月別アーカイブ: 2010年3月

長崎外の古写真考 目録番号:1485 滝(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1485 滝(4) 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1485 滝(4)
〔画像解説〕
場所を特定する手掛かりはない。右手前、後ろ姿の男は髷を結っている。滝の上方に3人の男が点在しているが、その男たちと比べて、この滝はそれほど大きくはないことが分かる。

目録番号: 284 日光慈観滝(1)  関連作品 目録番号:2761(2)、2876(3)、4359(4)
〔画像解説〕
日光清滝の荒沢の上流には裏見の滝、初音の滝、さらに上に慈観の滝がある。慈観の滝は日光山の僧慈観により発見された。この滝は林道工事の為流れが変えられ、現在涸滝となっている。

■ 確認結果

目録番号:1485「滝(4)」は、目録番号: 284「日光慈観滝(1)」などにあるとおり、日光荒沢川の上流、裏見滝の上にかかる「慈観滝」であろう。高さ15m、幅3m。
日光市立図書館所蔵「版画日光名勝十二景」(発行年月日:明治14年)に、「11 慈観滝」が描かれている。 http://lib.nikkocity.jp/picture/doc.shtml?1131:1
現在の写真は、日光野鳥研究会HPの2001年5月観察会報告から。

長崎外の古写真考 目録番号:3945 箱根宿か

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3945 箱根宿か 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3945 箱根宿か
〔画像解説〕
山の形や川の流れ、建物等から判断して、箱根で該当するところはないように思われる。博捜すれば、あるいは、どこか当てはまる場所があるかも知れないが、今現在不明である。

目録番号: 293 大山
〔画像解説〕
英語で「大山の景色」と記入されているが、丹沢山系の雨降山大山寺の近くの登山口のひとつ。この寺は修験の道場で、参拝者が多く、山麓には門前町が発達し、宿坊が立ち並んでいた。

■ 確認結果

目録番号:3945「箱根宿か」は、次と同じ写真である。目録番号: 293「大山」の画像解説が正しかったら、「丹沢山系の雨降山大山寺の近くの登山口のひとつ」となるだろう。神奈川県伊勢原市大山か。大山ケーブルカーの登山口、追分あたりの旅館と思われる。この川は大山鈴川。
現在の写真は、伊勢原市観光協会HPから。同説明は次のとおり。

大山阿夫利神社下社
創建は紀元前97年崇神天皇の頃と伝えられ、大山神(おおやまずみのかみ)、雷神(いかづちのかみ)、高おかみを祭神とし、海人たちの守り神、鳥石楠船神(とりいわくすぶねのかみ)を合祀しています。本殿は山頂にあり、中腹に下社があります。

長崎外の古写真考 目録番号:1230 寺(2) 

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1230 寺(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1230 寺(2)

目録番号:3098 知恩院三門(5)
〔画像解説〕
知恩院三門を南西側から北東に望む。門前南方の小高い松の木は風のためか少し横倒しになり、足下には伐採された松の木の丸太が無造作に置かれている。知恩院三門は5間3戸、重層、入母屋造、本瓦葺で、元和5年(1619)に徳川家忠によって建立された日本最大の楼門である。

目録番号: 827 知恩院三門(2)
〔画像解説〕
京都市東山区新橋通。知恩院は、法然上人の吉水禅房にはじまる、浄土宗総本山。三門は、徳川秀忠による日本最大の楼門である。元和5年(1619)着工、2年後完成している。写真は、正面から松の木々ごしに、三門の全容を仰ぎ見る。楼上の「華頂山」の額は霊元天皇宸筆という。軒先に三手先の垂木の木口が白く整然と並んでいる。石段の下、及び中程に人影が見える。

■ 確認結果

目録番号:1230「寺(2)」は、次の同じスチルフリード(?)の目録番号:3098「知恩院三門(5)」、A.ファサリ の「目録番号: 827「知恩院三門(2)」にあるとおり、京都市東山区林下町にある「知恩院三門」だろう。

現在の写真は、京都観光サイト「京都じっくり観光」から。同説明は次のとおり。
知恩院は浄土宗の総本山であり、鎌倉時代に法然上人が住まいし、念仏の教えを説いたところ。現在の寺域は、徳川家康、秀忠、家光によって形成された。五間三戸二階二重門という三門はわが国最大で、楼上には「華頂山」の額が掲げられている。

