浜離宮」であろう。目録番号:4514「御苑」も「浜離宮」と思われる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとうり。

東京都立浜離宮恩賜庭園(とうきょう とりつ はまりきゅう おんし ていえん)は、東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園。東京湾から海水を取り入れ潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。江戸時代に庭園として造成された。園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑、ボタン園などを有する。
もとは甲府藩の下屋敷の庭園であったが、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開園。公園の広さは、250,165.81m²。有料で一般に開放されている。

外国人接待所として石造洋館である延遼館(幕府海軍伝習屯所)が建設された。延遼館は、明治維新後も鹿鳴館が完成するまでは迎賓館として使用された。明治維新後に、宮内省の管轄となり名前も浜離宮と改められた。明治天皇も度々訪れるようになる。

なんだダリ?  長崎水辺の森公園

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なんだダリ?  長崎水辺の森公園

長崎水辺の森公園内の長崎県美術館棟南端の6号橋前の池。ブロンズの不思議な像の屋外展示がある。後ろから通りかかったので、ラジオ体操かハンマー投げかと思った。正面へ回ってますますわからなくなる。じっくり見よう。
これはダリの作品「ガラのニュートン」なのである。立山のときの長崎県立美術博物館入口にあったのを移設しているようだ。池の像の前に作品解説がほしい。

Kama’s Weblog アーカイブ 2006-05-13 の記事。
なんだろうこれ
これだけ見て何処にある何というものなのか説明できる人がいたらかなりすごいです。
これは去年できたばかりの長崎県美術館の南側の池に立っているモニュメントの頭部です。何だかよく判らないけれども印象に残るもので、やっと「ガラのニュートン」というダリの作品ということが判りました。
何かに似ていると思っていたらつい最近TVでも放映された映画「もののけ姫」の後半に現れるデダラボッチに似てなくもないと思うのですがいかがでしょう。

長崎県美術館HPの「美術館の常設展示作品群」作品解説は次のとおり。
美術館棟南端の6号橋前の池
サルバドール・ダリ 「ガラのニュートン」1985年 ブロンズ H385-W210-D133
〔作品解説〕
絵画作品《Fosfene de laporte》(1932年)に描かれている一人物を彫刻化したもの。限定数12躰鋳造される内の1躰。ダリのドローイングとデザインに従い、ダリ監督製作によって作られたオリジナルのワックスモデルの寸法にあわせつくられた。本作品自体は、1989年8月16日〜11月5日までチューリッヒ美術館KUNSTHAUSにて紹介された。
■ 素材・技法 ブロンズ  ■ サイズ 重量約400kg H385.0 W210.0 D133 基盤部H8 W120 D133

長崎学さるく”居留地界隈の洋館群と標石(境・地番標)めぐり”(2) 平成22年3月

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長崎学さるく”居留地界隈の洋館群と標石(境・地番標)めぐり”(2) 平成22年3月

平成22年3月6日(土)曇り。居留地界隈の洋館群と標石(境・地番標)めぐり。参加16人。
湊公園9時30分発ー広場場ー館内ー東山手ー大浦天主堂ー南山手レストハウス(昼食)ーグラバー園ー東琴平ー浪の平ー南山手地区町並み保存センター15時着(徒歩距離約8km)

安政6年(1859)の長崎開港により長崎市内に外国人居留地が造られ明治32年まで存続した。大浦・東山手・南山手・浪の平などに残る居留地時代の主な保存洋館群と、居留地境や地番標の標石約80本を訪ねた。講師はさるくガイド西岡悟氏ほか。
各標石の写真と所在地図は、本ブログの「長崎の外国人居留地跡標石」の項を参照。

今回、新たに浪の平のドンドン坂の途中で、南山手「十七番」の地番標が見つかった。アパート入口の三角溝に渡した板石の下に隠れていた。
次回は3月14日(日)に”藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり”午前9時30分為石バス停集合。
宮さんの参加記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23858267.html

長崎学さるく”居留地界隈の洋館群と標石(境・地番標)めぐり”(1) 平成22年3月

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長崎学さるく”居留地界隈の洋館群と標石(境・地番標)めぐり”(1) 平成22年3月

