長崎外の古写真考 目録番号:1470 東海道大橋からの富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1470 東海道大橋からの富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1470 東海道大橋からの富士山
〔画像解説〕
キャプションにある「大橋」に該当する地名は見あたらない。あるいは中央の橋の名称か。その橋と、対岸の二本の松ごしに、やや霞んだ富士山の遠景がとらえられている。

目録番号: 169 鈴川河合橋からの富士山(1)
〔画像解説〕
沼川(ぬまがわ)を渡る旧東海道に架けられた河合橋(かわいばし)の南側から富士山を撮影した写真である。沼川は浮島沼(うきしまぬま)を水源とし、この橋の下流で田子の浦(たごのうら)に注ぐ。架橋部分は、元々渡船箇所であったが、寛文年間(1661〜1673)に架橋された。河合橋は江戸時代から高欄の板橋であったが、高欄に斜格子が入り、橋板が水平に近づく点や既に電信柱が存在するため、明治中期頃の撮影と考えられる。橋の手前には茅葺きの建物が写るが、橋と建物の間には小さな船着場があり、荷物の積み下ろしが行われていた。橋の向こうは東海道の松並木で、この先、吉原宿(よしわらしゅく)へ向かうと富士山が道の左側に見える「左富士」となる。この写真は、静岡出身の写真師水野半兵衛(みずのはんべえ)の残したガラス乾板にあるため、水野の撮影したものである。

目録番号: 206 鈴川河合橋附近からの富士山 
〔画像解説〕
鈴川は元吉原ともいい、吉原の駅が寛永16年(1639)水害をさけて、移動したのち、鈴川駅が作られたという。富士に最も近い鉄道の駅があり、海浜には田子の浦が広がっている。

目録番号:2913 鈴川河合橋からの富士山(2)
〔画像解説〕
沼川(ぬまがわ)を渡る旧東海道に架けられた河合橋(かわいばし)の南側から富士山(ふじさん)を撮影した写真である。沼川は浮島沼(うきしまぬま)を水源とし、この橋の下流で田子の浦(たごのうら)に注ぐ。架橋部分は、元々渡船箇所であったが、寛文年間(1780〜1780)に架橋された。この写真の河合橋には「河合橋」と名前が記され、単純な二段の高欄で、橋板は緩く弧を描く上、橋のたもとに船着場の建物がないことからも目録番号169(整理番号4-20)の写真の河合橋より少し古い時期のものと考えられる。橋の向こうには東海道の松並木が見え、その間には電信柱が消された痕跡が残る。橋の上にいる人力車や大八車の人々の様子は不自然であり、モデルを使っての撮影であろう。静岡出身の写真師水野半兵衛(みずのはんべえ)は、時期を変えて河合橋を何度も撮影しているため、この写真も水野の撮影の可能性がある。

■ 確認結果

目録番号:1470「東海道大橋からの富士山」は、目録番号: 169「鈴川河合橋からの富士山(1)」などにあるとおり、この橋は「鈴川河合橋」のことだろう。
現在の写真は、「絵葉書にみる東海の富士」から。同説明は次のとおり。

河合橋は、鈴川駅(現JR吉原駅)北方200m、沼川にかかる東海道の橋。橋の上の馬車は、鈴川−大宮間を結んだ富士馬車鉄道で、明治23年開業。当時、富士郡南部唯一の交通機関だった。橋の上には、北に向かって右側に幅2フィートの線路がひかれていた。そのため、鉄道馬車は左側通行、馬力は右側通行に見える。