長崎外の古写真考 目録番号:3482 博覧会場の寺山門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3482 博覧会場の寺山門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3482 博覧会場の寺山門

■ 確認結果

目録番号:3482「博覧会場の寺山門」は、「撮影地域:未詳」「撮影時期:未詳」で画像解説がない。寺山門の柱に掲げられた看板の字を拡大すると、たしかに「博覧会」とある。
この寺は京都府下京区にある「西本願寺」で、明治4年(1871)に開かれた日本初の博覧会の会場となった写真である。
この項は次のウェブに記事がある。 http://www.tanken.com/kyoto.html

観光都市「京都」誕生

明治2年(1869)に東京へ都が移ると、京都は人口が急減し、産業も衰退の一途をたどってしまいました。
そこで、京都復興の手段として考案されたのが、博覧会の開催でした。明治4年(1871)に開かれた日本初の博覧会は好評で、翌年には、「第1回京都博覧会」としてさらに大がかりのものが開催されたのです。当時のビラにはこう書いてありました。

《西洋諸国に博覧会とて、新発明の機械古代の器物等を普(あまね)く諸人に見せ、智識を開かせ、新機器を造り、専売の利を得さしむる良法に倣ひ、一会を張らんと、御庁に奉願、和漢古器を書院に陳列し、広く貴覧に供せんことを思ふ……》(原文カタカナ)

西本願寺で開催された博覧会。右は入口部分の拡大写真(明治4年)…

長崎外の古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 912 海岸の風景(1)
〔画像解説〕
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる

■ 確認結果

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、かなり大きな漁村の港で、背後に高い山が写っている。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」の掲載写真とわかった。九州大学デジタルアーカイブを見ていたら、同じ写真がVol.2 No.6 1871/8/16 にあった。「指宿付近からの開門岳」と説明している。

新聞掲載写真の下には、「ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF」の解説英文がある。「NEAR CAPE」は「近く 岬」だろうか。「ODOMIWARRA」「CHICHAKOFF」がわからない。
「指宿付近からの開門岳」では、手前に池田湖があると景色は似るが、海岸とすると指宿の浜あたりとなり、開門岳から遠くなる。参考のため指宿からの写真を、鹿児島県総合観光サイトから載せた。九州大学に撮影場所の見解があれば、教えていただきたい。

この項は、次記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/3108

長崎外の古写真考 目録番号:1478 寺(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1478 寺(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1478 寺(3)
〔画像解説〕
茅葺屋根の御堂である。左手前のつるべ井戸で、髷を結った男が水を汲みあげている。この寺の墓守なのであろうか。

■ 確認結果

目録番号:1478「寺(3)」は、前に見た目録番号:1086「寺(1)」に似た茅葺屋根の御堂である。造りが少し小さく、別な寺と思われる。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」に掲載された写真を見ていくと、Vol.1 No.19
1871/3/1に「TEMPLE GANJO-JI,TOBE.」があった。

願成寺(がんじょうじ)は、神奈川県横浜市西区西戸部町にある高野山真言宗の寺院。明治までは杉山神社の別当寺としてくらやみ坂の下(現・西区役所付近)にあり、横浜開港後に新設された神奈川奉行所の宿舎にもなった。 また、くらやみ坂脇には戸部監獄と刑場が置かれ、外国人殺傷事件で処刑された人々の墓がある。

九州大学デジタルアーカイブから「ザ・ファー・イースト」の「TEMPLE GANJO-JI,TOBE.」写真を最後に載せたが、目録番号:1478「寺(3)」は、この寺である可能性が考えられる。撮影の向きは違うが、茅葺屋根の御堂の造りや左手前立木は似ている。
現在の写真は、横浜市西区HPから「保土ケ谷道」。

長崎外の古写真考 目録番号:1086 寺(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1086 寺(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1086 寺(1)
〔画像解説〕
“写真外に “”TAIMA TEMPLE,NEAR TANA “”とある。当麻寺のことであろうか、よく知られる当麻寺にはこのような建造物は見られない。 “”TANA “”という地名も未詳。”