平成22年3月6日(土)曇り。居留地界隈の洋館群と標石(境・地番標)めぐり。参加16人。
湊公園9時30分発ー広場場ー館内ー東山手ー大浦天主堂ー南山手レストハウス(昼食)ーグラバー園ー東琴平ー浪の平ー南山手地区町並み保存センター15時着(徒歩距離約8km)

安政6年(1859)の長崎開港により長崎市内に外国人居留地が造られ明治32年まで存続した。大浦・東山手・南山手・浪の平などに残る居留地時代の主な保存洋館群と、居留地境や地番標の標石約80本を訪ねた。講師はさるくガイド西岡悟氏ほか。
各標石の写真と所在地図は、本ブログの「長崎の外国人居留地跡標石」の項を参照。

今回、新たに浪の平のドンドン坂の途中で、南山手「十七番」の地番標が見つかった。アパート入口の三角溝に渡した板石の下に隠れていた。
次回は3月14日(日)に”藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり”午前9時30分為石バス停集合。
宮さんの参加記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23858267.html

長崎外の古写真考 目録番号:3097 西本願寺(5) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3097 西本願寺(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3097 西本願寺(5)
〔画像解説〕
知恩院経蔵を御影(ごえい)堂南側より石燈籠をはさみ東に望む。経蔵は元和5年(1615)の創建で、本瓦葺で二層の宝形造である。裳階部分には壁・扉・窓がなく吹放しで、柱が立ち並んで周りを取り巻く「周柱式」が用いられている。背後には華頂山が迫る。左方から御影(ごえい)堂の屋根が姿を見せる。

目録番号:1998 寺の広場
〔画像解説〕
知恩院境内を霊塔南東側より北東に望む。石畳の参道が前方より一直線に延び、左方の本堂の御影(ごえい)堂、右方の経蔵へと続く。背後に華頂山をいただく。御影堂前には洋服にステッキを持った男性の姿、経蔵前には2対の石灯籠が見える。御影堂は寛永16年(1639)の創建で、入母屋、本瓦葺の大堂である。

目録番号:1329 知恩院

■ 確認結果

目録番号:3097「西本願寺(5)」は、画像解説では「知恩院」としながら、タイトルが「西本願寺」となっている。
目録番号:1998「寺の広場」は、タイトルを他の作品にあわせ「知恩院( )」としてよいのではないか。
目録番号:1329「知恩院」も同じ。

長崎外の古写真考 目録番号:3046 寺(6) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3046 寺(6) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3046 寺(6)

目録番号:3062 寺(8)

目録番号:4382 黒谷金戒光明寺の石段(1)  関連作品 目録番号:4919(2),4953(3)
〔画像解説〕
黒谷金戒光明寺の石段を蓮池院(熊谷堂)北側の参道より東に望む。石段両側の斜面には数多くの墓石が建ち並び、親子連れが石段を登っていく。石段上には樹林でさえぎられた文珠塔がそびえる。石段中腹左に見える阿弥陀如来座像は移築され現存しない。 文珠塔は三重の塔で、寛永11年(1634)に徳川秀忠の菩提を弔うために建立された。

■ 確認結果

目録番号:3046「寺(6)」と目録番号:3062「寺(8)」は、次の目録番号:4382 「黒谷金戒光明寺の石段(1)」の画像解説にあるとおり、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」である。
「金戒光明寺」は、知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つ。承安6年(1175)法然が比叡山より下りてこの地に庵を建てたのが寺の起こりと伝えられる。新選組発祥の寺で本陣も置かれた。

長崎外の古写真考 目録番号:2750 横浜からの富士山(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2750 横浜からの富士山(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2750 横浜からの富士山(3)
〔画像解説〕
地点は定かでないが、富士山の大きさや山容、その他の地形から見て、富士川の流域のように見える。

■ 確認結果

目録番号:2750「横浜からの富士山(3)」は、画像解説のとおり、「富士川」の流域ではないだろうか。タイトル・撮影地域とも調整要。
別作品として、目録番号:4409「富士川からの富士山(7)」などあるので参照。
現在の写真は、富士山周辺トラベルガイドから。撮影地不明。