■ 確認結果

地名「タイマ」は全国的に見られる。大和の当麻寺は、相模国の当麻山無量光寺、陸奥国会津国河の当麻山東明寺とともに、「日本三当麻」といわれている。
目録番号:1086「寺(1)」には、写真外に””TAIMA TEMPLE,NEAR TANA “”とあるのは、横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」のVol.2 No.10 1871/10/16に掲載された写真だからである。 「””TANA “”という地名も未詳」らしいが、インターネットで「TAIMA TEMPLE,NEAR TANA」と検索するとすぐわかった。 

「貧忘録」ブログ氏の記事がある。http://blogs.dion.ne.jp/hinboh/archives/2009-10-1.html
2009年10月28日「Taima Temple」の記事。当麻寺というと奈良県葛城市の古刹が思い浮かぶが、紙面の少し上(Vol.2 No.8 1871/9/16)に“相模川、田名”というのがあるので、相模川沿い、田名の少し南にある「当麻山無量光寺」だと思い調べられたら、『当麻山の歴史』(当麻山無量光寺)に次のように記していたそうである。

“「ザ・ファー・イースト」は明治三年(1870)五月一日、絵入り隔週刊英字新聞として横浜で創刊され、明治六年七月一日からは月刊にかわり、明治八年八月三十一日号まで続いた。いわゆる画報の草分けで、発行者はイギリス人ジョン・レディー・ブラック(1827-1880)であった。「ザ・ファー・イースト」は。題名の示すように日本を主として、中国・台湾・朝鮮など極東を取材範囲とし、読者対象を主として極東居留地外国人・およびイギリス本国在住の同国人においているが、内容はニュースのほか、各地の紀行文・探訪記・風俗習慣等で、全巻六百余枚の写真を加えて、非常に内容が豊富である。
当麻山の写真がこれに掲載されているのは、明治三年六月十八日・十九日の両日、イギリス人マック・レガーとその友人がカヌーで市域田名から相模川を下った際に撮影したものと思われる。カヌーはイギリス本国から横浜へ取り寄せ。それを陸路人夫を使用して田名まで運ばせたもので、彼らは田名から相模川をくだって江の島へ行き、それから金沢を経て横浜に帰った”

したがって、目録番号:1086「寺(1)」は、現在の神奈川県相模原市当麻にある「当麻山無量光寺」の当時の姿を撮影した作品となるだろう。現在の写真は、HP「さがみはら百選」から。

(追 記 2012年2月26日)
長崎大学のデータベース上では、「当麻寺のことであろうか、よく知られる当麻寺にはこのような建造物は見られない。 “”TANA “”という地名も未詳」と解説し、イースト写真との説明はない。
しかし最近になって、長崎大学古写真研究会編「古写真研究 第1号」長崎大学附属図書館平成6年発行62頁に、当時、岡林助教授らの次の研究があることを見つけた。
和名「田名付近の当麻寺」だから、当時の当麻寺の建物に間違いないだろう。同じ大学の研究なので、見解を統一してほしい。

第2表 長崎大学附属図書館が所蔵する「The Far East」の写真目録の中
通し番号  52  (掲載)年月日  1871.10.16  
欧  名  TAIMA TEMPLE,NEAR TANA
和  名  田名付近の当麻寺
整理番号  24−38
タイトル  寺(1)〔不詳〕

長崎の古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5339 寺(11) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5339 寺(11)

目録番号:5358 寺(12)

目録番号:6034 本蓮寺の本堂

■ 確認結果

3作品ともほぼ同じような写真。長崎市筑後町にある原爆焼失前の「本蓮寺本堂」を撮影しているので調整要。目録番号:5339「寺(11)」と目録番号:5358「寺(12)」は、なぜ「撮影地域:未詳」のまま、タイトルを変更しないのだろうか。
この項は2010年1月9日指摘済。https://misakimichi.com/archives/2172

その際、目録番号:5339「寺(11)」の外に、目録番号:5358「寺(12)」の作品があることを気付かなかったため再掲する。「5338」は墓地を写した「本蓮寺」だが、本堂を写した番号が紛らわしい「5358」もあったのだ。

長崎の西空の夕日  10−04

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長崎の西空の夕日  10−04

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1      平成22年 2月13日の 9時57分頃から  朝空の虹
写真  2〜 5  平成22年 2月21日の17時56分頃から
写真  6〜 7  平成22年 2月26日の18時36分頃から
写真  8      平成22年 2月28日の18時04分頃から